リュウ
リュウさんへの返事
リュウ様
金曜日の夕方から家族の所に帰っていて、先程(1月8日)一人暮らしのねぐらに戻って、メールを読みました。
新世紀の幕開けの最初に届いたメールは、重い内容でした。
正直なところ、私の身にあまるご質問です。これに答えるだけの器量は、私にはありません。まだまだ自分のことだけを、それも、だましだましごまかしながらやっているにすぎません。
ホームページを始めたのも、自分の現時点の考えを読んでもらい、意見や批判をもらって、検証し解体し深化させたいというはなはだ身勝手な動機でした。
ただ、私のホームページが縁になって、仏教の教えに興味を持ち、信じるのではなく自分自身で考える人(犀の角)がひとりでも増えれば非常にうれしいことだとは思っています。
ですから、リュウさんも仏教に関心を持って頂けたのなら、御自身で問い、考え、救いを発見して頂ければと思います。仏教=無我・縁起の教えは、リュウさんにとっても必ず救いとなる筈です。
でも、仏教を考えるといっても、どこから手をつけてよいのかと悩まれるかもしれません。それに、「仏教」と世に呼ばれていても、そこにはいろいろな非仏教がはびこっているのが実状です。仏教を装った反仏教を学ばれる可能性があるなら、私にメールを頂いたのも何かの縁、私のホームページを批判的に読むことから始めて頂ければ、と存じます。真の仏教の核心がここにある!とは申しませんが、核心のそばをうろうろしているつもりではいるので、本当にそうなのか、疑り深く探って頂ければと思います。仏教という山に登る最初の踏み石にして下さい。その後は、御自身の興味・決断で進んで頂いて、発見されたことを私にも教えてもらえればとてもうれしく思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はぐらかしたような返事でお怒りでしょうか?
それとも、仏教について読んだり考えたりするなんて<めんどくさい>とお感じでしょうか?
実のところ、頂いたメールでは、リュウさんがなにをどうお考えなのか量りかねています。分からないまま適当に書けるテーマではありません。「めんどくさいので自殺してしまいたい」という気持ちをもう少し詳しく教えてもらえませんか?
「めんどくさい」は「おもしろい」の反対でしょうか? おもしろくないことをしなければならないのが「めんどくさい」ということでしょうか? 自分にとってどうでもいいことをしなくてはいけないのが、めんどくさいことでしょうか?
学生の頃、なにもかもどうでもいいことに思えていました。自分では何かずっしりと手応えのある事をしたいのに、やるに値することが見つからない。自分を捧げる価値が欲しい。神でも、革命でも、芸術でも、金でも、なんでもいい。でも、どれもつまらない。世間の人がやっていることも、くだらないこととしか思えませんでした。当時の私の考えでは、世間の人も自分達のやっていることのくだらなさを薄々感づいていて、それを向き合うことが恐いので、ますますつまらない時間潰しに明け暮れたり、一見立派そうな仕事に没頭しているのだと思っていました。お互いに追い立てあって、、。要するに、人間のしていることはすべて、むなしさをごまかすむなしいあがきだと思え、いつもいらいらと怒っていました。
ひょっとすると、リュウさんも同じように感じておられるのでしょうか?
私の場合、雲や大きな木を見上げることが、怒りを鎮めてくれました。
そして、仏教を考えることで、価値なく生きる術を見つけられつつあるように感じています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
死というと、車に轢かれた野良猫達を思い浮かべます。寒さに震え、飢えに苦しみ、けんかしたり、脅されたり、けして楽しいことの多い毎日ではなかったでしょう。でも、ぼろ雑巾のように道路にへばりつけられているのを見ると、生きている時の、伸びあくびをしたり、フーッと毛を逆立てたり、足を上げて股をなめたり、高い塀からすとんと飛び降りたり、そんな様々なふるまいをしていたであろう頃からの変わりように、ひどくつらい切ない気持ちになります。
これまでに、いくつか同年代の人の死に出会いました。事故や病気で突然亡くなった友人、先輩、後輩。逆に早々と病の宣告を受けて、死と向き合い、おそらく死と議論しながらゆっくりと死んでいった友。
皆、他ならぬ自分が死なねばならない理不尽・不条理に怒りながら死んでいったはずです。あるいは、その暇さえ与えられなかったかもしれない。
死ぬことはいつでもできます。そして、遠くない将来、100%間違いなく死はやってきます。あわてることはありません。
どうか仏教=無我・縁起を研究してみて下さい。ただし、無我=縁起を、安直にニヒリズムとしてとして理解するのではなく、世界に開かれていることとして感じて下さい。そうすれば、多分救いを見つけて頂けるだろうと思います。
気持ちに届くメールを書けたでしょうか?
めんどくさくなければ、めんどくさい気持ちについて教えて下さい。他のことでも結構です。次のお便りをお待ちしています。
ではまた。
2001、1、10、 曽我逸郎
リュウさんからの2通目(2000年1月11日)
曽我様
リュウです。ご返事ありがとうございました。
僕の乱暴な問いかけに対し、こんなに丁寧なご返事がいただけるとは
思っていませんでしたので、恐縮しています。
金曜日の夕方から家族の所に帰っていて、先程(1月8日)一人暮らしのねぐらに戻って、メールを読みました。
新世紀の幕開けの最初に届いたメールは、重い内容でした。
僕が最初だったんですか。
100年に一度の大事なときに失礼致しました。
正直なところ、私の身にあまるご質問です。これに答えるだけの器量は、私にはありません。まだまだ自分のことだけを、それも、だましだましごまかしながらやっているにすぎません。
ホームページを始めたのも、自分の現時点の考えを読んでもらい、意見や批判をもらって、検証し解体し深化させたいというはなはだ身勝手な動機でした。
とても真面目で謙虚な方なんですね。
すいません。僕はちょっと嘘をつきました。現在、自殺するつもりはありません。
以前はする可能性もあったと言い替えれば本当かもしれませんが、
それでも実行することはなかったでしょう。
曽我さんのHPを拝見し、僕の意見と違ったもので、曽我さんの理論では
こういった質問に対してどういう見解を示されるのかということが
知りたかったんです。
人を試すようなことをしてすいませんでした。
でも、これを機会に意見交換していただければ嬉しいです。
ただ、私のホームページが縁になって、仏教の教えに興味を持ち、信じるのではなく自分自身で考える人(犀の角)がひとりでも増えれば非常にうれしいことだとは思っています。
信じるのではなく、自分自身で考えることが大切、本当にそう思います。
宗教のもっとも危険なことは盲信することですね。
そうなると自分で責任を持てずになんでも人のせいにしてしまうんですね。
ですから、リュウさんも仏教に関心を持って頂けたのなら、御自身で問い、 考え、救いを発見して頂ければと思います。仏教=無我・縁起の教えは、リュ ウさんにとっても必ず救いとなる筈です。
でも、仏教を考えるといっても、どこから手をつけてよいのかと悩まれるかもしれません。それに、「仏教」と世に呼ばれていても、そこにはいろいろな非仏教がはびこっているのが実状です。仏教を装った反仏教を学ばれる可能性があるなら、私にメールを頂いたのも何かの縁、私のホームページを批判的に読むことから始めて頂ければ、と存じます。真の仏教の核心がここにある!とは申しませんが、核心のそばをうろうろしているつもりではいるので、本当にそうなのか、疑り深く探って頂ければと思います。仏教という山に登る最初の踏み石にして下さい。その後は、御自身の興味・決断で進んで頂いて、発見されたことを私にも教えてもらえればとてもうれしく思います。
ありがとうございます。
僕は他の仏教関係のHPも見ましたが、人間はこの世で死んだら消えてなくなるといったような教えに感じられるのが納得いきません。
ブッダがそんなことを説いたとも思えません。
僕は自分がかわいいし、人間はこの世で終わりだとすれば死ぬのが怖いんです。
自分が居なくなった後の世の中なんてないのと同じで意味がありません。
自分がいなくなるのなら、人や社会のことなんかどうでもよく思います。
僕にとっては自分の存在が全てで、
ごまかしや気休めみたいなことは言っていたくないんです。
キリスト教も死後のことは曖昧なので、現在のキリスト教も信用していません。
はぐらかしたような返事でお怒りでしょうか?
それとも、仏教について読んだり考えたりするなんて<めんどくさい>とお感じでしょうか?
実のところ、頂いたメールでは、リュウさんがなにをどうお考えなのか量りかねています。分からないまま適当に書けるテーマではありません。「めんどくさいので自殺してしまいたい」という気持ちをもう少し詳しく教えてもらえませんか?
自分が死んで消えてなくなるなら、苦労してこの世を生きたくないんです。
さっさと自分も死んで地球も宇宙もみんな消えてなくなっちゃった方が
すっきりしていいと思うんです。はじめから宇宙も地球も人間も
生まれなければよかったのにと思うわけです。
飯食ってうんこしてセックスして子供を残して死んでいくのが
人のさだめだとすれば、ばかばかしくてやってられないと思うんです。
僕にとってはそんなこと、何にも楽しくないから。
「めんどくさい」は「おもしろい」の反対でしょうか? おもしろくないことをしなければならないのが「めんどくさい」ということでしょうか? 自分にとってどうでもいいことをしなくてはいけないのが、めんどくさいことでしょうか?
面白くないことは勿論めんどくさいけど、
面白いことをやるのもめんどくさいですよ。
面白いという感情も人によって違うということは、真理じゃないと思うからです。
どうせ死ぬならいくら趣味とかやったって、一時的なごまかしに思えるし。
後生の人に何か残せばいいと思えるほどお人好しじゃないし。
名誉も要らないしね。
学生の頃、なにもかもどうでもいいことに思えていました。自分では何かずっしりと手応えのある事をしたいのに、やるに値することが見つからない。自分を捧げる価値が欲しい。神でも、革命でも、芸術でも、金でも、なんでもいい。でも、どれもつまらない。世間の人がやっていることも、くだらないこととしか思えませんでした。当時の私の考えでは、世間の人も自分達のやっていることのくだらなさを薄々感づいていて、それを向き合うことが恐いので、ますますつまらない時間潰しに明け暮れたり、一見立派そうな仕事に没頭しているのだと思っていました。お互いに追い立てあって、、。要するに、人間のしていることはすべて、むなしさをごまかすむなしいあがきだと思え、いつもいらいらと怒っていました。
ひょっとすると、リュウさんも同じように感じておられるのでしょうか?
当たりです。どうせ死ぬなら何をやったって虚しい。
僕はいずれ自分がいなくなるのなら、
自分のためにも人のためにも何も努力する気は起きません。
私の場合、雲や大きな木を見上げることが、怒りを鎮めてくれました。
そして、仏教を考えることで、価値なく生きる術を見つけられつつあるように感じています。
きっと自然の中に人に教えるものがあるからだと思います。
僕もそれは感じています。だから生きる気にもなったんですけどね。
僕と曽我さんの違うところは、人間が死んでなくなるか、なくならないかです。
曽我さんのHPのどこかに、
人は死んだら無くなるということを前提にしているから成り立っている考えであると
書かれている箇所があったかと思います。
僕は、人は死んでもなくならないということを前提にいろいろ考えています。
似たようなことを考えているのに前提が正反対というところが
とても不思議だし、面白いところです。
だからといってお互いに考えを押しつけてもしょうがないので、
僕も曽我さんのように謙虚にいたいです。
死というと、車に轢かれた野良猫達を思い浮かべます。寒さに震え、飢えに苦しみ、けんかしたり、脅されたり、けして楽しいことの多い毎日ではなかったでしょう。でも、ぼろ雑巾のように道路にへばりつけられているのを見ると、生きている時の、伸びあくびをしたり、フーッと毛を逆立てたり、足を上げて股をなめたり、高い塀からすとんと飛び降りたり、そんな様々なふるまいをしていたであろう頃からの変わりように、ひどくつらい切ない気持ちになります。
動物たちは純粋ですよね。本能のままに生き、死にます。
でも、僕は死んでも無くならないと思っているので、
そう考えると肉体がどうなってもそんなにつらくありません。
これまでに、いくつか同年代の人の死に出会いました。事故や病気で突然亡くなった友人、先輩、後輩。逆に早々と病の宣告を受けて、死と向き合い、おそらく死と議論しながらゆっくりと死んでいった友。
皆、他ならぬ自分が死なねばならない理不尽・不条理に怒りながら死んでいったはずです。あるいは、その暇さえ与えられなかったかもしれない。
僕の周りでも自殺した人たちはいい人でした。
死んでなくなると思っていたのかなあ。苦しんで生きるよりその方が楽だと。
その理屈がわかるだけにつらいです。
死ぬことはいつでもできます。そして、遠くない将来、100%間違いなく死はやってきます。あわてることはありません。
僕が自殺したいと書いたので、心配してくださったんですね。
すいませんでした。僕はもう大丈夫です。
どうか仏教=無我・縁起を研究してみて下さい。ただし、無我=縁起を、安直にニヒリズムとしてとして理解するのではなく、世界に開かれていることとして感じて下さい。そうすれば、多分救いを見つけて頂けるだろうと思います。
気持ちに届くメールを書けたでしょうか?
めんどくさくなければ、めんどくさい気持ちについて教えて下さい。他のことでも結構です。次のお便りをお待ちしています。
ありがとうございます。
きっと皆さんにもこういう真摯な対応をされてるんですね。
僕は曽我さんとお話しするときはちょっとストレートにいっちゃおうかな。
聞いてもらえそうだから。
ではまたよろしくお願いします。
リュウ
リュウさんへの返事
よかった。安心しました。
輪廻の話は、また改めてやりましょう。
話を聞くぐらいならいくらでも聞きますので、その他の話題でも思い切りストレートなメールを送って下さい。
お待ちしています。
リュウ様
2001,1,11, 曽我逸郎