曽我逸郎 様
           from 谷 真一郎
 久しぶりにメールいたします。怪我は順調に回復されましたでしょうか。
 唯識に関する議論はかなり煮詰まっているように思いますので、今日は、最近の読書から得た新しい論点を出してみたいと思います。
 津田真一氏の論文を読んだのです。
 といっても、大部な(値段も7000円)『アーラヤ的世界とその神』は買ったもののまだ読んでありません。それとは別に、『岩波講座 東洋思想10』というのに入っている彼の「密教の本質」というかなり長い論文を読みました。で、正直言って、彼の論旨の中に、私が仏教ないし仏教学に対して持っていた「ひっかかり」みたいなものを非常にぴったり言語化してくれている部分がありました。『アーラヤ的世界』の方も近々通読するつもりであり、そうなれば今度は逆に彼と自分との間の距離も測れてくるのかもしれませんが、今日のところは、彼の言葉を借りて語ってみることになします。
 今までのメールのやりとりの中で、私が「慈悲」というテーマに関して全く語ってこなかったことに、曽我さんは不満を持っておられたかもしれません。
 私としては、仏教の存在観でありかつ「悟り」の意識の内容でもある縁起説と、慈悲ということとの間に、論理の上でも、心理的動機としても、「必然的な関係」を見いだせずにいたのです。
 たいがいの仏教書には両者は、前者から後者へとごく自然に移行するように書かれております。たとえば、津田氏がこの論文の中で引用している山口瑞鳳氏の「我執から解放されるので利他行しか思われなくなり」といった調子です。しかし、この移行がそんなに飛躍無くスムーズに行くのであれば、大乗以前の仏教というのは、あれは何だったんだ、それどころか、現在の東南アジア諸国で、正味の宗教人口としては大乗をはるかに凌駕する規模で繁栄しているテラワーダ仏教の存立根拠はどこにあるんだ、と言いたくなるわけです。
 それで、津田氏がこの論文で、「慈悲」という契機は仏教にとって外部的なものである、と論断されているのを読んだ時には、まさに胸中のもやもやがふっきれた思いでした。
 しかし、ただちに補足しなければならないことは、この論断によって氏が「慈悲の契機の無いのが『正しい』仏教である」と言っているわけではないことです。その反対で、彼は慈悲の契機を仏教の正しい発展であると考えています。しかしそれは(梵天勧請のエピソードが語るように)釈尊御自身にとってさえ、彼の悟りの中から出たわけではなく、外的な(梵天という他者に勧請されて初めて生じた)ものであること、従って、大乗仏教の興起にあたって慈悲が宣揚された時にも、それまでの仏教にはなかった新しい論理が外部から導入されたはずであること、を指摘しているのです。新しい論理とは彼の命名するところでは「生(レーベン)のジャータカ的解釈」というものなのですが、その紹介は煩雑になるのでやめます。
 この論文の中では彼は、慈悲の問題以外に、無明を存在論的に捉えて「女性形単数のdharma」に「明」と「無明」の両極がある、と言ったり(このあたり、袴谷・松本両氏が声高に批判するのも両者の立場から納得できます)、(初発の仏教に外部から導入された)慈悲のそのまた根拠として何らかの人格神を想定し、自らそれへの帰依を明言するなど、真剣かつユニークな主張を色々としています。いずれも直ちに賛成はできないものの、十分に検討に値する主張に思われます。ただ、彼は(シェリングに言及し、レーベンというドイツ語を使用して憚らないように)かなり典型的なロマンチストとしての特性を備えているように思われます。
 大冊の『アーラヤ的世界とその神』を読まなければ本格的な論評や態度決定はできませんが、それを待っているとまたいつのことになるかわからないので、今日はとりあえず「なかなかいいと思います」というメールです。草々


谷さんへの返事

すみません。まだお返事できていません。もうしばらくお待ち下さい。

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