曽我逸郎
タイトル:キリスト教における転倒夢想


キーワード1「優劣」

 たとえば鉄棒で逆上がりができる人は、できない人よりも優れています。
 「逆上がりができる」という点において劣っている、といえば、
 逆上がりができないことを意味します。

 つまり「優劣」という概念は、できる、できない、という可能性に対する判断を、わかりやすく表現しなおした言葉(相対価値を客体化した造語)である、
 ということができます。

 キリスト教の神様は、伝統的に「全能」であるといわれます。
 どんなことでもできる、不可能なことはない、という意味です。

 「優劣」という概念における相対価値を、数学のプラス、マイナスにおきかえて言うならば、プラスの極限に「全能」があり、マイナスの極限に「運命」という言葉が置かれています。

 どうやっても変えることができない、可能性が全くない、という意味そのものを「運命」という言葉に置きかえる文脈は、スコラ哲学などキリスト教の影響下にある思想に見られるもので、現代人が「運命は自分で切り開くものだ」という時の運命とはニュアンスが異なっています。
 

キーワード2 「賢愚」

 たとえばパソコンを操作していて、MPEGファイルをダブルクリックすると映像が再生されるのは、どうしてなのか、プログラム的なアルゴリズムのみならず弱電の知識も持ち合わせて、中の動きが手にとるようにわかる、という人がいるとします。

 この人は、いっけん目には見えない、機械の中の動きを、(知恵の目で)見通すことができるので、この点において「賢い」ということができます。

 コンピューターの知識がなく、ただ使っている人・・・
ダブルクリックするとどうなるかわからないけどとりあえずやってみよう、という気持ちで操作している人は「見通し」と呼べるものがなく、行為が先行しているので、これは「愚かな行為」である、ということができます。

 一般的に言って、見通しのない行為は、愚かな行為です。
再就職のあてもなく仕事をやめてしまうとか、とりあえず都会へ出てとか・・・
結果としていい方向に転がることもあるので、「愚かな行為」は、必ずしも不幸を招くものではありませんし、「悪い行為」ともイコールではありません。

 能力があり、優れた人物であっても、見通しのない行為をすることがあります。ここではキリスト教の「全知」という概念を、わかりやすく説明するために、見通しのある行為を「賢い行為」と呼び、見通しのない行為を「愚かな行為」と呼ぶことにします。暗算ができるから「賢い」という社会通念からはなれて、理論的に定義された概念だと、ここでは思ってください。

 キリスト教の神様は伝統的に「なんでもお見通し」だと言われています。

 「全知」という言葉は、なにひとつ隠し事ができない、という思想から来るものです。どこまでも徹底的に見通すことができる神、その存在を認め、教会の存在と同一視、というか、共に認めることが、教会での懺悔という行為です。教会で懺悔したくない、という抵抗感は、神の「なんでもお見通し」を信じていないか、教会(牧師)と神の存在を切り離して見ているか、どちらかに違いない、というふうに意地悪な解釈もできます。

 「賢愚」を相対価値として再定義すると、優劣と同じように数学のプラス、マイナスに置きかえて考えることができます。パソコンの仕組みを理解している、5年後10年後の人生プランがしっかりある、未来予知・・・その他なんでも、「見通し」に関する判断は「賢愚」という概念に置きかえることが可能です。「プラスの極限が全知」だということは、ここまで読んでくださった方なら、だいたい見当はつくだろうと思います。

さて、ここでクイズです。

Q:「全能」と書かれたカードの対極に「運命」と書かれたカードが置かれています。別の場所に、「全知」と書かれたカードが置いてあり、その対極にもう一枚、カードがあるのですが、裏返しになっています。そのカードには、いったいなんという言葉が書かれているでしょうか?

ヒント:舞台の上の手品師が、帽子の中からウサギをとりだしました。多くの人がタネあかしされるまでもなく、ウサギの隠し場所を見ぬいていました。はっきりと見ぬいていない人たちも、きっとそれなりに仕掛けがしてあったに違いなと思って、それほど驚きませんでした。しかし舞台のそでにいた手品師の助手は、目をまるくして驚きました。この助手、舞台が始まる1分前に、隠し場所からウサギをとり出し、別の箱に入れておいたからです。手品師に恥をかかせようとしていたのです。どこからウサギが現れたのか、いくら考えてもわかりません。だまそうと思っていた自分が、逆に、すっかりだまされたような気分です。目の前で披露されたトリックを、どうしても見破る事ができない。
 助手はその時、自分の目を疑って、こう思いました。まるで・・・
 「まるで本物の・・が起こったみたいだ!」

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●仏教には関心があるけど、キリスト教はウソっぽくて・・という人に

 般若心教に「受想行識」という言葉があります。
「受」は、対象から自分へ向かう矢印であり、
「想」は、自分から対象へ向かう矢印である、と考えることができます。

 たとえば「鉄棒で逆上がりができる」という事実は「想」から生じます。
「逆上がりできない」という事実は「受」から生じます。

 「できない」と「想う」ことは可能なのですが、その場合の対象は「逆上がりができるか?」ではなく「逆上がりができないのではないか?」と問いかけていることになるので、「受」「想」が入れかわることになります。

 次に、逆上がりができるかどうかわからない人が2人いる、と考えてみてください。
ひとりは「できるかどうかわからないけど、とりあえずやってみよう」と鉄棒に飛びつきました。もうひとりのほうは、どうやったらうまくできるか、やってはいけないことはないか、見極めるために、鉄棒に飛びついた人の動きを、じっと見ています。
「見極める」とは「こうやればできる」とか「ここでひっかかれば失敗する」といった行為の成り行きを、始めから終わりまで見通す、ということです。

 キリスト教と仏教の、論理構造の共通点みたいなものをひとつ、ふたつ指摘してみたつもりなんですが、いかがなものでしょう?

 PS:前回のメールで言葉が足りなかったところを補足しようと書き出したのですが、
    別ものになってしまったような・・・


間 黒男さんへの返事

この次に頂いた9/13の間さんのメールに返事を出しました。といっても、手品師の謎かけへの自信のない答えとギブアップ宣言なのですが。間さんからの種明かしも頂きました。「意見交換のリスト」から「9/13の間さんのメール」をクリックしてお読み下さい。

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