曽我逸郎様

HP斜め読みですが、拝見しました。

私は仏教思想については、ほとんど素人に近く、またその探求の動機も、「宗教体験」を経て、24時間瞑想状態にとどまるための手掛かりとして仏教を学びたい・・・というところから来ています。

ですから、いろいろ参考になることが多く、読者の方々との対論もとても興味深く感じました。
今後じっくりと読ませていただきたいと思います。

今回お便りしましたのは、私も拙いHPを開設しましたので、よろしかったらリンクをお願いしたいと思ったのです。
よろしくご検討くださいますようお願い致します。

http://free.gaiax.com/home/pyunpyun

さて、「宗教体験」そのものは、「自我意識」が崩壊するほどの絶望と苦悩を経験することで、普通の信仰を持たない人にも突発的に起こり得るものだろうと考えます。
それは、人間主義心理学のA.H.マスローの「至高経験」「自己実現」、精神科医の神谷美恵子の「変革体験」の研究などからしても、おそらく間違いのないことだと考えます。

それを人為的に起こし、そこに留まり続けようというのが、仏教も含めたいわゆる「宗教」のやろうとしていることではないかと考えます。

ぼくが仏教に惹かれる理由は、その論理性だろうと思います。
「宗教体験」の解釈にしてもアビダルマや中観・唯識思想には他宗の追随を許さないものがあるように思います。不勉強で、内容については具体的に言えないのが残念です。

今後は仏教哲学を学びつつ、瞑想を続けていくことで、見解を深めていくことが出来ればと考えています。

後ほど、曽我様のHP、じっくり読んで、また感想を送らせて頂きたいと思います。
では、失礼いたします。

桜庭 新一郎


桜庭 新一郎さんへの返事

 メールありがとうございます。

 リンクの件は、つぎのFTPの際に張らせて頂きます。10日以内を目標に。(遅れたらごめんなさい。頂いたメールは既に意見交換のページに掲載致しました。)

 頂いたメールにつき若干のコメントを。頷き合うよりも違う意見を擦りあわせたほうが新しい火がおこりやすいと思うので、敢えて桜庭さんと私の相違点に焦点を当てます。悪しからず。

1)仏教のやろうとしている事について
 宗教体験に留まり続けようとする事が仏教の目的だとは、私には思えません。仏教の目的は、少なくともスタート時(発心の時)は「苦からの脱却」だと思います。そのためには、無我・縁起を知らねばならないのだけれど、外の対象の無我・縁起だけでは不十分で、みずからの無我・縁起をも知らねばならない。そのための一過程・ステップとして、宗教体験(これまでの私の言葉では、主客対消滅体験。今後は「意識の指向性停止体験」とでも呼ぼうかと考えています。言葉の届かない戯論寂滅体験です。)が要請される。宗教体験は、けして目的ではなく、ひとつの通過点だと考えます。発心の時は自分の苦が問題であったのが、指向性停止体験を経て世界と自分の無我・縁起を知ると、一切有情への慈悲が生まれる。宗教体験から世俗世界に戻って、意識の指向性が回復し、無用な苦をみずから作り出さず、無用な苦から有情を救わんとする。そういう現実世界での働きのための一過程が、宗教体験だと思います。

2)論理性と宗教体験について
 宗教体験は、戯論寂滅であって、本来的に分節的である言葉がもはや成立し得ない次元での出来事です。したがって、宗教体験と論理とは厳密には両立できないと思います。この考え方の極端な例として、松本史朗先生の「チベット仏教哲学」(大蔵出版)があげられます。これに従ってチベットへの仏教伝来の事情を荒っぽく紹介してみます。
 チベットへの仏教初伝は、日本に遅れる事約1世紀、7世紀中頃のこと、中国からの禅とインドからの中観がほぼ同時に入ってきた。当初は禅の方に勢いがあったが、不思不観を説く禅と、論理によって空性の知を説く中観の対立は深まり、サムイェーにおいて時のチベット王の前で両者論争した結果、中観が勝利し、以後チベットでは中観を中心とするインド大乗仏教が正統となった。
 松本先生は、正しい分別知こそが仏教であって、戯論寂滅の禅定体験を重視する考え方は、反仏教(=如来蔵思想)であると主張しておられます。(これ、思い切り乱暴な要約です。是非御自身で読んでみて下さい。非常に刺激的です。先生の本では特に「縁起と空」(大蔵出版)がおもしろい。)
 松本先生は極端な立場ですが、私の個人的見解としては、中観にしても論理や分別知がどこまでも有効に機能すると考えていたとは思っていません。論理・分別・戯論を限界まで駆使して無我・縁起を学ぶべきだが、最後の最後のところには届かない。論理の竿を攀じ登り、攀じ登り、先端で行き詰まった挙げ句、自身の無我と縁起を指向性停止体験によって知る。即ちしがみついていた手を離してみれば、百丈竿頭行き詰まっていたはずが、大平原に立っており、どこへ向かうも自由、草は揺れ、花が咲き、鳥が鳴き、虫が飛ぶ。しかし、この広漠たる世界は、残念ながら極楽浄土ではなく、有情が有情を食み、生きるために励み苦しみながら有情は生きている。この俗世を受け入れ、あるがままの現象として自分を肯定し、執着によって無用な苦を生み出さず、有情の喜びを喜び、有情の悲しみを悲しみ、無用な苦を苦しむ有情に慈悲を以って接し、なせる限りの事をなす。これが私の思う仏教徒の理想の姿です。(大平原じゃなくて、大都会のダウンタウンでもかまいません。電車や車が走り、それこそ行くも帰るも自由、無数の有情が喜び悲しみ苦しみながらそこに生きているのですから。)

 なんだか禅書まがいの文章になってしまいました。私個人としては、宗教体験だけでは人間はすぐれた思い込み能力で様々なとんでもない「絶対者」にであってしまう、だからまずなにを置いても、釈尊の教えである無我・縁起を学び、考え、理屈として理解することが必要である、しかし、外の対象の無我・縁起は分かっても、自分の無我・縁起は論理では分かり得ない、だから教えの理論的学習と平行して、座る練習等を継続し、煮詰まったところで戯論寂滅の意識指向性停止の宗教体験によって、自分の無我・縁起を知ることを目指すべきだ、と考えます。要するに、論理と宗教体験は本来的には相容れないけれども、ともに必要だというのが、甚だ折衷的なわたしの立場です。

 今後ともご意見御批判をお聞かせ下さい。御自身の体験も。宜しくお願いします。

桜庭 新一郎 様

2000年9月19日    曽我逸郎

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