曽我逸郎
こんにちは、水野です。長文にわたる丁寧なご回答、ありがとうございます。感謝の域を通り越して、はなはだ恐縮しております。

前回わたしがお尋ねした質問は以下の3点でした。

(1) 「我執を断とうとすること」は「我執のなせる業」ではないか?
(2) 仏教経典は絶対の権威を持たないのか?
(3) 仏教は「神はいない」という証拠を握っているのか?

このうち(1)へのご回答には疑問が残り、(2)と(3)へのご回答については納得できましたので、今回は主に(1)についての私見を詳しく述べさせていただきます。
(2)、(3)については簡単な感想ですので、読み流してくださっても結構です。

(1)『「我執を断とうとすること」は「我執のなせる業」ではないか?』について

〜 「合理的客観的に審査した結果」の苦から逃れようとするのは我執である 〜

世界には究極的には目的も価値も無い。これは、合理的客観的に審査した結果です。万人が納得できる普遍的価値はない。でも、こう結論づけて、ボイドの中の熊でいることは、なかなかにしんどいことでした。その苦しみから抜け出そうとすることは、確かに利己的かもしれず、おっしゃるとおり我執かもしれません。しかし、我執と呼ぶには単純なもっと直接的な感覚だと思います。釈尊が一切皆苦と告げられ、そこから離れる道を示されたのに対して、「それは自己を救済せんとすることで、自己にこだわった我執である」と反論することは可能かもしれませんが、そう考えてしまうと永久に苦の中に留まる他はありません。苦しみ助けを求める人にむかって、釈尊が「苦から逃れたいと思うのは、自己愛であり我執である。あなたは苦に留まるべきだ」とおっしゃるとは思えません。

自分の感じる苦が「合理的客観的に審査した結果」から生じているなら、「(その)苦から逃れたいと思うのは、自己愛であり我執である。(そのひと)は苦に留まるべきだ」、とわたしは思います。なぜなら、その苦は「合理的客観的に審査した結果」から生じているのであり、「合理的客観的に審査した結果」から生じているものをくつがえすことは誰にもできないはずだからです。是が非でもくつがえそうと思うなら、合理的客観的に思考する態度そのものを捨てるしかないでしょう。それが、真実よりも自分の利益を優先させる「我執のなせる業」であることは言うまでもありません。

愛する者との死別の悲しみを例にして説明しますと・・・、

「愛する者の死」は「合理的客観的」な事実であり、したがってそこから生じる苦も、認めざるを得ない現実のものです。どんなに辛くてもひとはその苦の中に留まり、嫌というほどその苦を味わうほかありません。それに耐えきれずに、「死んだなんてウソで、彼はきっとどこかで元気に生きている」とか「彼女は今ごろ天国で幸せに暮している」などの非現実的、非合理的な思い込みによって苦から救われようとするなら、それは我執による誤った行為だと言わねばなりません。同様に・・・、

生まれたものどもは、死をのがれる道がない。老いに達し、そして死ぬ。じつに生あるものどものさだめは、まさにこのとおりである。・・・だから、師が教えられたように、人が死んでなくなったのを見るとき、かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ、とさとって、嘆き悲しみを捨て去れ。
   (スッタニパータ、575〜590)

アーナンダよ、やめよ。悲しむな、泣くな。アーナンダよ、わたしはかつて説いたではなかったか。すべて愛し親しめる者も、ついに生き別れ、死に別れ、死してはその境界を異にしなければならぬ、と。アーナンダよ、一切は壊れるものであって、ひとたび生じたるものがいつまでも存することが、どうしてありえようか。
   (パリニッバーナ)

という仏教の考え方もわたしには、愛別離苦という「合理的客観的」な悲しむべき現実を受け入れず、そこからなんとか逃げ出すために考え出された単なる自己暗示のように思われてなりません。こういう論理によって死別の悲しみを克服できるとは、とても思えないからです。

そもそもなぜ「嘆き悲しみを捨て去」る必要があるのでしょうか。愛する者の死は逃れられない現実であり、それに伴う「嘆き悲しみ」は人間としてごく自然なものなのに、そういう感情を否定し、自己暗示めいた考えによって「嘆き悲しみを捨て去」ろうとする必要が、どこにあるのでしょうか。苦をまともに受け止めようとせず、「とにかく救われたい」という我執がそこにあるように思われます。

「合理的客観的に審査した結果」の苦を、これまた「合理的客観的に審査した結果」の思想である無我や縁起を悟ることで克服できる、というのは明らかに矛盾です。「合理的客観的に審査した結果」が相克しあうはずはなく、どちらかが最初から「合理的客観的に審査した結果」ではなかった、間違った推論だった、と結論できます。わたしには、愛する者との死別を悲しいと思う、人間として最も基本的な感情が間違っているとはどうしても思えません。つまり、「合理的客観的に審査した結果」の苦だ、と思います。したがって、その苦を克服できるとして「合理的客観的に審査した結果」を否定する仏教の教えは「合理的客観的」ではない我執の考えによるものではないでしょうか。

以上、まとめますと下記のとおりです。

・「合理的客観的に審査した結果」の苦は克服できず、受容するしかない
・なぜなら「合理的客観的に審査した結果」をくつがえすことはできないからである
・したがって、「合理的客観的に審査した結果」の苦、すなわち克服できない苦を克服しようとする努力は、「合理的客観的に審査した結果」を受容せず「合理的客観的」な思考よりも自己の救済を優先させた我執の産物である

(2)「仏教経典は絶対の権威を持たないのか?」について

これについては納得することができました。丁寧に教えていただき、感謝しています。

お尋ねの「聖書の権威は絶対なのか」についてですが、わたしの説明不足でした。現在、聖書にはたくさんの間違いが指摘されているため、聖書を絶対の権威を持つ経典として扱う教団は少なく、多くは聖書を相対化して扱っているようです。ただ(わたしが思う)聖書と仏典の大きな違いは、聖書が自ら「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ(た)」と宣言している点です。その内容がどうあれ、聖書自身はあくまでも、聖書を不確かな人間の言葉としてではなく神の言葉として扱うように要求している、その意味で聖書は「絶対の権威を持つ経典」だ、とわたしは思っています。

(3)『仏教は「神はいない」という証拠を握っているのか?』について

この質問が発せられたそもそもの原因は、聖書の神は人間の想像の産物であるという趣旨の言葉が仏教の徒である曽我さんから実に簡単に出てきたことに、わたしのほうが「面食ら」ったからでした。しかし、聖書の神について仏教の方に尋ねるのは、いわば国語の先生に英語の質問をするような愚行でした。どちらにしろ、「神の存在・非存在の証明からすべての宗教的主張は出発すべきである」という主張は仏教にはあてはまらず、聖書以外の宗教を知らないわたしの行きすぎた主張でした。撤回させてください。

しかしこの質問によって曽我さんとわたしの「宗教の捉え方」の違いがよく分かり、興味深く思いました。

私は、神の存在・非存在について思い悩んだ事はありません。私の場合は、自分の生が無意味ではないか、どうすれば自分に意義を与えられるのか、という悩みが出発点でした。

という曽我さんとは逆に、幼い頃から聖書が真理だと教えられて育ったわたしは、人間の支配者である絶対の神がいるということ、それによって、神に従う生き方だけが正しくそれ以外はすべて罪であるという「意義」や「普遍的価値」が発生してしまうことに悩まされたからです。聖書から離れた今は人生の究極的目的や価値はなくなりましたが、ほっとした感慨こそあれ、苦しいとかむなしいなどとはほとんど思いません。

したがって、「世界には究極的には目的も価値も無い」ことや「万人が納得できる普遍的価値(が)ない」ことに苦しんだ、という曽我さんの気持ちはわたしにはあまりぴんと来ませんでした。普遍的価値などないからこそ、人間は自由に考え、自分が正しいと思う生き方を選択することができるのではないでしょうか。『「それ目指して励め」と説かれる目的』(あたりまえのことを方便とする般若経注18)という表現からも明らかなように、普遍的な価値・目的とは、「励め」などの命令形によってただひとつの生き方をひとに強制し、それを守れない弱者を罪の意識に陥れる、きわめて非人間的なもの、それこそ苦の根源以外のなにものでもない、と思います。
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以上です。素人がえらそうなことばかり言って申し訳ありません。ただ、決してはなから仏教を否定してやろうという「否定のための否定」ではなく、すべて素直に浮かんだ疑問・感想です。特に(1)は気に掛かっている点ですので、ご意見を頂けるとありがたいです。では、長々とお付き合いくださり、ありがとうございました。失礼します。


水野さんへの返事

水野様
              2001、1、18、

 本当に本当に遅くなりました。メールを頂いてから半年以上たってしまいました。どうか御許し下さい。

 二つのテーマで返事を書きます。

 ひとつめは、「合理的客観的に審査した結果の苦」について。
 もうひとつは「悲しむべき現実」に関して。

 前者については、私の説明不足があって誤解を生んでいるようなので、補足説明をします。
 後者については、私の感想めいたものになりそうです。

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 ではまず、「合理的客観的に審査した結果の苦」について。

 「世界には究極的には目的も価値も無い。万人にあてはまる普遍的価値はない。」
 これが、私の言う「合理的客観的に審査した結果」の「判断」です。これは、ひとつの判断に過ぎず、直ちに苦である訳ではありません。確かに私は、究極的普遍的な価値・目的がないことに苦しみました。しかし、この苦は、究極的・普遍的な価値・目的の不在が、直接それ単体でもたらすものではなかったのです。
 というのは、はずかしながら、当時、私は、自分をひとかどの存在だと思っていました。なにか「たいした事」をやりとげるべき人間であるはずだ、と思っていました。自分にふさわしい目的・価値、自己の存在意義を求めていました。こういう肥大した自尊心、すなわち我執が土台としてあったが故に、「為すに値することはない」という判断が苦となったのです。我執がはけ口を失って取り残された、という言い方もできるかも知れません。つまり、上記の「判断」ではなく、我執こそが私の苦の本当の原因だったのです。

 「17歳の事件」の数々が世間を騒がせています。ひょっとするとまったくトンチンカンなのかもしれませんが、実は私は、かつての自分を思い返して彼らにシンパシーを感じてしまっています。自分の存在意義というか、世界の現実感というか、そういったものがあやふやになって、なんとか世界を実感しようというあがきが煮詰まった挙げ句、ああいう形で噴出してしまったのではないでしょうか?
 しばらく前の時代では、たいていの人が漠然としたものにせよ、自然な形で自分の存在意義を感じ、自分の役割を疑わず、世界の中における自分のポジションをもち、その結果、世界のリアリティもあったのでしょう。しかし、今は、自分の役割もポジションも見出せない人が増えていて、その中の一部の煮詰まった若者が、短絡的に最も生々しく世界のリアリティを実感しようとして、殺人に走ってしまったのではないか、と思われるのです。最も生々しい事件に自分を立ち会わせることにより、世界とそこにいる自分の「存在」を確認しようとしたのではないでしょうか。彼らにとっては、それくらい自分の「存在」が希薄で、世界は遠いものだったのだろうと想像します。

 私自身の話題に戻りましょう。

 究極的・普遍的な価値・目的がないという事実に気づいた私は、何か大した事を成し遂げて自分を価値づける方策を失って、悩みました。何を成し遂げようと意味はない。世間の人のやっていることも、すべて自分の生に意味のないことを取り繕うごまかしとしか映らず、人々を見下し憎んでいました。

 その中で、まったく新しい視点を与えてくれたのが仏教でした。
 私の思い上がった鼻持ちならない「苦しみ」の理由は、価値・目的の不在ではなく、自分がたいした「存在」としてあるべきだという執着にあったのだとようやく気がつきました。
 仏教によって、私とは永続的な実体ではなく無我なる縁起の現象なのだ、と教えられました。あらゆる現象とともに縁起し合う、世界の中の、世界に開かれた現象。世界の変化を見、世界の変化を聞き、縁を受けて世界と共に変化して行く自分。そんなふうに考え始めると、意味や目的が重大な問題ではなくなっていきました。自分のことだけではなく、外へも視線を向けられるようになりました。けっして我執がなくなった訳では全然まったくありません。でも、戯論レベルの知識でも、無我・縁起の教えは、我執による価値や目的の問いから私を解放し、随分楽にしてくれています。

 以上が、合理的客観的に審査した結果である意味・目的の不在に苦しんだけれど、仏教がそれの解決の糸口となってくれている、という事情です。

 私が勝手にシンパシーを抱く「17歳」の人たちにとっても、仏教は脱出の手がかりになると思うのですが、どうでしょうか?

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「悲しむべき現実」について

 無我なる縁起の現象として世界の中で様々な現象と縁起しあい変化することは、喜びばかりではありません。おっしゃるとおり、変化には悲しみもあります。

 釈尊とて親しい人との別れやその死を悲しまれなかったはずはないと思います。もしも釈尊が、そんな時にもまったく気持ちを動かすことがなく、平然としておられたなら、そんな人を誰が慕い、師と仰ぐでしょうか。

 水野さんが引用された経文の言葉は、私には悲しみに充ちたものに聞こえます。死は、我々が無我なる縁起の現象である限り、避けることのできない必然です。それに直面した時は、いたずらに否定も拒絶もせず、悲しくともしっかりとそれを受け止めて、納得し、克服しなければならない。これが釈尊のおっしゃっていることだと思います。実は釈尊は、誰よりも自分自身に向かって、自分を納得させようとしておっしゃったのかもしれません。

 苦の中には、我々が無我なる縁起の現象であるが故にどうしても避けることのできないものと、執着によって無用に作り出している苦の大きく2種類があると考えます。
 四苦八苦のうち、生老病死の四苦と愛別離苦とは、前者の苦です。否定せず、逃げず、正面から受け止めるしかない。それを拒絶し逃げ出しごまかせば、後者の、もっと質の悪い別の苦を生み出すことになる。だから避けられない苦は、ごまかさず正面から受け止め、そして克服なさい。これが釈尊の本意だと思います。
(苦については、「あたりまえ、、」本文の「晩秋の説法」の「死を見る」のあたりにほぼ同様の分類を、また、小論集の「釈尊成道の過程」には3種の分類で書いています。ご一読下されば幸いです。)

 愛別離苦といえば、その中でも最大のものは、自らの死、つまり世界(=あらゆる現象)を後に残したまま先に終わることではないでしょうか。これもきちんと受け止め、納得するしかない。私自身そうできるのかどうか自信はありませんが、そういうふうに最期を迎えたいと思っています。

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遅い返事になって本当にすみませんでした。是非又ご意見お聞かせ下さい。

      曽我逸郎

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