曽我逸郎
はじめまして。
貴方のホームページを見てメールを送りご質問させて下さい。

空とは何かということについて色々な空の本を読んだのですが、今でもよくわかりません。
空については非有非無ともいわれていますが、有に非ず無に非ずとはどういうことかとなると全くお手上げの状態です。

非有非無について、空についてやさしく教えて下さい。
                         金子拝


金子さんへの返事

 メール頂きありがとうございます。

 大変大きな質問を受けました。

 私のホームページ全体が無我=縁起=空を語る試みですので、「全部読んで下さい」と申し上げたいところですが、簡潔に私見を書きます。分かりやすさを優先して、一般に承認されている妥当な見解を一部逸脱することを恐れずに、私の解釈を述べます。その点十分ご認識の上でご一読頂き、これまでお読みになったことなどと対比して批判的にご検討いただければ幸いです。

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 空は、サンスクリット語・シューンヤの漢訳で、大乗仏教、特に中観派のキイワードです。部派仏教(いわゆる小乗)の阿含経典ではあまり用いられていません。しかし、空は、釈尊の教えの核心である無我・縁起の正しい発展・継承であり、釈尊以後、部派仏教が釈尊の教えの純粋さを失いつつあったのを批判し、再び釈尊の高みに立ち返った思想だと思います。
(もっともそれ以後大乗仏教も部派仏教以上の加速度で釈尊から遠ざかり、世俗的な存在肯定の発想・見方に堕していくのですが、、)

 という訳で、まず、中観の空が継承しているところの、釈尊の無我と縁起の教えについての説明を先に試みます。そうすればおのずと「空」は(すくなくとも戯論のレベルでは)明らかになるでしょう。

 <無我> サンスクリット語・アナートマン。あらゆるものは、本質的実体(アートマン=我)を持たない、という事。例えば、木の机は、かつて森の樹であったものが、切られ整えられ組み合わされて、たまたま今は物を書くのに適当な台となっている、しかし、いつか打ち砕かれカマドに運ばれれば薪になる。今机と呼ばれ机として使う人がいるから今は仮に机なのであって、机という実体があるわけではない。
 我々自身も同様である。外界にある認識の対象となっているものの無我が法無我といわれ、主体の自己の無我が人無我といわれる。人無我といっても、自分を考察の対象として外にたてているのであれば、それは法無我にすぎず、主体の自己の無我を知ったことにはならない。
 論理=分別=戯論は、外の対象の無我=縁起=空を理解するのには有効であるが、最後の最後に突き破って主体の自己の無我を知るためには、戯論寂滅=主客対消滅の宗教的体験が必要である。
 法無我によって外の対象への執着をなくし、人無我によって我執をなくし、苦の原因をなくす、というのが釈尊の教えである。

 <縁起> あらゆるものは、永遠の昔から今ある姿で存在していたのでもなく、自己を原因として生まれたのでもなく、様々な条件・原因が重なり合って生み出されたということ。つまり、あらゆるものは、条件・原因によって生まれ、変化し、やがて終息する現象であるという事。法無我なる外界の対象もしかり、人無我なる自分もしかり。
 同じ内容を個々の現象に即して説明したのが無我の教えであり、現象(縁)と現象(起)の関係によって説明したのが縁起の教えである。
 (「あたりまえ般若」本文、頭の方の、風の比喩、泉の比喩、ロウソクの比喩も参照下さい。)

 <空> 自性(スヴァブハーバ)がないこと。机には机性はない。私には私性はない。つまり、あらゆるものは、無我であり、時間の中で縁起によって生まれ変化しいつか終わる現象であるということ。自己もまたしかり。

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 以上のとおりですが、このようにいうと、「虚無主義だ」としばしば批判を受けます。自己が無ければ、自主性も、主体性も、責任もなく、努力も生まれず、刹那主義・快楽主義に陥ると。しかし、こう感じるのは、まだまだ自分をいっぱしの存在として捉え自己に執着しているからです。「自我が存在し続けるのでなければ生になんの意味があるのか!?」 あきらかにこれは、我執に基づく発想ではないでしょうか。
 永遠なる絶対の価値(神、国家、民族、イデオロギーetc...)をたて、それに自己を捧げることによって、自分にも永遠なる絶対の価値を反映させようとするやり方とは、仏教は本来無縁です。そのようなやり方は、かえって苦をもたらします。
 縁起し合う無我なる現象のこのはつらつとした世界がすべてであり、あらゆる現象と縁起しあっている事こそが重要なのです。この世界を超えるものはありません。縁起しあう無我なる現象を超えた価値を主張する一切の思想を、無我=縁起=空の教えは否定します。あるのはただ、無我なる現象のすべてと縁起しあうよろこび、そして、ともに縁起する有情への慈悲のみです。
 したがって、自己も有情をはじめとする外界の対象も、単に全く「ない」のではありません。存在としては存在しないが、現象としては熱く激しく現象している。これが<非有非無>ということだと考えます。
 遠い過去から連綿と続く縁によって生まれ、環境や学習や様々な出来事によって影響を受け、なによりも今の自分という現象によって次の自分という現象に大きな影響(縁)を及ぼしながら、我々は熱く、激しく、喜び、苦しみ、怒り、悲しみ、慈しみながら、世界のあらゆる無我なる縁起の現象とともに、縁起し現象していく。
 無我=縁起=空を如実に知る事によって、自己と外の対象への執着を吹き消し、執着によるところの無用な苦をなくし、縁起を喜び、有情への慈悲をもって生きよ。これが釈尊の教えです。

 思ったより長くなってしまいました。しかし、いくら長々と説明しても、以上は戯論にすぎません。対象として立てられた自分の無我ではなく、本当の人無我を分かるには、言葉は届きません。なぜなら言葉はその本性上、対象化しないと問うことができず、言葉で問われた自己は、その瞬間に主体の自己ではなく対象の自己になってしまっているからです。
 法無我だけで人無我がなければ、虚無の世界の孤独な王様です。いらだちながら、けして満たされない惨めな王様。
(このところ世の中を騒がせている青少年の犯罪は、私自身の若い頃を振り返ってみると、自分に意味を与えようとしながらできない、もがきの結果ではないかと想像します。)
 主体の無我を知るためには、論理=分別=戯論による探求だけでは不十分で、いわゆる戒定慧が必要です。
 *戒=執着の火を掻き起こすようなことを避ける。
 *定=さらに心を鎮め、言葉・伝統・思い込みなどによる自己という現象のパターン化(いつも化、世界と自己に関する固定的対応)を解き、とらわれのない自由なものにする。
 *慧=論理・分別・戯論による探求と、さらにそれと定が相互作用して起こる主客対消滅・戯論寂滅の体験による主体の無我の理解。(「あたりまえ、、」本文の「座る練習」他、ご参照下さい。)

 私自身偉そうな事の言える日々を過ごしてはおりませんが(実際は穴があったら入りたい生活)、言葉による学習だけでは不十分で、戒も定も大切だと申し添えて、独善的な空の説明を終わります。

 私のホームページの他の部分もお暇な折りに是非ご覧頂き、またご感想などお寄せ下さい。

金子様

2000、5、20、  曽我逸郎


金子さんからのメール

曽我様。 ご返事頂きまして大変ありがとうございました。

再度で恐縮ですが、以下につきましてお教え願えれば幸いです。

仏教の四句分別では、

非有非無 が 空 ということである、とのことです。

私は、非有非無 有に非ずとは無であるのか。
        無に非ずとは有のことであるのか
        有でもなく、無でもないということが、なぜ、空になるのかがわかりません。

このことにつきましてねお教え願います。         敬具


金子さんへの返事(2)

拝啓

お問い合わせの件、以下のとおりお答えします。前回同様私自身の解釈である旨お断りしておきます。

1)有とは、決定(けつじょう)して自性ある存在。表面的な変化があっても、本質は変わらずに永遠に存在し続ける存在。
2)無とは、単にまったく無い事。ウサギの角のごとく。
3)空とは、変わらぬ本質をもって永遠に存在し続けるのでもなく、単にまったく無いのでもなく、縁によって起こり、縁によって変化し、縁によって終息する無我なる現象である事。

このあたりの詳細は、「あたりまえ、、」本文にくどいくらいに書いたつもりです。もしまだお読み頂いていなければ、ご通読頂けると幸いです。
         敬具

金子様

2000、5、22、   曽我逸郎

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