曽我逸郎
ご無沙汰しております。やっと私なりの考えをまとめたので、ご批判よろしくお願いいたします。

伊藤隆寿さんの中国仏教の批判的研究、大蔵出版の一部について、考えてみたいと思います。

1例としてp383で 神会の思想について、#すでに仏教における智慧−区別、分別して物事の正邪、真偽を判断すること−の意味が排除されていたように(中略)主客合一、理知一体なるがゆえに「無知にしてとして、知らざること無し」とされる。# と批判しています。

つまり、正しい仏教は釈尊の「縁起説」によるもののみとして、無分別知は、それに理論的に反するとしている訳ですが、その点について、4点ほど反論してみたいと思います。

 第一に、基本的に、無分別知というのは、あたりまえだが、考えて分かるものではなく、体得するものであり、論理の範疇ではない。それと、「縁起説(論理的思考)」が論理的に矛盾するというのは、体験と論理という、異なる次元のものを論理的に相容れないとするもので、そのこと自体に意味が無いのではないかと考えますが、いかがでしょうか?

 第二に、その縁起説と無心=無分別知の論理的な結び付きを私的に展開してみようと思います。
 釈尊の説く3つ「縁起説と無常、無我」は、論理的に結び付くのは、常識とすると、無常と無心=無分別知を論理的に結び付ければよいことになります。まず、すべての物は無常であるとは、縁によってすべてのものは成り立っている現象にしかすぎないということであり(折空観、しゃくくうかん)、それがそのままで今も変化しつづけていると捉えるのが禅(体空観)だと思われます。例えば眼界について、そこを突き詰めていくと、今は一瞬たりとも止まらず動きつづけ、今見た物に感情や、念(ことば、論理)を起こせば、過ぎ去った一瞬前の今に執らわれていることになり、本当の今の目の前の物を眼で認識しそこなうことになるわけです。そこを無心でありつづければ少なくとも永遠に続く今の目の前のものを捉えつづけることが出来ます。さらに無心であれば、無分別であり、(ここまではインドの大乗経典が説いている)そこから、自他の分別もなくなる(ここからが禅の解釈か?)それを般若の智慧という。そこが主客合一の体験で、そこから慈悲の心も生まれる。主客合一から慈悲が生まれる所を、この本では、考慮されていないようですが、それが合点のいかないところでもあります。
 第三点として、絶えず思考を停止しろといっているのではなく、なにかしながらつまり眼耳鼻舌身の働かせているときは、意(思考)を停止しろといっているわけで、考えるときは考えるのみに成り他のことはするな、といっているのです。
 第四点として不落因果とフマイ因果について、言及しておきたいと思います。つまり不落因果は、悟ったら因果に落ちず、何をしてもよい(狐子禅)のではなく、善いことをしたら善い結果が、悪いことをしたら悪い結果がくるが、そのことには囚われない、動じなくなるということだと思います。フマイ因果は、因果を眩ませられない。つまり善因善果、悪因悪果を説いている。つまり「縁起説」である。禅ではこの両方を説きまた差別していない。縁起説も無視していないのです。この点についてもこの本では触れられていません。
 以上、論理的、用語的におかしな点があるかとは思いますが、まとめてみました。

 曽我様のおかげで、いままで結び付かなかった縁起と慈悲が私なりに結びついたような気もします。ありがとうございます。それでは失礼いたします。

itten


いってんさんへの返事

 返事遅くなりました。何とか年内にと思っていたのですが、年を越してしまいました。申し訳ありません。謝って済むような遅さではありません。本当にごめんなさい。

 「縁起と無分別知は矛盾するか」という問題提起を頂きました。

 まず、いってんさんの第一の論点、「縁起説(論理)と無分別知(体験)は次元を異にし、矛盾云々には意味がない」というご主張には、私もほぼ同意見です。
 ただ、無分別知という言葉は、私には人の靴を履いているような落ち着かない感じがあるので、般若と呼ばせて下さい。
 平川彰先生の著作集第1巻「法と縁起」(春秋社)の396頁前後に、いってんさんがおそらく我が意を得たりと喜ばれることが書いてあります。乱暴な要約をすれば、パンニャーとは禅定による法の観察によって遍く知る智慧であり、それに対して、識(ヴィンニャーナ)とは区別して知る知である、般若はけして大乗以降の新しい概念ではなく、古く原始仏教まで溯る、という内容です。
 伊藤隆寿先生はじめ駒沢大批判仏教グループ(勝手につけた名前です)の方々が重視しておられる仏教の論理とは、ここでいう識であって、本来それと補い合うべき般若を彼らは反論理として否定しているのだと思います。
 私としては、平川先生にならって、識(分析的知・論理)と般若(禅定による知)は次元を異とする知であり、互いに補完的である、片方だけでは十分でない、と考えます。

 第2の論点、「縁起説=無常=無心・無分別知」について。
 この点も、いってんさんとほとんど同意見です。
 ただ、いってんさんが、「過ぎ去った一瞬前の今」にとらわれることなく、変化し続ける「本当の今」とともにあり続けようとすることから、無心・無分別・般若・主客合一へと展開されるのに対して、私は、ノエシスの縁起を知るために、般若が必要だと考えています。
 仏教=縁起説は、識が半分、般若が半分だと思います。思い切って乱暴に言ってしまうと、識で知る縁起は、法(外に立てられた対象)の縁起(法無我)であり、般若で知る縁起は、自分自身(ノエシス)の無我(人無我)であり、自分自身(ノエシス)の縁起です。(わたしのいう法無我・人無我は伝統的な使い方から逸脱しているかもしれません。私の法無我・人無我は、対象化された対象の無我とそれに対するノエシス自己の無我です。)
 まず識によって法(ノエマ自己を含む「対象」)を分析・観察し、「ものはある」という日常的・世俗的思い込みを解体し、法の無我・縁起を戯論レベルで理解できるようになる。しかし、自分自身(ノエシス)の無我・縁起には、識は届かない。何故なら、識は、対象を立てて分析する知であり、自己を識で考察しても、それは対象化された自己(ノエマ)であって、現に働いている自己(ノエシス)ではないから。
 識によって外界の対象の縁起を分析的に知り段階的に理解を深めた上で、その前提があって、或るきっかけで、自分(ノエシス自己)も世界のあらゆる現象もともに縁起する無我なる現象だと一挙に分かる。それが般若だろうと想像します。その時、縁起の全体(=仏教)を本当に知り得たということができる。それは、おっしゃるとおり、特別な体験知(意識の指向性停止体験による知)だと思います。
(法無我と人無我、識と般若の関係略図を添付します。析空観、体空観という言葉を知らなかったのですが、教えて頂いて早速使ってみました。間違っていなければよいのですが。)

 

 ところで、「本当の今にいること」は、定の訓練中や意識の指向性停止体験の間は実現するし、そうあらねばならぬと思いますが、世俗の日常でそこにずっと留まることは不可能ではないかと感じています。本当にそうあり続ければ幼い子供のように人の世話になりっぱなしにならざるを得ない。意識の指向性停止体験の「本当の今」で自分を含めたあらゆる現象が縁起しあっていることを般若で知った後は、俗世に再帰し、そこにおいて無我・縁起・無執着・慈悲をベースにどう生きられか、それも考えねばならないと思います。禅寺の典座(食事その他を準備する係りの僧)が他の僧達の修行のために取り計らうように、我々も人のために過去を分析し未来を慮って心を砕ければと思います。(宮沢賢治が人の田んぼに肥料のやり方をアドバイスしたように。)その時は、きっと識が真価を発揮する筈です。

 もうひとつ。慈悲について。
 おっしゃるとおり、「批判仏教グループ」では、慈悲は大きなテーマとして捕らえられていない印象を受けます。慈悲を根拠づける事はなされていない。慈悲については見ないふりをしているようにも思える。
 しかし、おもしろいというか、ややこしいのは、批判仏教グループ、特に松本史朗先生が批判している津田眞一氏も、慈悲については冷淡、というか、明確に慈悲と釈尊の仏教とは相容れないという主張をされています。人間の自然な感情を否定・克服することが釈尊の教えであり、憐れみも執着だということでしょうか。(「アーラヤ的世界とその神」大蔵出版参照)
 わたしとしては、自分(ノエシス)が世界のあらゆる有情とともに等しく縁起によって生まれ、縁起によって変化し、縁起によって終わる現象であると般若で知ることによって、すべての有情と自分への憐れみ、慈しみが生まれると思っているのですが、津田氏の主張は極端だとしても、慈悲を仏教の中に位置づけ根拠づける事は、イメージするほど簡単、自然なことではないようです。

 第3の論点(考える時には考えることになりきれ、眼耳鼻舌身を働かせている時には思考を停止せよ)については、よく分かりません。「瞬間瞬間常に今行っていることに集中せよ」ということを、ご紹介頂いた少林窟道場では教えておられるようですが、常にただひとつの行為にのみ集中すべき、という考えの背景や効果を知らないので、現時点では判断できません。
 しかしながら、少林窟道場を離れて禅一般を考えると、禅には確かに「識」(分析的思考)を否定する傾向があると思います。たとえば臨済録では「擬議す」という言葉が頻出します。臨済になにか(「赤肉団上一無位真人」とか)を詰め寄られた僧が、思わず迷って口篭もることです。擬議すると「糞かきべら」呼ばわりされて、追い返されてしまいます。テニスのラリーのように、即座に応えなければならない。日常の論理(識)で「ちょっと待って、ああでもない、こうでもない」と思い悩むことは許されないのです。
 公案も本質は識の否定だと思います。「隻手の声(両手を打ち合わせると音がする。では片手の音は?)」にしても、常識的分析的知(識)の破壊をめざしているのではないでしょうか? 識を突き破れば般若が得られる、というのが公案の発想だと思います。
 初期大乗の巨人・龍樹菩薩が有部を論敵としたことを間違って学んだ結果なのでしょうか、大乗には、分析知否定の傾向があります。(有部は仏教の歴史の中でおそらく最も精緻に分析的知を発展させました。)識を否定して、般若のみを重視しがちです。
 「煩悩即菩提。一即多。一瞬の中に無限がある。一微塵の中に全世界がある、、、、」
 このように対立する概念をそのまま結び付ける言い回しが、禅のみならず大乗ではよく使われます。勿論、深い般若の洞察に基づいた場合もあるでしょうが、現代においてこういう言辞を吐く人のほとんどがきちんと分かった上で言っているとは思えないのです。それでも意味深長でありがたそうに聞こえる。おまけに「ここのとこが分からん奴はだめじゃ」などといわれると、聞いている方はまじめに一生懸命想像して、ぼんやりと分かった気になる。そして、その人も同じように言い始めるのです。
 「煩悩即菩提。一即多。一瞬の中に無限がある。一微塵の中に全世界がある、、、、」、「ここのとこが分からん奴はだめじゃ」
 駒沢大批判仏教グループは、大乗仏教の識軽視・般若偏重の傾向を押し戻そうとしているのだと思います。
 私自身は、定の訓練はまったくサボっているのですが、定による般若と識による分析的な学習と、両方が必要だと考えています。

 最後に、第4の論点、因果に関して。
 私は、因果を俗に言う善因善果、悪因悪果としては考えていません。善行が悪い結果をもたらすこともあるし、悪人がよい運に恵まれることもある。「人間万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄のごとし」、自分の外に出ていく因果は、まさにカオスであって、どんな結果を誰にもたらすか予測がつきません。
 ただ、悪いことを考え行えば、自分の中の悪い「いつも化」のパターンが強化され、執着を強め、苦の元を拡大することになるし、執着を消す努力は、よい「いつも化」を強化し、苦の少ないあり方に近づくことになる。考えや行いは、その瞬間に自分の中で、自分自身のあり方に影響を残す。自分の中の「いつも化」への熏習は、わずかずつでもそのつど即座に確実に形を残す。これが、私の考える善悪因果です。
 では、禅は善悪をどう捕らえているかというと、実は善悪にはさほどこだわってはいないのではないかと感じます。「祖に会えば祖を殺せ、仏に会えば仏を殺せ」と説く禅は、祖も仏も権威として絶対視することを拒否し、みずからの主体性こそを重んじる。行も帰るも余所ならず、往所に主となることこそが眼目であって、善悪といった外部の基準は、禅では深刻な問題としては捕らえられていないように思います。
 さらに、禅における縁起説に関しては、軽軽に論じられない大きなテーマで、まじめに禅に取り組んでいない私の立ち入れる領域ではありませんが、禅は、少なくとも釈尊の時代の仏教や中観ほどには、縁起を縁起として問題としていないように感じます。(禅文献における「縁起」という言葉・縁起的表現の出現回数を調べたら、おそらく大変少ないと想像します。)
 禅の方法とは、世俗的識とその土台となっている世俗的「いつも化」を破壊し、意識の指向性停止体験を引き起こさせる非常に優れた段階的メソッドだと考えます。そのための具体的方法(座り方とか公案とか)を禅は発達させてきた。しかし、この方法だけでは、クオリティが維持されないケースも出てくると思います。ノエシス自己の無我・縁起を知ることなく、単に世俗の道徳・規範を破壊するだけで終わったり、外部の権威を否定して我侭な自分だけが残った、というケースも実は多々起こっているのではないでしょうか。
 まずは論理・分析で無我・縁起の基礎をきちんと学習する必要があると考えます。

 ということで、まとめると、以下のとおり甚だ折衷的な内容になります。
*いきなり世俗的な思考形式(識)を破壊して般若を目指すのはリスクが大きい。一人よがりの思い込み、自己肯定に陥る恐れがある。
*逆に、識ばかりで般若を否定していれば、ノエシス自己の無我・縁起は分からない。すなわち仏教(無我・縁起)の全体を本当に理解することはできない。
*まず論理的分析的思考による識によって対象の無我・縁起を戯論のレベルで知り、その上で定による般若によってノエシス自己の無我とノエシス自己の様々な現象とともなる縁起を知る。その結果、あらゆる現象と自己(という不完全な現象)を許し認め慈しむことが可能になる。

 以上、本当に間の抜けた遅い返事で申し訳ありませんでした。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。また是非お便り下さい。

いってん様

2001年1月4日     曽我逸郎

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