曽我逸郎
クリスマス・イブの夜
お釈迦さまの御徳を忍びて・・・。

はじめてお便りさせていただきます。すばらしいHPに出遇い足跡だけでも残させていただきたくと存じます。「あたりまえ、」を数回読ませていただいただけです。
「意見交換」の場は私には良くわかりませんでした。

私は「佛・法・僧」に帰依する身です。といっても、得度しているわけでもなく在家の立場です。
曽我さんが求められる「文献的な教学アプローチ?」(間違ってるかな)による解決を持たないままに「信仰」の道にはいっています。。
「縁」の力に導かれるままに・・・。
所詮、凡夫の身。「無常」も「無我」も自覚しきれません。娑婆のドロドロのなかに身を委ねなければ日々が成り立ちません。でも、泥沼にも白蓮華は咲き誇ります。
佛の「他力本願」を信ずるのみ。

      南無阿弥陀仏


fumioさんへの返事

 メールありがとうございます。返事遅くなりました。

>「意見交換」の場は私には良くわかりませんでした。

 すみません。「意見交換」は、生のままの未消化な思い付きをなんとか形にしようとする場所になってきています。人に読んでもらうというより、自分だけの一人よがりな試行錯誤の場とも言えます。しかし、そういいながらも、皆さんに間違いを指摘してもらったり意見を頂いたりして仮説の検証・鍛練・解体をすすめたいという勝手な下心もあり、寛大なお気持ちでなんでも批判頂ければ幸甚です。

 他力については、永遠の阿弥陀仏という存在を立てる考えが、仏教本来の無我・縁起に反すると思い、救われることを願うのは執着だとは思うものの、妙好人と呼ばれる人の伝記を読むと、はからいを捨てるということが徹底すると、もはや阿弥陀も自己の救済もどうでもよい、ただもうお任せする、という突き抜けた「無我」の境地に達するようで、そんな風に自分もなりたい、なれなくともそんな人に触れてみたいと憧れるものの、我執強く、ついつい自らに頼んでしまう私としては、まず当面は浅智慧で行けるところまで行ってみて、本当に行き詰まればそこで我執の角が折れるかもしれず、そこでまた身の処し方を考えようと思っています。

流れている音楽のせいか、変な文体になりました。
他力の立場から、厳しいご意見を、是非宜しくお願いいたします。

2001年1月4日    曽我逸郎

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