曽我逸郎
曽我さん、こんばんは。リュウです。

よかった。安心しました。
輪廻の話は、また改めてやりましょう。
話を聞くぐらいならいくらでも聞きますので、その他の話題でも思い切りストレートなメールを送って下さい。
お待ちしています。
ありがとうございます。
お忙しいでしょうから、お気遣いなく。
返信は急がなくていいですよ。

HPの意見交換のページで、
taka kudouさんとのやりとりを読ませていただきました。
僕は彼とほぼ同意見です。
ですから、同じようなやりとりは時間の無駄ですからやめましょう。

僕は30年ほど石のような唯物論者でしたが、
180度の発想の転換をし、10年ほど経過した者です。
僕は唯物主義でこの世のいろいろなことを考え、
疑問にぶつかり、苦しんだ末、高橋信次という人の本に出会いました。
彼はGLAという宗教団体の主宰だった霊能者で、
僕にとっては彼の本が霊的なものを知るきっかけでした。
「人間釈迦」という本もなかなかよいです。
次に出会ったのが taka kudouさんも挙げていた
「シルバー・バーチの霊訓」でした。
彼は3000年前に地上にいたレッドインディアンだそうですが、
この霊界通信で言われていることは、とてもでっち上げとは思われない
納得のいく内容でした。
この本は現在、スピリチュアリスト仲間のバイブル的存在です。
全てを鵜呑みにするつもりはないのですが。

taka kudouさんとのやりとりから思うことは、
曽我さんはやはり霊、霊界、死後の世界の存在を否定することを大前提として考えているということです。
僕たちから見ますと、なぜそこにこだわるのかとても不思議なのです。
唯物論者から唯心論者になった僕は一つの理論を考えました。
それは、この世には霊的なことを信じる人と信じない人という
2種類の人間がいるということです。

僕の経験から導いた論理では、この世で自分は終わりだと思っている唯物論者は
物質的なものを求め、唯心論者は霊的なものに価値を見いだす。
結果、やがては朽ち果てる物質を求めても
それのみでは虚しいだけ、というものでした。
そして、唯物論者、唯心論者のように、霊的なものがあるかないか、
どちらかに仮定して考えられる人は発想の仕方としては近い。
一番わからないのは、どちらでもよいという人であるという結論になりました。
しかし、その分類でいっても曽我さんはそのどれにも当てはまらないのかもしれない、
もっとも不思議な人ということになるかもしれません(笑)。
他の仏教系のHPでも似たような発想の人がいらっしゃいましたので、
仏教を研究された人はそういう発想になるようです。
失礼かも知れませんが、僕たちから見ると、
喜んで出口のない迷路にはまっていると見えなくもありません。

ただ、霊的なことを信じようと信じまいと
結局はその人がこの世をどう生きたか、何を考え、何をなしたかが全てですから、
自分が納得して生きられるのなら、どう考えたっていいわけです。
霊界の存在なんて、死ななければ本当にはわからないことですしね。
ですから、皆がそれぞれに自分なりに考え、悩み、納得し、
悔いのないように生きていくことが大事なのだと思います。
皆が同じ考えになったら気持ち悪い世界になりそうですし。

また一緒に考えていってください。
リュウ


リュウさんへの返事

        2001、2、7、

 返事遅くなりました。すみません。

 頂いたメールで、思ったことを順番に書きます。

 高橋信次さんという方は、有名な方のようですね。私もお名前は雑誌で目にしたことがあります。御自身の本は読んでいませんが、お嬢さんの本は、たまたまあるところで手にとって半分ほど読みました。残念ながら目を開かれる!という内容ではありませんでしたが、、、。しかし、taka kudouさんに、心霊主義お勧めの本を一度読んでみるとお約束していますので、「シルバー・バーチの霊訓」を読んでみなければと思いました。

 「霊、霊界、死後の世界の存在を否定することを大前提としてこだわるのが不思議だ」、と書いておられます。その理由は単純です。霊、霊界、死後の世界は、釈尊の無我・縁起の教えに反すると考えるからです。

 心霊主義者の方は、心霊主義か唯物論か、ふたつの分類しかお持ちでないように感じます。心霊か物質かどちらを実体とみるか、二者択一の議論だと思います。私は、どちらも実体ではないと考えます。私の立場は、唯現象論です。物質は勿論、霊魂にも実体はない。しかし、心という現象は発現している。否、心という言葉は、実体的な響きが強すぎるので、意識とか感情とか気分とかと言った方がいいのかもしれません。
 有るのでもなく、無いのでもない。中道とは、唯現象論の立場だと思っています。
 そして、意識が現象であると同時に、肉体も我々の執着の対象(富、異性、地位・名声、、、、)も、すべては無我なる縁起の現象なのです。ですから、「真の」唯現象論者は、なにものにも執着することはできません。なぜなら、自己も肉体も物も変化し終わる現象であるから。地位や名声や権力も、実体のないはかない現象であるから。
 ただし、「真の」唯現象論まで徹底するのは、たやすいことではありません。日常生活をただし(戒)、瞑想を重ね(定)、法の無我・法の縁起を学び(戯論レベルの慧)、意識の指向性停止体験によって自己(ノエシス)の無我・縁起を知る(完成された慧)が必要だと考えています。

 意識は何に縁起しているのか。まず肉体に縁起しています。それは、系統発生的にも個体発生的にも、肉体が意識に先立つという意味です。炎が薪において起こっている現象であるように、意識は、肉体において起こっている現象です。しかし、ひとたび意識が発現すれば、意識が肉体に縁を及ぼすこともある。たとえば病は気から。「気分」という現象は胃に穴をあけることもあるし、病気を治すこともある。極端な場合は自殺によって肉体を、同時に自分を、滅ぼすこともある。
 そして、意識とか心と呼ばれる現象のあり方は、経験・学習によっても縁を受けます。友とよい交流をし、良い本に親しみ、良い経験を重ねれば、意識のあり方も良くなる。逆の場合は、大抵逆の結果になるでしょう。
 もうひとつ、意識の縁となっている重要な現象は、意識自身です。炎の熱が縁となって次の炎を生み出し、燃え続けるように、意識は、かすかでも常に痕跡を残して以降の意識に影響を与える。自分を対象化しノエマとして分析し反省し、考え方・行動に癖をつけていくことで、意識的に意識を改変していくことができます。

 私は、脳科学に興味を持っています。理由は、霊魂や霊といった実体的な「物」を導入することなく、意識・感情などの現象を、脳という肉体の「物的現象」(シナプス可塑性とか、ニューロン群を伝わっていくインパルスのパターンとか)に縁起する「霊的現象」として説明してくれると期待しているからです。つまり、脳科学は、釈尊の残して下さった無我・縁起(・空)の教えを、方便として説明してくれる戯論として働いてくれるのではないかと考えています。

 またご意見・ご批判を下さい。

リュウ様

                 曽我逸郎

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