曽我逸郎 様
               from 谷 真一郎
 やや久しぶりにメールさせていただきます。先日お送りした世親の『唯識三十論』の解釈に対していただいた曽我さんの感想に、やや「斜め」の角度からお答えしたいと思います。
外界の実在性を否定する唯識という思想が、仏教思想史のなかではどのような位置づけになるのか、考えつつまとめてみました。
 是非の評価はあとまわしにして思想史的な変遷を辿る、といういつもの私のやりかたで述べてみようと思います。
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 どのような世界観に立って縁起説を述べるかで、以下の二つの立場がありえます。

1.外界の諸物の客観的実在は認める。しかしそれらは相依性であり、縁起的存在である。そのことを識らず、言語名称をあてはめ、さらに好悪を催して執着するところに苦が生じる。つまり、苦は「外界の見まちがい」によるものである。
2.根本的な迷い(無明)がまずあり、それが幻のように意識外に投影されて意識の対象物が生じる。その対象物に執着して苦が生じる。つまり、苦は「外界が実在するという錯視」によるものである。

 仏教思想の流れの中でこの二つの立場を検討してみます。
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1.釈尊御自身はおそらく、意識から独立した外界の客観的実在を認めておられたと思われます。スッタニパータの中でも最古の部分である4章にはそういう哲学的テーマに関する議論はないのですが、「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない」(923)「名称と形態(後述するnama-rupa)について、わがものという思いの全く存在しない人、……彼は実に世の中にあっても老いることがない。」(950)と言っておられます。
 これらは、素直に読めば、自我に対する世界の「外部」性(外部だから自分の思うがままにはならない)の指摘です。

2.六師外道の多くは「唯物論」者であり、その一人であるニガンタ=ナータプッタ(ジャイナ教の始祖ヴァルダマーナ)は、外界からさまざまの汚れが「漏入」して霊魂を汚染することで苦や輪廻が生じる、としました。
 しかし、仏教のかなり初期においてこの考えは批判かつ逆転され、煩悩が「漏出」して苦の世界を形成する、と考えられるようになりました(註:昨年3月27日のメールでは「漏出」が確実に釈尊御自身の考えであったように書いてしまいましたが、あれはやや勇み足でした)。そのプロセスが論理的に整理されたものが十二因縁であり、あきらかに意識から外界(の像)が形成されるという構成になっています。

3.また、これも仏教のごく初期に、「nama-rupa」という術語の意味の転換がされました。
 「nama-rupa」への執着を脱却することが悟りへの道である、ということがウパニシャッド時代から言われ続けてきたのですが、その「nama-rupa」(漢訳では「名色」)とは、namaは形相、rupaは質料、であって、要するに外界存在一般を指していました。ところが仏教のかなり初期にこの言葉は「個人存在」という全く別の意味を与えられました。この意味の転換を中村元は「教義学者のこじつけ」とまで言っています(岩波文庫『ブッダ真理のことば・感興のことば』訳注P113)。
 「個人存在」には精神的側面(名)とともに身体的側面(色)もあるわけですから完全な観念論とはいえませんが、世界を自己の関数として捉える傾向が出てきたことはまちがいありません。つまり仏教は、ウパニシャッド以来の「nama-rupaへの執着を絶て」というテーゼをそのまま採用して、「nama-rupa」の意味を転換することでテーゼ全体の意味を転換したのです。
 2も3も非常に古く、スッタニパータに続く時期に書かれた経典(サンユッタ=ニカーヤ 岩波文庫の『神々との対話』『悪魔との対話』)にすでに見られます。この傾向が、釈尊の考えからの逸脱であるのか、それとも釈尊御自身の中にもあった傾向の発展であるのか、非常に難しい問題です。

4.次にアビダルマの時代になると、むしろ外界実在論が優勢になったようです。有部と経量部との間の論争のテーマのひとつが「原子論」だったのですから、両者にとって外界の実在は前提とされていたわけです。
 しかしその場合も、75のダルマ(法)を立てるうちで色法は11にすぎず、心理的な諸要素をたくさんのダルマに数えています。外界の実在を認めるといっても結局は意識(をはじめとする六識)の対象となる限りでの外界にすぎず、容易に「外界=幻」論に転化しうるものでした。少なくとも、六識や心所(煩悩等の心作用)を含めてすべてを原子間の力学や原子の集合離散で説明しようという発想(つまり唯物論)は、全くなかったといってよいでしょう。

5.では大乗経典ではどうか。
 もっともっとたくさん読めばわかってくる問題なのかもしれませんが、私の読んだ限りでの大乗経典には、二つの傾向が未整理のまま混在しているように思われます。
 つまり、外界のありかたの問題として〇〇は空である、〇〇は存在しない、といった断言が続きます。ところが、それを説明するのにしばしば「幻術」が比喩として使われるのです。大道芸人の魔術師がいて、ありもしない象や怪物を虚空に描いてみせる、それらは実在するように見えるが実は幻であって実在しない、それと同様、人々が実在すると思って執着しているあらゆるものも……、というわけです。この比喩の使い方からは明らかに、外界の諸物の客観的実在を否定し、それらを意識の側からの投影物とする思想が読みとれます。
 しかし(くりかえしになりますが)幻術の比喩以外の部分は、外界を律する原理として縁起・相依性・空があるのだ、と素直に読むことができます。
 こう言ってしまえばみもふたもないことですが、常識的には矛盾するこの二つの立場が、修行によって得られる高い立場にあっては統一されているのでしょう。おそらく「主客対消滅」の経験を経た後の「主客対再生」のレベルでのことであると推察します。
 華厳経十地品(十地経)に有名な「三種の迷いの存在はすべて、ただただ心のみである。(三界唯心)」があり、これ自体は誤解の余地のない表現です。唯識という学派の理論的立脚点もここにあるのですが、この文句は十地品や華厳経の全体を支配しているわけではありません。

6.龍樹の『中論』については、私なりの読み方を以前に説明させていただきました。それに沿って考えると、『中論』での議論は「主客対消滅」の瞬間、「永遠なる現在」の心体験を述べているものであって、この瞬間にあっては意識も外界もともに存在しない、従って外界の客観的実在云々といった議論に関しては、その議論そのものの圏外にある、といってよいかと思います。

7.そして唯識です。この学派は、少なくとも理論としては経量部のものを大幅に借用しています。経量部は外界の実在を認めつつ、意識形象は外界に直接に由来するのではなく、外界に触発されて意識内部に生じるものである(有形象知識論)という立場を採ります。ヒンドゥー哲学のサーンキヤやヴェーダンタも同様の立場だそうですから、この面ではインド思想の主流に属します。この立場に立つと、外界の客観的存在を認めるといっても、外界の役割は意識を触発して形象を生じさせるだけのものであり、外界の実在性の証明それ自体も「意識を触発する何物かがあるはずだ」という、意識の側からの証明になります。
 ですから、この経量部の理論を組み変えることで、外界の存在を前提としなくても意識の存在や意識形象の生滅変化を説明できるようになりました。これが唯識です。
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 以上やや長々と思想史的な叙述をさせていただきました。
 外界の客観的実在を否定してすべてを意識(をはじめとする六識)の投影物とする思想は、決して突然に生じた奇論ではなく、それ以前からあった傾向の発展であり精密化である、と考えられます。
 煩をいとわずくりかえしますと、一方には、「縁起する外界」の実在を認め、それへの執着に苦の原因を見いだす立場があり、もう一方には「外界(=苦界)という幻を描き出す意識」に苦の原因を見いだす立場があります。
 どちらにくみすべきか、ということを早急に考えるよりも、まず、哲学的な議論のレベルでは全く隔たったこの二つの立場が、おそらくその隔たりについてあまり自覚されないままで「仏教」あるいは「縁起観」として共存あるいは混在してきた、ということの意味を考えるべきではないか、と思います。
 我々日本人も、(外界の)四季の変化に重ねて我が身の無常を観じる、という美意識を持つ一方で、「何事も心の持ちよう次第」(かなり体制順応的な臭いはしますが)と言ったりします。
 仏教の中では、最終的には、この二つの立場の違いは問題にならなくなる、と予想しておいてよいのではないでしょうか。
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 最近、岡野守也という人の『唯識のすすめ』(NHKライブラリー)という本を読みました。彼は仏教プロパーの人ではなく、トランスパーソナル心理学等のニューエイジ系の世界から唯識に出会ってそれにのめりこんだ人です。その彼が、こう書いています。
(川の流れの無常ということに関して)「いつまでもあるような大河は心との関係からいっても、物同士の関係からいっても存在しない。そうすると、大河は「空」であるといわざるをえない。」(P115)
 ここで私が評価したいのは、この言表の正否ではなく、その姿勢あるいは態度です。『摂大乗論』その他を精読したという彼が、唯識の教説から言えば「物同士の関係からいっても」の部分は不必要どころか誤謬になる、ということに気づかなかったはずがありません。しかし彼は敢えてそれを入れて説いています。ここでは典型的な一文を引用しましたが、同趣旨の箇所はこの本のあちこちにあります。彼は、教説の哲学的な整合性を保つことに絶対的な価値を置かず、人々の執着を解き、心の持ちようを変える、という実践的な目的を優先しているわけです。そしてこれは釈尊御自身が法を説かれた時の姿勢とも共通します。
(といっても私はこの本に全面的に満足しているわけではなく、かなりくりかえしが多いからこの内容なら2/3くらいのページにまとめられるのではないか、とか、マナ識の問題をアラヤ識と同等かそれ以上に強調しているのはどうも……といった不満も持っています。)
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 あと、曽我さんが問題とされているもうひとつのてんである、アラヤ識とは結局自我と同じものになるのではないか、ということについては、私は唯識の思想家たちにむしろ「同情」したいと思います。実体としての自我ではない、しかしなにかしら個体単位で刹那滅してゆくものを設定しようとして彼らが苦心惨憺しているのを感じるからです。それは論理的には必ずしも成功していないのかもしれません。しかし、前回のメールでも書きましたように、「迷っ」たり「悟っ」たり、「修行して無我を観じ」たりするのは「誰」なのか、という難しい問いは残るわけです。
 というわけで、今日はこのあたりで失礼いたします。

     谷

追:今日曽我さんからお知らせいただいた「意見交換のページ」のメールを卒読いたしました。特に間黒男さんの御意見には、今まで自分が考えていなかった分野が含まれているように感じましたが、それについての考察はまた後日のこととし、とりあえず以上の内容を送信させていただきます。


谷 真一郎さんへの返事

すみません。まだお出しできていません。もうしばらくお待ち下さい。

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