(曽我注記)谷さんと名古屋のとあるスペイン料理店でお会いしました。以下のメールはは、その時の会話を踏まえたものです。

・・・・・・・・・・・・・

曽我逸郎 様
                   from 谷 真一郎
 先日は仏教について久しぶりに色々な意見を交わすことができました。記憶が冷めないうちに復習してみたいと思います。
 曽我さんが言っておられた事の中で一番印象に残っているのは、ノエシスとノエマの問題です。ノエマ化される以前のノエシス的なものに自己存在の根拠を求めるというのが現代思想の流れではありますが、今までの自分のありかたを対象化(ノエマ化)して「踏みとどまる」ことがなければ悟りへの方向転換もありえない、という趣旨であったと記憶します。で、その時にはノエマ的対象像として自己というものも確かに「存在」することとなり、その自己こそが「悟り」の主体でもあるわけですね。また、そのような意味での自己であるなら、「悟り」の過程でしだいにノエシス化され「我を忘れて」無我化してゆくとも考えられるわけです。
 次に、私が今年になってから読んだ古事記や民俗学の知識から、その地域・その風土に固有の「超越的なもののありかた」(具体的には霊・神・他界・それらに関係する倫理等)があるのではないか、と述べたのに対して、曽我さんは、それらすべてを縁起的なものとして見る「唯一の見方」があるのではないか、と述べられました。
 これは大変難しい問題と思います。というのは、縁起説という形であれ「唯一の真実」というものがあるとすれば、時間的・空間的に限定された個人の生涯の中でその真実に触れ得るかどうかは保証されませんから、「唯一の真実」に触れ得ない(おそらく大多数の)人々に対する「救い」の問題が出て来ざるをえないからです。親鸞が東国の農民たちの間で考えたテーマはこのことだったのではないかな、と思います。
 また、超越的存在の側から「救い」ということを考えるのであれば、民俗的な心霊観や他界観も「風土に備えられた救い」といえます。縁起説は「透明な真実」として存在すると思うのですが、その「透明さ」は、その上に民俗的・(広義の)呪術的な「色彩」を塗られて後に多くの人の心に入ってゆくものではないでしょうか。
 昨年1月31日付の私のメールから引用しますと、
「各国でそれぞれの歴史を刻んだ仏教の多様性・土着性の価値を認めたいと思います。その上で、「(各国で)なぜ『仏教』でなければならなかったか」を考えたいと思います。」
この、なぜ「仏教」でなければならなかったか、ということへの回答が、仏教が如何に民俗的・呪術的なものに彩られようと、背後に縁起説という「透明な真実」があったからだ、ということになると思います。
 ただ、今年になってからの私は古事記を読み、紀伊半島の聖地を訪ね歩き、と、民俗・(広義の)呪術の具体相の豊饒さに魅力を感じております。一定の風土の中で成熟した「聖なるものの伝統」の中に身を投じることによって、個人的な求道探求を経ずとも、背筋を正した立派な生き方ができるものだな、というのが、紀伊半島で何人かの若い宮司さんと話した時の印象です。
 あの夜はこれ以外の論点も色々と出たように記憶しております。そちらからも「復習と補足」があれば教えて下さい。
 また折りにふれてメールいたします。このメールは第三者が読んでも脈絡がとれないので、貴HPの「意見交換のページ」には掲載されない方がよろしいと思いますが、判断はそちらにお任せします。
 年が明けた頃にまたどうですか。草々


谷 真一郎さんへの返事

 お礼遅くなりました。素敵なお店を教えて頂きました。場違いな仏教談義なんかして、隣のお客さんにはうるさかっただろうと思います。お店にも迷惑をかけていなければいいのですが。

 メールで総括して頂いたとおり、あの時もノエシスとノエマの話になりました。
 私は、ノエマ(構想され対象化された自己)を我執の根源であり、苦の源泉であるとして、否定・克服すべきだと考えてきました。しかし、ノエマには反省という側面もある。発心も修行も、反省のノエマによって可能になる。反省のノエマを正しく維持することによって、執着の悪しき「いつも化」は、よき「いつも化」に作りかえることができるのではないか。ノエマを再評価したい。
 そんな主旨をくどくどだらだらとお話したら、谷さんは即座に「それは西洋的知の伝統の立場ですね」とおっしゃいました。私は「そうか、なるほど」と気づかされ、「さも新しい着眼を得たつもりだったけれど、遠回りして道草食って、やっと旧来の見方に至っただけなのだ」としょんぼりしたのでした。

 頂いたメールからいろいろなことを考えました。

(谷さん)・・・・・・
 その時にはノエマ的対象像として自己というものも確かに「存在」することとなり、その自己こそが「悟り」の主体でもあるわけですね。また、そのような意味での自己であるなら、「悟り」の過程でしだいにノエシス化され「我を忘れて」無我化してゆくとも考えられるわけです。
・・・・・・・・・・・・・
 結局私と同じ事をお考えなのかもしれませんが、この文章を読んで考えたことを書いてみます。
 我執の対象となっているノエマは、願望の(非現実の)自己です。たとえば、人から注目され羨ましがられ一目置かれたい、異性にもてる自分でありたい、そうあるはずなのに、、、といった自己です。
 それに対して、反省のノエマは、客観的に捉え(ようとし)た実際の自己です。たとえば、つい他人に配慮のない態度を示したり、自分を優れているかのように演出したり、感謝や尊敬を期待したりしてしまう自分。積極的に善を目指すというより、自分を見つめ、自分の悪をそのつど止めていくことの継続です。この意味で、三学の一、戒の立場と同じだと考えます。

 我執のノエマは、繰り返され、執着をますます大きく育て上げ、現実の自分と願望の自分の落差を広げ、苦を大きくします。反省のノエマは、繰り返す毎に僅かずつ悪を止めるに必要な努力が減っていきます。両者、方向は正反対だけれども、繰り返しによる加速度的変化は共通しており、私は、これも「いつも化」として捕らえたいと思っています。

 さらに話を飛躍させると、これら二つの反対方向の「いつも化」は、脳内のシナプスの可塑性(信号伝達の閾値の変化。信号を通したシナプスは、通す前より信号を通しやすくなる。)によって、理解できるのではないかと考えています。
 業とか熏習というのも、「いつも化」とシナプス可塑性で理解できるのではないでしょうか。何かを考えたり行ったりする度に、脳内のニューロンからニューロンへ信号が流れた訳で、そのシナプスは少し信号を流しやすくなる。そういうふうにして行為や思考は、脳内に痕跡を残す。それが繰り返されることで、脳内の信号伝達のパターンが形成され、良くも悪くもその人独特の個性・反応パターンが形成される。
 おそらく脳はこんなに単純ではなく、自己モニター回路や行為の結果をフィードバックする回路、行為とその結果をシミュレートする回路などもあり、それらも「いつも化」を加速していると思われます。同時に、そういった回路が「いつも化」とは正反対の<発心>という転回を可能にするしくみでもあると想像しています、、、、が、しかし、まだまだまったく勉強不足です。

 唯識は、我の継続性と無我思想との折り合いをつけるために阿頼耶識を構想し、その結果その後の仏教史の存在肯定的(反無我・反縁起的)傾向を助長した、と私は考えているのですが、脳科学は、そのような間違いを犯すことなく、「変化しつつ継続性もある無我なる縁起の現象としての自己」を説明する方便になってくれるだろうと期待しています。
 (脳科学が、意識の指向性停止体験のしくみ、定・慧でおこっていることまで解明してくれればすごいのですが、、、。でも、脳科学を仏教の方便にするというのは、taka kudouさんから見れば、やはり「唯物論的」ということになってしまうのでしょうね。)

 「あたりまえ、、」HPの意見交換のページ、10/12のユキオさんのメールへの返事に、関連した内容を書いています。お時間ありましたらご一読頂いて、また是非ご意見を下さい。

・・・・・・・・・・

 もうひとつ先日の会話で感じたことは、前々から見えつつあった我々の間の仏教に対する捕らえ方の違いです。私が、仏教を無我と縁起の教えとしてstrictに捕らえ、この世界とは別のところになんであれ反縁起的な存在を立てる思想をすべて反仏教として否定しようとするのに対して、谷さんは、土着的なものまで含めて、仏教に染み込んだすべての要素を肯定的に掬い取り、それらを内包した仏教全体を考えようとされています。
 これは、どちらが正しい、間違っているという問題ではなく、おそらく、どちらの見方にも、見えるところと見えないところがあるのだと思います。おそらく、当分の間、私は私の見方を継続すると思いますが、今後ともお付き合い頂いて、私の見方で見えていない所があるということをremindしていただければと存じます。

 年が明けたら、また一杯お付き合い下さい。(脳科学の本を読むたびに、ニューロンやシナプスで起こっていることの精妙さに驚き、そこへのアルコールの乱暴な影響を想像して恐れるのですが、それでも飲酒戒は守れません。)

 それでは、近々、また。

谷 真一郎様

2000、12、9、     曽我逸郎

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る