曽我逸郎
はじめてメールします。今日もとても暑く厳しい暑さが続きます。

あなたさまのHPの本分(本文?)はとてもいいです。好きです。
僕も仏教に関心があり、いろいろ本を読んだりしていますが
とても参考になりました。竜樹尊者の「中論」、西嶋和夫氏訳の本にも
かいてあります。「空」を”あるがまま”と訳していますね。

最初の信仰内容の検証に書いてあります。

「隠されたものではない、今現れたものでもない、
途切れてはいないし、永遠のものでもない。
特定の目的のためではなく、多くの目的のためでもなく、
来ることもないし、去っていくこともない。
それは、明々白々とした総合的な現象であり、目に見える世界であり
静寂であり、最高の素晴らしさである。」

と書いてあります。僕はこの言葉がとても好きです。

我々が、ここに今生きているということの尊さである
現実の素晴らしさと、知ることの素晴らしさを釈尊は説きながら
我々全ての生き物が、幸せに生きていく方法を説き続けたのではないでしょうか。


良知 昇さんへの返事

         2001、2、3、

 返事大変遅くなりました。「あたりまえ、、」の曽我です。
 頂いたメールに「今日もとても暑く厳しい暑さが続きます」と書いておられるのを読み直して、大変恥ずかしい思いでおります。御許し下さい。
 今更何、半年前とは問題意識が変わっているよ、とおっしゃるかもしれませんが、間の抜けた返事をお送りします。

 西嶋和夫さん訳の「中論」は、何度か本屋さんで手にはとったものの、実は読んでおりません。それについてはコメントを控えます。

 良知さん御自身のご意見である最後の三行については、まったく同じ気持ちです。

 ですが、同じであるが故に、私の感じている問題点を共有して頂こうと思い、敢えて混乱した変なことを書きます。

 この世界は<すばらしい>だけでは済ますことのできない多くの矛盾や欠点を抱えているのではないでしょうか。わたしたち、動物であるひとつひとつの生命は、必ず他の命をむさぼり食わねば生きていけません。わたしのこの締まりのない肉体は、他の命を食らい消化した栄養でできているのです。今私がここに生きているということは、30億年前だかの生命誕生以来、単細胞のやら、クラゲみたいなのやら、ヒトデみたいなのやら、魚や、カエルや、爬虫類やら、数え切れない私の先祖達が、ずっと一貫して他の命を蹴落とし、食らいながら、遺伝子を引き継いできたことの結果です。私の背後には、30億年にわたって累々と屍が並び続き、その数は、ガンガー河の砂のごとく数え切れるものではありません。屍の列の先端で、日々その列を伸ばしながら、私は生きているのです。

 戦争、犯罪、差別、搾取、地位身分、権力、不公正、駆り立てあい、高圧、追従、、、、、。世間にあふれるこれらのことも、私にはすばらしいこととは思えません。私の器量が小さいせいでしょうか? これらのことも「人々はひたむきに懸命に生きている、何と美しい」と賞賛すべきなのでしょうか?
 人を苦しめることに対しては正しく腹を立てられる自分でありたいと思います。(実際の私は多分に妥協的・迎合的なのですが、、)

 しかし、欠点を見ながらも、世界を否定するだけでは、不幸になるばかりです。世界と自分の矛盾や欠陥を正しく見ながら、それでも世界と自分を肯定できること。世界と自分を肯定しつつ、世界と自分の間違いに正しくポジティブに立ち向かえること。仏教(無我=縁起の教え)は、そういうあり方へ導いてくれると信じるのですが、その道筋を跡付けることはまだできていません。

 ひょっとすると釈尊は、自分の欠点を克服することだけを教えられたのでしょうか? 世界を肯定することは、大乗に取り込まれた非仏教的要素なのでしょうか? これも、わたしにとってチクチクと引っかかり続ける刺のような疑問です。

 明快さに欠ける文章ですみません。なにか思い付かれることがあれば、ヒントを下さい。

良知 昇 様

               曽我逸郎

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