曽我逸郎
 初めまして、ユキオと申します。23才の学生です。
 このような高レベルの仏教哲学サイトに、私のような若輩者が、投稿するのは、少々気が引けますが、敢えて自己顕示欲によって投稿させて頂き、何か意見を頂いて、勉強に役立てたいと思っておりますので、よろしくお願いします。
 まず私は、仏教とは、生きてゆくために役立つ、もしくは、人間を救済する思想でもなければ、実践哲学でもないと考えております。
 なぜなら、仏教とは、全ての存在は、「縁起」により「仮設」された「無自性・空」なる「関係性の現象」であると説く「究極現象論」にすぎないからです。これは、「諸法無我」を説き、「自我」は、虚妄であり、真実としては、「無我」であるという教えにもつながります。
 しかし、事実としては、「生きる」とは、「我執」そのものであり人も社会も、エゴイズムと欲望によって成立しています。それぞれの「自我」による「主観的認識」と「自己顕示」によって成立しているとも言えましょう。
 このような社会のなかで生きてゆくために役立つ教えとは、「自我」を強力に確立し、「自我肥大」の別名にすぎない「自信」をつけさせる「力」の思想でありましょう。
 その意味で、「我執」の虚妄を説く「無我」の教えは、非社会的であり無力にすぎないと言えます。
 また、仏教は、「生」は「一切皆苦」とも説きますから、ある意味「生」を否定しているとも思えます。すなわち、「中道」などと言うのもただの戯言にすぎず、実際には、生・我執・有か、死・無我・無の二元論しかないような気もします。
 私は、「縁起」を「仏教的ニヒリズム」であるとして、究極的には全ての現象を否定する教えが、仏教であると思っております。
 もし、密教のように現象をそのまま絶対化するような楽天的肯定思想が、仏教であれば、それはただの「我執宗教」であり、偽善的倫理・道徳のヒュ−マニズムに転落するでしょう。
 いわゆる「悟り」だとか「涅槃」だとか「行」による「体験主義」だとかもみな「我執」によって妄想された「自我肯定」の排泄物的概念にすぎないことも明白です。
 仏教を生きてゆくための教え、人を救済するための教えと捉えることは、「我執」による仏教のねじ曲げであると思えます。
 結論としては、仏教は「迷いの世界」の構想だけを説く「究極現象論」であり、「縁起」による「仏教的ニヒリズム」によって「無我」を教える非社会的で無力な「真実」の思想であると言えるのではないでしょうか。
 と長々と書きましたが、文献学的意見よりも、リアルな意見を頂きたいと望みます。身勝手ながらよろしくお願いします。


<6/16に2通目を頂きました。>(曽我)

 こんばんは、前に「リアルな仏教とは?」を送ったユキオです。
ほとんど暴力的とも言えるような投稿をしたことを今は後悔しております。あれから、曽我さんのサイトを色々みて、これだけ真面目に誠実に謙虚に「仏教」を捉えている方に、私の行為は、わがまますぎると思いました。だから、結論というか「リアルな仏教」というテ−マは、身勝手ながら浮遊させます。
 「生きている」限り、「生きる」ことを考えなければならないのは私も同じです。
 私は、荒涼たる虚無精神の持ち主でルサンチマンも強い人間です。でも、私も生きているのだという自覚が、足りないのだと痛感しました。
 しかし、私は、「仏教」は、「縁起」という「宗教的ニヒリズム」を説き、そこには、いささかの「肯定」も含まれず、全ての「現象」を否定すること以外に「無我」は、「真実」になりえないと思うことに変わりはありません。「現象」を肯定する要素が少しでも含まれるのなら、それは、ただちに「不可逆な生」における「無明」もしくは、「宿業」の「我執」により、「現象」の「実体化」に転落することは、事実です。それゆえ、「理想」として「戯論」として「仏教」は、徹底的にネガティブで絶望的で無力な真実の叫びであると捉えざるをえません。ある意味「非定立的否定」による「生」の否定の教えと言った感じでしょうか・・・・。
 ちなみに「仏教」は、「輪廻」を否定しますが・・・「輪廻」はやはり現象として顕現されてしまうのかもしれませんね・・・・。
 私は、もっと「時間」に侵食されるべきだと思います・・・・。
 そうすれば、曽我さんの気持ちも、もっとわかるようになるかもしれません・・・・・


ユキオさんへの返事

 大変遅くなって本当にすみません。怠慢も度が過ぎますね。ごめんなさい。

 失礼ついでに言うと、ユキオさんは、私が大学生の頃から会社に入ってしばらくたつまで感じていたのと同じような感覚を持っておられるように感じました。それは、仏教に対してというより、世界に対して、自分に対しての歯ぎしりするような苛立ちの感覚です。

 どういう返事を書こうか、考えました。世俗的なあり方に対する仏教の評価と、そういうあり方の人々(=我々)への教えを、ごっちゃにされているような感じもします。とりあえず、安直なようですが、頂いたメールを部分ごとに引用して、思うところを書きます。

>>>仏教とは、生きてゆくために役立つ、もしくは、人間を救済する思想でもなければ、実践哲学でもないと考えております。

 おっしゃるとおり仏教は世俗の枠組みの中を如何に泳ぐかを説く処世訓ではありません。しかしながら、世俗的・日常的なあり方は、根底的には人を苦しめるあり方であり、仏教は世俗的・日常的なあり方を変革する事を教え、それによって人を苦から救済する教えであると考えます。(実践哲学かどうかは、実践哲学という言葉でなにをいわんとなさっているのかいまいち不明ですので、判断を保留します。)

>>>なぜなら、仏教とは、全ての存在は、「縁起」により「仮設」された「無自性・空」なる「関係性の現象」であると説く「究極現象論」にすぎないからです。これは、「諸法無我」を説き、「自我」は、虚妄であり、真実としては、「無我」であるという教えにもつながります。

 おおむねそのとおりです。ただ「仮設」という言葉が気になります。すべては、自性を持ち一貫性持続性を持つような「存在」ではないが、縁起によって生まれ変化し終息する現象としては、強く激しく現象しています。自性を持ち一貫性存続性を持つ「存在」として自我を捉える事は虚妄であるが、そのつどの私は、そのつどの無我なる(=自性を持たない)縁起の現象として強く激しく現象しています。まったく何もないわけではありません。

>>>しかし、事実としては、「生きる」とは、「我執」そのものであり人も社会も、エゴイズムと欲望によって成立しています。それぞれの「自我」による「主観的認識」と「自己顕示」によって成立しているとも言えましょう。
 このような社会のなかで生きてゆくために役立つ教えとは、「自我」を強力に確立し、「自我肥大」の別名にすぎない「自信」をつけさせる「力」の思想でありましょう。

 そのとおりです。日常的・世俗的な世界は、執着をもって競い合う世界です。世俗的な喜びが一時的にあったとしても、それはより大きな苦に転ずる。世俗的なあり方は根本的に「苦」であるというのが仏教の見方です。

>>>その意味で、「我執」の虚妄を説く「無我」の教えは、非社会的であり無力にすぎないと言えます。

 我執も一つの現象であり、恐るべき強力な影響力を発揮します。「虚妄」という言葉で「ただの架空であって本当はまったくない」と考えるならそれは誤りで、我執を含む執着は、我々を強力に苦へと誘導します。
 自分が持続的実体・自性を持たない無我なる縁起の現象であるという教えは、執着に捕らわれた世俗的な見方に対立し、執着力を競いあう世俗世界での争い・競走の役には立たず無力です。(それにしては現世利益を説く自称仏教が如何に多い事か、、) しかし、世俗の競走の勝者といえど、依然として苦の枠組みの中にいる。そこでの勝利はかえってより大きな苦を導く。それに対して、無我の教えは、執着を吹き消し、人を世俗の戦いの場から導き出し、苦の元を断つことができます。

>>>また、仏教は、「生」は「一切皆苦」とも説きますから、ある意味「生」を否定しているとも思えます。すなわち、「中道」などと言うのもただの戯言にすぎず、実際には、生・我執・有か、死・無我・無の二元論しかないような気もします。

 おっしゃっている「一切皆苦」な「生」とは、執着に導かれた世俗的な生であり、それと死の他に、それらとは別の執着を離れた生が可能であり、それを教える教えが仏教だと考えます。

>>>私は、「縁起」を「仏教的ニヒリズム」であるとして、究極的には全ての現象を否定する教えが、仏教であると思っております。

 ニヒリズムが執着に根ざした世俗的価値の否定ということであれば、仏教はニヒリズムだといえましょう。持続的固定的な存在(自己を含む)という概念を作り上げてそれに執着する事をやめさせ、目的や価値といった観念に束縛される事なく、そのつどの溌剌とした無我なる縁起の現象の世界を、喜び悲しみつつ、生きていく。私の理解では、仏教は現象を否定するのではなく、世界(自分を含む)を存在として固定化する事を否定し、縁によって生まれ変化し終わる現象としてみる事を教えていると思っています。

>>>もし、密教のように現象をそのまま絶対化するような楽天的肯定思想が、仏教であれば、それはただの「我執宗教」であり、偽善的倫理・道徳のヒュ−マニズムに転落するでしょう。

 個々の現象(どのレベルをもって個々かという議論は置いておいて)を捨象して全体世界という観念をでっちあげ、真如とか法界などと全肯定し、ものの分かったような顔で偉そうにふんぞり返っているのは、まさに我執の固まりであり、ヒューマニズムどころか偽「善」ですらないと思います。端的に悪です。(「あたりまえ、、」本文の空の捉え方に同様の傾向を感じて、実は最近気になっています。)
 あくまで個々の現象・有情に眼差しをむけ、有情の喜びを喜び、有情の悲しみを悲しめる人でありたい。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のように、身の回りの有情のために、あちらへ行き、こちらへ走り、なせる事をなし、なせない時にはおろおろし、そんな風にして生を終えたいと思います。

 と、偉そうに書いたものの、現実の私は当然ながらまったくもって賢治から程遠く、今の瞬間は確かにそう思っているのですが、普段の自分を忘れてこんな風に書くのは、それこそ偽善です。
 ただ、私は、偽善にはあまり目くじらを立てるべきではないと思っています。凡夫である我々が何か善をなす時、子細に分析すれば必ず偽の要素がある。世間体だったり、優越感だったり、自己陶酔だったり。それにこだわって偽善をなさないよりは、開き直ってなしたほうがいい。内面が偽りでも、外には純善と同じ効果があるのですから。善意の寄付も偽善の寄付も同じだけの経済効果があるように。
 本当の私は、仏教的とは言い難い、ものぐさで酒好きなありふれたおじさんですが、こうして偽善的サイトを続けていくうち、ひょっとしたら真摯に(あるいは偽善的に)発心を起して下さる方がいるかもしれません。それに偽善で一番偽られるのは、どうやら実は本人で、偽善も続けているうちにだんだんその気になって、「偽」が薄まっていくような気もします。

 脱線しました。

>>>いわゆる「悟り」だとか「涅槃」だとか「行」による「体験主義」だとかもみな「我執」によって妄想された「自我肯定」の排泄物的概念にすぎないことも明白です。

 正しいのかどうか分かりませんが、私は、瞑想とその積み重ねの上にいつか訪れるであろう「意識の指向性停止体験」を要請しています。というのは、論理(言葉、戯論)で考えるだけでは、自分が問えないからです。論理は、常に対象を外にたてて考える。自分を考えてもそれは外に対象として立てられた自分であって、現に悩んだり考えたりしている自分ではない。「悩んだり考えたりしている自分」と考えた瞬間、すでにそれは外に対象として立てられている。他ならぬ自分の無我・縁起を知るためには、論理を超えたなにかがなければならず、それは一種の宗教体験であろうというのが、今の私の仮説です。そしてその体験によって、我執や実体的な自我の意識は粉砕されると期待しています。
 勿論我執に基づく妄想体験で、真理を得ただの、神の宣託を得ただの、最終解脱を果たしただのといいたてる輩が多い事も事実です。いかにして両者を見分けるのか、その術は私にもまだ分かりません。

>>>仏教を生きてゆくための教え、人を救済するための教えと捉えることは、「我執」による仏教のねじ曲げであると思えます。

 かつて私は、自分が自分にふさわしい目的や価値を持っておらず、ただ時間の中にある事に苛立っていました。自分を蔑み、人を蔑み、世界を拒絶していました。その私が、自分の生に目的や価値はないと認めつつ、それでも自分を許し、世界と和解し、山や空を美しいと思い、懸命に生きる虫や動物を祝福し(ここに素直に「人」が入ってこないのはなぜだろう?)、この世界を有情といっしょに喜び悲しみつつ、とにかく限りある生を生きていくことを善しとする、そんな気になっているのは、仏教のお陰です。
 「仏教に救われた」と完了形で言う事はできません。でも「救われつつある」と進行形では感じています。

>>>結論としては、仏教は「迷いの世界」の構想だけを説く「究極現象論」であり、「縁起」による「仏教的ニヒリズム」によって「無我」を教える非社会的で無力な「真実」の思想であると言えるのではないでしょうか。

 結論としては、仏教は、現象を実体のある自存的存在と見ることが執着を生み、そのことが更に苦をもたらすと説き、執着の対象も自分も、実は縁によって始まり変わり終わる無我なる現象であると教えている。自分が無我なる縁起の現象であると想像する事は、いまだ自分に執着している人には、大変にペシミスティックに思われるが、自分が無我なる縁起の現象であると知ってしまえば、目的や価値の概念に束縛されず、身の回りの様々な現象とともに縁起し合う事を喜び、縁起し合う有情の喜び悲しみ苦しみを共にしつつ、世界と和解し、自分を許し、限られた生を顔を上げて生きていく事を可能にする。すなわち、仏教は、ポジティブなニヒリズムであると思います。

>>>「仏教」は、「縁起」という「宗教的ニヒリズム」を説き、そこには、いささかの「肯定」も含まれず、全ての「現象」を否定すること以外に「無我」は、「真実」になりえない、、、

 この文章は、私にはよく理解できません。縁起とは、すべては自性を持った自存的存在ではなく、縁によって生まれ変化し終わる現象である、という世界理解です。肯定か否定かといえば、自性や存在を否定し、縁や現象を肯定しているといえるかもしれません。現象を実体化せず、現象のままに見ることが無我の立場であり、現象を否定する立場ではありません。現象は事実として現象しています。

>>>「現象」を肯定する要素が少しでも含まれるのなら、それは、ただちに「不可逆な生」における「無明」もしくは「宿業」の「我執」により、「現象」の「実体化」に転落することは、事実です。

 現象を現象としてではなく、自性を持った永続的な自存的存在と見る事が、執着を生み出す「現象の実体化」です。ですから、逆に現象を正しく現象としてみる事は、現象の実体化を阻止する事になります。

>>>「仏教」は、徹底的にネガティブで絶望的で無力な真実の叫びであると捉えざるをえません。

 仏教は、ポジティブだと思います。ちまちまと小賢しい価値や意味を振り払い、未来のために今を犠牲にする事を否定し、今を喜び今を悲しみ今を苦しんで生きることを可能にするポジティブな教え、それが仏教だと思います。

>>>「輪廻」はやはり現象として顕現されてしまうのかもしれませんね・・・・。

 「あたりまえ、、」本文に書きましたが、輪廻が永遠でなくいつか終わるなら、何度輪廻を繰り返そうと、目覚めて眠るこの生と本質において変わる事はなく、私としては、今を生きるだけです。
 しかしながら、私の現象としての持続性は、外界からの刺激に対する反応のパターンとして、脳内のニューロンとニューロンの結びつきに保存されていると思うので、私という現象が終息し、焼き場で焼かれた暁には、その結びつきのパターンは破壊され、来世に持ち越される術はないと考えます。
 輪廻の問題は、あろうがなかろうがどちらでもいいとは思うものの、世間の人にとっては、我執をより強固にさせる危惧があるので、明快に、輪廻はない、と答えたいと思います。

 以上、長々と書きましたが、ご要望のリアルな意見になり得ているでしょうか? 少なくとも文献学には程遠い事は間違いありませんが、、、、 また是非ご意見をお聞かせ下さい。

ユキオ様

2000年9月25日        曽我逸郎

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