曽我注記:以下のtaka kudouさんのメールにありますとおり、送って頂いたメールが何故か未着のままになっていたようです。谷さんのメールのお陰で切れかけていた縁がまたつながりました。taka kudouさんから、未着メールの再送と新しいメールを同時に頂きましたので、2通を一続きのものとしてここに掲出させて頂きます。
さらにもう一通、4月5日の谷さんのメールへのお返事も頂いており、こちらは意見交換・谷さんの同メールのページに私の返事の後に掲出させて頂きました。合わせてご覧ください。
曽我さん、こんにちは。以下は2/17に送ったメールですが、お返事がもらえなかったので、次に送る予定だったメールも完成しないままになり、ごぶさたしておりました。
今回、谷さんという方から私たち二人に意見をいただいたのをきっかけに、意見を書きましたので送りたいと思いました。それで、もしかしたらこのメールが曽我さんのところへ着いていない可能性もあると考え、こうした考えが背景にあるということをお知らせしておいたほうがよいと思い、再送します。
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曽我さん、こんにちは。
今回は「無我」について、物理学とくに量子論との関連で考えたことを書いてみます。
最初に唯物論についてですが、唯物論は科学なのではなく一種の信仰だと思います。科学はいろいろなことを解明してきました。しかし、あの世や霊魂といったものが存在しないことを証明したわけではありません。むしろ量子論などは「存在」というものが私たちが肉体感覚で捉え認識しているものとは別なものであるという可能性を示していると思います。
意見交換(99, 8,23)より引用
わたしは、無我=縁起は、最も基本的な宇宙の根本法則だと考えています。無我=縁起は、科学をも包摂する理論であり、相対論も量子論も、無我=縁起という大きな真理の一部分を記述したに過ぎないと思う。ちょうどニュートンの理論がアインシュタインの相対論の限定的な近似であるように。
万が一、無我=縁起に反する事実が発見されたとしたら、それはどんなに些細な事だとしても、無我=縁起に対する反例であり、無我=縁起の無謬性を打ち砕くことになります。私は、無我=縁起をそれくらい基本的普遍的な宇宙の真実だと考えています。 つまり、私にとって、科学は釈尊の教えに対立するものではなく、釈尊の教え(無我=縁起)を論証するもの、仏教の方便なのです。
無我とは別な言い方をすると「存在するものの原因はそれ自体にはない」ということです。物質や現象それ自体にはその物質や現象を存在させているところの原因・本質がないということです。物理学的には「局所原因の原理の破綻」ということになるかと思います。
もちろん「それ自体に原因がない」ということは「原因が無い」(我無し)ということではなく、それとは別なところに原因がある(我に非ず)ということです。(そうでなければ縁起と矛盾します)
もし、この物質的世界そしてその中に存在する物質的な物がすべてが無我であるなら、この世(物質的世界と物質)にはこの世を存在させるところの原因がないということになります。つまり、この世が存在するにはこの世とは別な世界がなくてはなりません。
このように言うと一つの現象は別な現象を原因として起こっているのであり、この世以外に原因を求める必要などないと考えるのが普通だと思います。一方量子論によると物質は素粒子レベルで一体であり分割不可能であるという可能性が示されています。つまり素粒子レベルで見れば物質の変化は他の物質の変化の原因でも結果でもなく、変化は同時に一体となって起こっていることになります。そうだとすると、この世にこの世の原因を求めることはできないということになります。この世はこの世だけでは存在できないということです。
それではなぜ現象は他の現象を原因として起こっているように見えるのでしょうか。それは私たちがやはりそれ自体が物質の塊である肉体の感覚器官を通して時間や空間に囚われながら物質的現象というものを認識していることに原因があります。しかし、量子論が示すように存在するものの本当の姿は私たちが肉体の感覚器官を通して認識しているものとは別なものである可能性が十分あります。私たちが現実だと思っているものはもっと精妙な意識から見れば仮想現実なのかもしれません。それを精妙な意識状態に達した仏陀たちは「空」「無我」と表現したのだと思います。
心霊主義においてはこの世はあの世の投影、肉体は霊のこの物質世界での表現形式ということになっています。つまりこの世の原因はあの世であり、肉体の原因は霊ということです。この心霊主義の主張は「無我(非我とうい意味)」にも「縁起」にも「局所原因の原理の破綻」にも合致するものであると思います。
ところで、「局所原因の原理の破綻」からは三つの世界観が導き出されるそうです。
1:局所性の消失
すべてのものは素粒子レベルで密接に直接に瞬間的に結びついている。
2:完全決定論
選択肢は一つだけであり、自由意思などによる選択などありえない。
3:多世界解釈
選択可能な数だけの幾つもの世界が存在する。
1が真実だとすると宇宙のすべては素粒子レベルで瞬間的に影響しあっていることになり、宇宙全体が一体であり分割不可能ということになります。ということは上にも書いたように、素粒子レベルで見ればこの物質世界では原因結果という連鎖がありえないことになります。物質世界のみでは縁起が成り立たなくなると考えられます。
2の完全決定論が真実だとすると、最初からすべてが決定しており他の可能性などそもそも存在しないことになります。最初の条件が変わっていたらと仮定すらできません。当然、自由意思などもありえません。
3の多世界解釈ですが非常に不思議な世界観です。これも局所原因の原理の破綻から導き出されるものです。霊界通信の「セスは語る」においてもこの世界観が提示されています。セスによると選択可能な数だけの幾つもの世界そして我々が存在するとのこと。例えば、曽我さんが小説家になりたいという願望を持っていたとします。しかし、この現実では小説家ではない道を選択したとします。この現実には小説家ではない曽我さんが存在します。しかし、別な現実・別な地球では小説家になる道を選択した曽我さんが存在し小説を書いているということになります。
多世界解釈と関連すると思われることですが、心霊主義では心で思ったことはたとえこの物質世界で行為として為されなかったとしても思いの世界・別な世界に確実に何らかの影響を及ぼしているとされています。セスによる多重世界の表現を借りれば、心で思ったことはたとえこの現実で実現されなかったとしても別な世界の別な自分が実行している可能性があるということになります。
また、キリストも聖書において「心で姦淫を犯したなら、それは為したのである」といっています。これなどもこの現実世界で実現されなかった思いも別な現実では実現されていることを言っているのではないかと思います。
ところで、唯物論的な考えを持っている方は大概2の完全決定論に行き着くようです。それも量子論というよりはニュートン力学の機械論的決定論のようです。しかし、少なくとも釈尊は自由意思を認め、自分の意思や行動で自分の人生は変えていけるのだと教えていたはずです。
意見交換(99,11,19)より引用
もし科学が霊魂という永遠の自存的実体があると証明したら、私は今の私の仏教理解の仮説を根底的に破壊しなければならなくなります。
曽我さんは科学が霊魂の存在を否定していると解釈しそれを拠り所として、ご自分の仏教理解の仮説を立てたのでしょうか。
最初にも書いたように科学は霊魂を否定してはいないと思います。いまだ科学は物質より精妙な存在形態を捉えるまでには発達していないだけのことだと思います。「永遠の自存的実体」はともかくとして、物質より精妙な存在形態を扱えるくらいには科学も発達していくと私は思います。
それでは、また。
taka
===================<以下2通目です。曽我>==================
曽我さん、こんにちは。takaです。
心霊主義の本については「セスは語る」はすこし難解な部類に入るかもしれません。シルバーバーチは読みやすい上に普遍的な教えが平易に説かれています。その他にもいろいろあります・・・・。
(1)非我について
*****曽我さん*****
takaさんは、アナートマンを「非我」ととらえ、「我はAでもBでもCでもその他通常<我>として想定されるどれでもない」という教えとして理解しておられるのだろうと思います。
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まず「非我」についてですが、「我とは〜である」(極端)とも「我とは<我>として想定されるどれでもない」・「我は何ものでもない」(極端)とも考えていません。
以前に書いたように、「存在するもの」は多重構造になっていると考えています。そしてより精妙な体から見ればより粗雑な体は一時的に仮に存在するものです。ゆえにより精妙な状態から見ればより粗雑な状態は「我に非ず」ということになります。しかし、その究極の我には言及しない(できない)というのが心霊主義、そして釈尊の姿勢だったと考えます。
*****曽我さん*****
非我説とは、「我は何ものでもない」という教えであるから、曽我の「我は現象である」という主張は非我説に反する、と考えておられるのだと思います。
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そうではありません。上にも書いたように「非我」とはより粗雑な状態をより精妙な状態の立場から見て、それが一時的に仮に存在しているにすぎないと知り、そこには我というものはないのだと悟ってゆくことであると考えます。そして、最初に否定されるべきものが物質的現象や肉体であるのです。肉体が我ではないと悟ることがまず最初の段階なのです。釈尊もそこから説いていたのではないでしょうか。
にもかかわらず曽我さんの釈尊の悟りに対する理解では、その最初に否定されるべき物質や肉体そして物質的現象こそ我であるとなっているように思われます。ゆえに釈尊が説いていることと反対ではないでしょうか、と思うのです。
(釈尊の「弟子」の言葉には曽我さんのように五蘊が仮に集まったものが自分であるというものもありますが、少し分析傾向があり、釈尊の執着をなくすための教えである非我とは違った印象を受けます)
*****曽我さん*****
だとすれば、どうやら私の言う無我がtakaさんにお伝えできていないようです。「我は無我であり、かつ現象である」という一見矛盾した主張は、実は矛盾ではありません。
無我とは、永遠、あるいは永遠とまではいかなくとも持続的で固定的な実体を持たないこと、です。すなわち、縁=条件によって生まれ変化し終息する現象であること、と同じ意味です。持続的固定的な我の実体として想定されているのは、霊魂に他ならず、したがって釈尊は無我説によって霊魂を否定された、と私は考えています。
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存在するものは「持続的で固定的な実体を持たない」もの、すなわち「条件によって生まれ変化し終息する現象」であるという意見には異論はありません。しかし、このことが霊魂を否定するということにはならないと考えます。人間の霊・魂もより精妙な意識存在からすれば「条件によって生まれ変化する現象」と言えるからです。
ここで、「持続的固定的な我の実体=霊魂」に関して、
私の理解する心霊主義における霊魂は「持続的で固定的な実体」ではありません。セスの言葉を借りれば霊魂とは「絶えずそして永遠に変化し続けるもの」「何かになろうとしている状態」「絶えず変化を遂げながら、常に学びつつある状態」にあるものということになります。
*****曽我さん*****
釈尊の時代のインドでは、人はそれぞれその人に固有の、持続的な、肉体とは別の、アートマンを持つ、という考えが常識でした。というか、人は、肉体が何度滅びようと、いかに輪廻しようともアートマンとしては一貫しているというのが常識でした。自分のアートマンを高め解放し本来的であるところのブラフマン(宇宙原理)と等しい状態にもっていくのが、バラモン教の教えでした。そういった、アートマンを前提とする考え方があたりまえの状況の中で、釈尊は、アナートマンの教えを説かれたのです。
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当時そのような考えが常識であったかどうか、少なくとも釈尊そして釈尊が教えを説いた対象である弟子や在家信者が果たして「持続的固定的な我の実体=霊魂・アートマン」という考え方を持っていたかどうか、そして釈尊がそれを否定するような教えを説いたかどうか、仏典ではそのへんのところは曖昧ではないでしょうか。
*****曽我さん*****
takaさんのおっしゃる「肉体以外の存在形態」とは、まさに伝統的なアートマンの概念そのもののように思えます。アートマンを認める人たちに、「本当の自己(=肉体以外の存在形式)を追求せよ」と教えるのであれば、「真のアートマンを追求せよ」という言い方だけでよかった筈です。アナートマンというアートマンを否定する言葉自体が、「本当の自己(=縁起していない自存的不変的自己)」を想定する考え方を否定していると考えます。わざわざ自己を五蘊や六識に腑分けし、「ご覧なさい、ここにも、ここにも、どこにもアートマンは見つけられないでしょう」と教えられたのは、アートマン(=霊魂)に執着する我々をそこから引き剥がすために懇々、切々と説明して下さったのだと考えます。
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肉体や物質的現象が固定的実体を持たないことには異論ありません。同様に粗雑な状態の霊体にも固定的実体はないと考えます。
まず上にも書いたように私が考える「肉体以外の存在形態」と「伝統的なアートマンの概念」とは別なもののように思います。私が心霊主義などから学んだことと伝統的なアートマンの概念とは似ているようで違うのではないかという印象があります。決定的に違うのは心霊主義では「変化するもの」としているのに対して「伝統的アートマン思想」では「固定な実体」となっている点でしょうか。それゆえそれぞれ思想が人びとに及ぼす影響もまったく違ったものになると思われます。
*****曽我さん*****
ここからちょっとだけややこしくなります。これまでは、話を簡略にするため、アートマンを「肉体以外の本来的(と想定される)自我=霊魂」という意味に限定して、私の考えを説明してきました。しかし、アートマンという言葉は、もともとは、ただの一人称、私・自分という意味です。したがって、「自己とはなにか考えよ」という意味で、「アートマンを考えよ、追求せよ」という表現は可能です。ですから、「アートマン(自己)とはなにか追求していったら、アートマン(自己)は、縁起による現象であって、想定されてきたような自存的不変的自己本体(第二の意味のアートマン)は存在しないと分かった」というのが、釈尊の覚りの内容だと思います。アートマンに二重の意味があることが混乱を生んでいるのだと思います。
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アートマンの否定を無我(我無し)とするから二重の意味があったと考えなければならなくなったのであり、非我であるなら、アートマンは自己の意味だけで済み、混乱は生まれません。釈尊は物質や肉体(現象)は「アートマンに非ず」、執着を去れ、そして真のアートマンを追求せよと説いたと思います。
(2)主客対消滅について
*****曽我さん*****
主客対消滅は、ひとつの通り過ぎるべき過程であり、悟りそのものではありません。主客対消滅体験によって、自分の無我・縁起を知り、それによって執着を吹き消し、執着による苦を滅し、世界とともに縁起し生成し変化する喜びを喜べるようになることが悟りです。
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これが悟りであると言われれば、悟っていない私としてはそうですかとしか言いようがありませんが、釈尊の悟りとは違うのではないかと私は感じます。
釈尊の悟りとは、自分ではないものや自分のものではないものを我に非ずと認識し、その認識によって執着を去り、それらから心を解放してゆき、そして自由と安らぎの境地に到ることだと思います。しかし、曽我さんの仏教解釈では主客対消滅体験があり、その体験により執着が吹き消され、苦が滅するとなります。主客対消滅体験があって始めて執着が吹き消され、苦が滅するとなっています。
釈尊:非我→執着を去る→自由・平安(苦の滅)
曽我:主客対消滅体験→無我・縁起→執着を去る→苦の滅→世界と共有する喜び
こうした曽我さんの仏教解釈おいて、主客対消滅体験を経験していない者にとっては、自分が無我・縁起する現象であると考えることは、その儚い現象である我に対して激しい執着が生まれるおそれも否定できないと思います。
(3)この世での成功・あの世での救済について
*****曽我さん*****
死後生がないなら宗教に意味はない、とお考えなのでしょうか? もしそうなら、仏教は死後の救いを説くのではなく、今の生を如何に生きるかを教えるものだと答えます。
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宗教とそれ以外の哲学や道徳・倫理と分つものはやはり神・仏、霊・魂、転生輪廻といったことだと思います。また、死後の生命、転生輪廻があるからといって死後の救いのみを説いているわけではありません。この世での生き方があの世や来世での生存を決めるのであり、あの世の生存はこの世の生存の延長であり、決して断絶したものではなく連続したものと考えているのです。仏典にもこの世での生き方であの世で赴く世界が決まることがしつこいほど出てきます。
*****曽我さん*****
無論、今の生といってもこの世的(世俗的)成功ではありません。我々は、世俗的成功に疑問を抱いたからこそ仏教に尋ねたのではなかったでしょうか? そもそもそこが出発点だったはずです。そして「意味」ということで言えば、この世的成功と同様に、宗教的な悟りも無意味です。(「意味」というのは「何か他のことに役立つ」という意味で言っています。)
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人を苦しみから解放するという意味では世俗的成功も一概に否定されるべきものではないと思います。仏典においても釈尊は世俗的な成功者を成功者であるからということでは否定していないと思います。それは多くの王や成功者(長者)が帰依していることからも分かると思います。むしろ仏典からは成功者である長者といわれた人びとが仏教教団を経済的に支えていたと読み取れます。当時のインドでは生まれにより身分が決まっていました。そういう意味では世俗的な成功というものはある程度生まれつき決まっていたと思われます。しかし、釈尊はそうしたもので人の真価は決まらない、行為(身・口・意)によるのだと説いていました。
また、一般的にいって人生における大きな苦しみは世俗的な失敗から生まれがちではないでしょうか。仏典では釈尊が在家信者に対して世俗的に失敗しないようにアドバイスしている場面もあります。
ダンマパダ141〜142
裸体でいたとて、頭髪を編み結んだとて、きたないことをしていたとて、断食をしたとて、それとも又露地によこたわっていたとて、身体に塵や垢を塗ったところで、又、蹲くまっていたところで、まだ盲目的欲望から離脱していない人を清らかにすることは出来ない。
たとえ身に美しい着物をまとっていても、平等な心で生活し、静寂であり、慎しみ深くあり、いそしみはげんでおり、清浄な行為をしており、かつ、生きとし生けるものにたいして刀杖を用いることのないような人は、彼こそまことに婆羅門であり、修行者であり、比丘である。
(「法句経」友松圓諦訳 講談社学術文庫)
このように、世俗を捨てていようが、あるいは世俗的に成功していようが悟りには関係ないのです。盲目的欲望から離脱しているか、清浄な行為をしているかといったことが重要なのです。
*****曽我さん*****
「あたりまえ、、」に私は、「意味を問うことを止めよ」と書きました。勝義として人生に意味はない、と。しかし、こう言うと、大抵「では刹那的快楽を求めるべきなのか」とか「この世的な成功こそ追及すべき」なのかと、詰問されます。意味がないということから、どうしてすぐに刹那的快楽・この世的成功に走るべき、という結論に至るのでしょうか?
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意味を問うことを止め、人生の意味を否定したとき、何が残るか、そこにあるものは肉体的動物的欲ではないでしょうか。人生に意味はないということはある意味で動物的に生きろと言っているようなものではないでしょうか。
*****曽我さん*****
無我とは我々自身のみならず、我々が執着するものも無我なる縁起の現象なのです。我々の執着の対象がなんであれ、それは必ず変化し、いつか終息する壊法です。だからこの世的快楽への執着はけっして満たされません。刹那的快楽やこの世的成功が、すぐにその喜び以上の苦をもたらすことは、我々重々承知のことではありませんか? 刹那的快楽やこの世的成功にいささかなりとも疑問を抱いたからこそ仏教に教えを求めたのではありませんか?
もし刹那的快楽やこの世的成功を純粋に(=苦に変化させることなく)楽しめたなら、仏教などそれこそ必要なかったでしょう。我々は100%完璧に一瞬の隙も無く宗教的でいられないのと同様に、刹那的快楽やこの世的成功に100%のめり込むこともできないのです。欲望や快楽にどれほどふけっても、さめた一瞬が残る。その一瞬の隙を狙ってむなしさが噴出してくる。我々は、無邪気に快楽の追及に没頭することは、もはやできないのです。
(「聖者になる一番の近道は放蕩の限りを尽くすことだ」というのは「ナルチスとゴルトムント」だったか、ともかくヘッセの言葉だったはずです。この言葉は、龍樹菩薩の伝説にもあてはまるような気がします。)
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「刹那的快楽やこの世的成功が、すぐにその喜び以上の苦をもたらす」ものでしょうか。もしそうなら、大部分の人が宗教的な救いを求めるでしょう。
「無我」という言葉には、何か宗教的な悟りの印象がどうしてもついてしまうように思います。しかし、曽我さんのいうところの「無我」とは結局は、我も含めてすべては物質であり、原因結果の連鎖により一時的に存在しているものでやがては消えていくものである。そこには目的も意味もないのだ、ということになろかと思います。
*****曽我さん*****
我々には死後の救済もなく、この世の快楽もさらに大きな苦に転じる。さあ、困りました。そこで仏教の出番です。あの世ではなくこの世で、苦に転化することのない喜びを喜び他と分かつことを教えてくれるのが仏教だと思います。 仏教とはなにか? 他ならぬ無我の教えこそが仏教です。我々が執着する対象が無我であることを如実に知り、最大の執着の対象である自己も無我であることを如実に知り、そのことによって執着を吹き消す。これは決して悲しい諦観ではありません。無用な苦を除き去り、あふれはじける世界という現象を喜び、一切の有情への慈悲に充ちたあり方です。人生が肉体の消滅とともに終わる現象であるからこそ、現象している間、無益な苦しみを苦しまず、無益に他を苦しめず、苦に転化することのない喜びを喜び、苦に転化することのない喜びを分かとうとするのが仏教だと思います。
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なぜ、すべては現象であり意味もなく目的もない無我なる縁起であると悟ることから喜びが生まれるのか?
(4)自分の行為に対する責任と虚無主義について
*****曽我さん*****
おしゃるとおりです。ただし、身口意の行為も、それを原因に悩んだり苦しんだり悲しんだり安らいだり喜んだりするのも、すべて縁起の現象です。我々は、無我なる縁起の現象として様々な行為を行い、周囲に様々な影響をもたらし、周囲から影響され、自分の行為と様々な縁による思いがけない結果を受ける。来世に逃げることもできない、この世で、この今、過去の自分と過去のすべての縁を引き受けて生きていく。それもすべて現象として、それが私たちです。
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何か「現象」という言葉が独り歩きしているように感じます。自分の意志で為した行為も無我なる縁起の現象にすぎず、その結果も無我なる縁起の現象に過ぎないのでしょうか。釈尊はそのように教えたでしょうか。もっと主体的に生きよと教えたのではないでしょうか。
*****曽我さん*****
自分の業の結果のうちある種のものは、いつかそのうち身に帰ってくるのではなくて、その行為をなしたと同時に現実化します。たとえば、うまく立ち回って他人を出し抜いて利益を得ようとすれば、仮にそれがうまくいって本人はほくそ笑んでいても、実際は、その小賢しさに比例したサイズに己を矮小化しており、次に思ったとおりにならなかったり、人に出しぬかれたりした時に、怒り悔しがる自分を準備している。自分の行為に無責任でいようとしても、そのような形で行為の結果は常に既に引き受けている。「あたりまえ、、」本文に、「自分を軽く透明で弾力のあるようにする」とか、逆に「重く濁ってもろくさせる」と書きました。今から思うと比喩が自己を実体的に表現していてまずいなぁと感じますが、その点は目をつぶって頂くとして、要は、我々は、自分の行為によって、軽々とした透明なぴちぴちはずむ現象であることもできれば、その逆の現象にもなるのです。執着による行いは、ますます自分を執着に縛りつけ、慈悲による行いは、執着の火を鎮めさせる。行為は、なされると同時に我々に一定の影響を熏習し、我々はそれを逃れることはできない。そういう仕方で我々は自分の行為の責任を取らねばならないのです。
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縁起であり現象にすぎない我にどうして行為の責任が生じるのでしょうか。責任が生じるということはその元となった行為に対して何らかの価値判断が下されたことになるのではないでしょうか。曽我さんのすべては無我なる縁起の現象にすぎないという思想にそうした価値基準なるものが存在するのでしょうか。曽我さんの無我なる縁起の思想では単に原因と結果があるだけではないでしょうか。
また行為の影響が何に熏習されるのでしょうか。現象に過ぎない我に熏習されるのでしょうか。現象にも軽々として透明なぴちぴちはずむ現象もあり、その逆の現象もあるということですね。つまりは縁起であり無我である現象にもやはり価値(意味)の違いがあるのですね。
*****曽我さん*****
虚無主義については、求める気持ちが残っているから虚無主義になるのではないでしょうか? 成功を目指していたのに得られないと分かったので虚 無的になる。しかし、その成功も実は実体の無いものだったと分かれば、虚無感もなくなり、解放された伸びやかな気持ちになるでしょう。意味や価値や目的に縛られなければ、喜びを喜び、悲しみを悲しみ、苦しみを苦しみ、人の喜びを喜び、人の悲しみを悲しみ、人の苦しみを苦しむだけだと思います。これらの喜び、悲しみ、苦しみは、透き通った喜び、悲しみ、苦しみであり、増長や恨みや妬みや損得といった濁った喜び、悲しみ、苦しみではありません。
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何をやっても結局は無に帰す、どんな努力も意味も価値も無いとする思想、成功も実は実体の無いものだとする思想こそが虚無主義ではないでしょうか。曽我さんの「人生に意味はない」とする思想。これこそ虚無主義ではないでしょうか。
曽我さんの無我とは結局は「何ものにも意味を認めない」ということではないでしょうか。
つい最近、まったく面識のない年配の主婦を(世間的には頭が良いといわれ成績がトップクラスの)高校生が「人を殺す経験がしたかった」という理由だけで婦人の頭を金づちでなぐり全身を40数か所を包丁で刺して殺害するという事件が起きました。新聞報道によるとこの学生、哲学や物理理論が好きでよく同級生と議論していたとか。
虚無主義や唯物論思想の影響ではないかと私は感じています。
(5)仏教の全体的理解
*****曽我さん*****
その1、象の比喩について
おっしゃるとおり確かに我々の仏教理解は断片的で全体を正確に捉えてはいないと思います。しかし、逆に、こういう事もあるのではないでしょうか。例えば、今から2500年後、大きな文明の断絶の後、未来人か宇宙人が、地球上の多くの場所で同内容の資料を発見して「かつて生息していた象の中には、小型ながら大きく発達した耳をもち空を飛ぶことができた種がいたらしい」と推定するような。つまり、仏教として伝えられてきた教えの中では、比喩が言葉どおりに伝えられたり、誤解や仏教以外の考えが紛れ込んだりして、空飛ぶ象や、角のある象や、火を吐く象が生み出されてきた可能性はないでしょうか。不滅の霊魂や永遠に実在する仏や超能力は、ダンボの耳であり、象の角であり、象の吐く火だと思います。
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象であるうちはそれでもましかもしれません。曽我さんの無我・縁起・空は例えれば細胞を顕微鏡で見たり、内臓を解剖して研究しているようなものかもしれません。細胞や臓器をいくら研究しても象がどんな形をしてどんな性質を持ちどんな生活をする動物かは分からないでしょう。
*****曽我さん*****
その2、文献学による切り刻みについて
批判的に詳細に検討され切り刻まれることによって、全体像が分からなくなってしまうような「真理」は、そもそも矛盾を内蔵していたから全体性が破綻するのであって、すなわち真理ではなかったという事だと考えます。真理は脆弱なものである筈がありません。
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真理を勝手に切り刻んでそこに矛盾を作り出し全体像が分からなくなっているのは人間側の問題だと思います。
ルコント・デュ・ヌイという生理学者(「人間の運命」渡部昇一訳 三笠書房)によると、真理を追究(分析)することによって真理から遠ざかるというパラドックスが存在するとのこと。
少し長いのですが適当に略して引用してみます
*****「人間の運命」P57〜59*****
例えば、良心的な賢い観察者がいたとし、人間社会の法則を研究しようとします。するとそのすべてに共通の要素である人間について調べたほうが有益であるとの結論に達する。そして人間個々について研究を始める。こうして気付かぬうちに後戻りできない境界線を越えていく、それは群集心理というものは個人個人の心理から推し量れないものであるから。
さて彼は科学の一貫性を確信している。つまり、宇宙の現象にはすべて関連性があり、基本的なさまざまな現象について完全な知識を身につければもっと込み入った現象への知識にたどりつくと確信している。そのため、人間の肉体に対する無知は重大なハンディキャップであり、人間の行動の原因を探るには人体解剖学や生理学の研究が欠かせないと考える。こうして後戻りできない二つ目の境界線を越える。生理学をひもとけば生化学にたどりつく。そして第三の境界線を越える。そして生化学の細部を理解するために無機化学を取り上げざるを得なくなる。第四の境界線を越える。やがて彼は自分の理論に一貫性をもたせるために分子に興味を、さらに原子、陽子や電子に首をつっこんでいき、境界線を越えていく。
この地点に達すると彼はいかなる方法で逆戻りしようとしても当初の問題にまで立ち返ることはできなくなる。
彼が逆戻りできないのは私たちの観察基準では原子の「特性」とその電子構造とがこれまで結び付けられてこなかったためであり、原子の「特性」が分子の「特性」と結び付くこともあり得ないからだ。ナトリウムは金属、塩素は有毒ガス。この二つが結合して食塩ができる。しかし、この二つの元素の特性から食塩の特性は予想できない。また生命の特性は、生命をもたない物質の特性とは結びつかず、人の思考や心理は生命をもつ(?taka)物質の物理−化学的、生物学的な特性からは導き出されない。だからこそ彼は出発点に戻れない。
言い換えると科学者はある一つの観察基準から別の基準へ移ることで新しいさまざまな現象を発見する。しかしそのため、そもそもの目標からますます遠ざかってしまう。
このような観察者がもちいたのは科学的な方法の典型、すなわち分析である。だが先の例が示すようにこのやりかたには限界がある。分析すればするほど解決したいと思っていた根本問題から離れていく。彼は問題を見失い、研究している現象とその問題とのあいだになんらかの関連性あることは論理的にわかっていながらも、その現象をもちいて元の問題に戻っていくことは絶対にできなくなってしまう。
現象を作り出すのは観察基準である。観察の基準は人間が生み出すものであり、だからこそ人によって左右される。自然には異なる観察基準がいくつもあるわけではない。あるのはたった一つの巨大で調和のとれた現象だけだ。だが、それをはかる基準を人間の脳の構造が勝手気ままに分割し、ばらばらに切り刻んでしまうため、一般に把握されなくなっているのである。
**********
こうしたパラドックスを説明するために釈尊は象のたとえを使ったのだと思います。釈尊の示した真理を解釈する場合にも同様だと思います。分析すればするほど釈尊が人々に伝えたかったことから遠ざかる。縁起、無我、空といったことがエッセンスかもしれませんが、しかし、それのみでは釈尊の法の全体像は分からないであろうと思います。
それでは、また
taka
taka kudouさんへの返事
返事本当に遅くなって申し訳ありません。
頂いたメール2通拝読いたしました。我々の間の距離はなかなか埋まりそうもありませんね。今回もまた距離の確認のような内容になってしまいそうです。
*まず「唯物論」について
最初に確認しておきたいのですが、「唯物論」というのは、takaさんの用語であり、takaさんがわたしに張ろうとされているレッテルであって、私の側から主体的に自分の考えを唯物論と位置づけた事はありません。前にも書きましたが、私は、自分では、自分の考えを「唯現象論」もっといえば「反物論」、「物否定論」だと考えています。「物」という概念の位置づけ(なにに対立する概念か)が根本的に違うようです。
takaさんの「物」は霊に対立する概念です。物対心霊。
わたしの「物」は、縁起・無我・現象に対立する概念です。いわゆる物も、本当は他に依存し、始まり、変化し、いつか終わる実体のない現象であるのですが、我々は、ついそれを自存的で永遠的な「物」、「存在」として見てしまう。それは、実は生物の適応進化の自然な結果ではあるのですが、釈尊は、徹底した観察によってこの生得的な見方を突き破り、「物」の実際のあり方、すなわち、他に依存し、一貫した実体を持たない、始まり変化しいつか終わる現象であることを発見されました。つまり、「物」か縁起・無我・現象かは、「物」の側の問題ではなくて、我々サイドの見方の問題なのです。そしてこの発見は、当然ながら外の対象のみならず、否、それ以上に自分自身をどう捉えるかに拘わってきます。
この見方からすれば、霊魂という概念は、それが変化あるいは成長すると考えようが、自己に「本体」を設定し、それを一貫性のある自存的「存在」として捉える見方であり、すなわち、釈尊の無我・縁起に反するのです。わたしに言わせれば、霊魂とは本来現象である自分を抽象化して(精妙化して?)「物」化して(わたしの別の用語でいえば「いつも化」して)とらえた概念です。自分を自存的「存在」として捉え、滅び行く肉体よりもっと永続性の高い「物」(わたしのいうところの、無我・縁起・空・現象に対立するところの)として捉えた結果生み出された概念が霊魂である、と考えます。
takaさんが、わたしの考えを「唯物論」だとお考えになるのは、おそらくわたしが、自己を肉体(物)に依存する現象だと捉えているからだと思います。
自己は、世界のあらゆる物事と同様に縁起の現象であり、実に多くのことを縁としています。当然肉体も縁のひとつ(あくまで”ひとつ”)です。我々は腹が減ればいらいらするし、酒や薬物によって高揚したり錯乱したりする。わたしは、つい先日、2回目の肩の手術で麻酔剤によって無意識状態にされました。鉄棒が頭に刺さって脳の一部が破壊され、命は取りとめたもののそれ以降人格(その人らしさ)がすっかり変わってしまったという有名な事例もあるそうです(フィニアス・ゲージ青年の事例)。物によって肉体が影響を受け、それが自分という精神的あり方(?)にも影響する事は明白です。
しかしながら、勿論自己は肉体のみを縁にするわけではありません。友人との出会いや、読んだ本や、経験した出来事にも大きく影響されます。今の自分のあり方は、過去の自分のあり方に大きく影響されています。そうした様々な縁が焦点を結んで生まれる現象、それが我々です。
takaさんのメールに従って頭から順に自分の見解を書こうと思いましたが、筆が勝手に先走ってしまいました。脈絡がなくなるかもしれませんが、以下感じた事をひとつずつまとめてみます。
*量子論について
5/4に再送して頂いたメールで量子論について触れておられますが、わたしの浅薄な理解からすると、量子論は、「物」を「物」としてではなく、波(=現象)として捉えており、上に述べたわたしの仏教理解の仮説(物否定論・唯現象論)に対立するどころか、それのひとつの説明の方法(方便)になると考えています。人無我はともかく、少なくとも法無我を説明する方便の一つとして機能し得る。量子論は、釈尊の無我・縁起を例証すると考えます。
ところが、量子論に関する以下のtakaさんの主張は、わたしに知識がないためか、理解できませんでした。
---------takaさん---------
「この世が存在するにはこの世とは別な世界がなくてはなりません。〜(中略)〜
量子論によると物質は素粒子レベルで一体であり分割不可能であるという可能性が示されています。つまり素粒子レベルで見れば物質の変化は他の物質の変化の原因でも結果でもなく、変化は同時に一体となって起こっていることになります。そうだとすると、この世にこの世の原因を求めることはできないということになります。この世はこの世だけでは存在できないということです。」
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はじめは、ビッグバンの原因、ビッグバン以前の事を問題にしておられるのかと思いました。ビッグバンでこの世が始まったのなら、この世の原因はこの世にはないと。
もしそうなら、この問いには「無記!」と答えて蓋をしてしまいます。この世に生まれ、この世で縁を受けているわたしにとって、この世以前を問う事は、迷いと執着をなくす事に益する事のない無用な問いであり、その追求は期待しつつ物理学者にお任せしておきます。
しかしよく読んでみると、そうではなく、「ビッグバン以後の、この世における変化についても、原因はこの世の中にはありえない」と主張されているように思えます。
三つの世界観の1番で
---------takaさん---------
「すべてのものは素粒子レベルで密接に直接に瞬間的に結びついている。」
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と書いておられるのが先の引用と一貫した主張であるなら、「1000光年先の銀河での超新星爆発は、地球上で同時に起こった出来事とその瞬間既に(光の速さを超えて)一体である。爆発の1000年後にやっとそれを観測して人類は新しい発見をする、というようなこの世の中での原因から結果へという時間を伴った縁起理解は間違いである」と考えておられるのでしょうか?
常識を超えた量子論のことですから、そのような結論が導き出されているのかもしれません。しかし、常識的なわたしとしては、わたしがこのホームページを作り、それを見て下さったtakaさんがメールを書かれ、思いがけない質問や異議に触発されてまたわたしが考えた事をメールで返し、云々といった、この世での時間の中での縁起の中に生きているという実感を拭い去れません。我々が、執着の炎を掻き立てて自分と人を苦しめたり、無我・縁起・空を正しく知って、正しく悲しみ、正しく怒り、正しく喜んだりするのは、この世での時間の中の縁起によるのではないでしょうか? あの世の原因からの縁起だとは思えません。
*重箱の隅的コメント
---------takaさん---------
もちろん「それ自体に原因がない」ということは「原因が無い」(我無し)ということではなく、それとは別なところに原因がある(我に非ず)ということです。
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文章全体のご主張には同感ですが、( )のなかについてのみ、コメントします。或る物事に「原因がない」ならば、縁起に依らず自存する存在としてある(=我あり)のであり、それ自身の外に原因があるなら、それは縁起の現象であり、つまり「我無し」である。通常の仏教の論理は、こちらではないでしょうか? そして、仏教は、「我ある」ものはなく、すべては「我なき」縁起の現象である、と主張していると考えます。
*あの世とこの世について
---------takaさん---------
この世の原因はあの世であり、肉体の原因は霊ということです。
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この文章の前半と後半がパラレルに対になっているなら、肉体はこの世にあり、霊はあの世にあるのでしょうか? 生きている我々の霊も今あの世にある?
あの世は、原因なく自存している=縁起ではない、のでしょうか? それとも、いくつも段階的に「世」があり、あの世にもあの世のあの世という原因があり、その連鎖が続いているのでしょうか? 究極の自存する「世」はあるのでしょうか? それは問うてはいけないのでしょうか?
この世より粗雑な「世」はあるのでしょうか? 心で思った事が別の世界に影響を及ぼすと書いておられますが、それはつまり、この世が原因となる世界であり、この世より下位のより粗雑な世なのでしょうか?
宝くじが当たる夢を見たり、一等当選を念じたりすれば、どこか別の世界のわたしが、大金持になるのでしょうか?
*局所原因の原理の破綻による三つの世界観について
1:局所性の喪失について
先にも書きましたように、これはわたしの理解の範囲を超えています。どうコメントしていいかも分かりません。
2:完全決定論について
素人の聞きかじりの域を超えないので、こんな事を書くのは冷や汗ものですが、、。完全決定論は、ニュートン的な古典物理学の世界観で、今の物理学では既に過去のものになっているのではないでしょうか? 量子レベルでは、一つの状態から引き起こされる次の状態はいくとおりもの可能性があり、どうなるかは確率でしか決められない。量子論の不確定性と、カオス理論(相互に作用するいくつかの変数がある時、はじめの極々僅かな違いがみるみる大きな差となって現れる)の組合わせから、未来は決定されておらず、したがって予知も不能である、というのが現代の物理学の立場ではないかと思います。
3:多世界解釈について
これについてはわたしもなにかで読んだ覚えがあります。「量子論が確率でしか世界を記述できないなら、確率の分母、実現されなかった可能性はどうなったのか? なぜ一つの可能性だけが選ばれて、その他のすべての可能性は消え失せるのか?」という問題意識から、「実はすべての可能性は、それぞれ別々の世界として実現しており、このわたしは、そのうちの一つの世界にしか属せないので、一つだけが実現されたかのように感じている」という内容だったかと思います。宇宙のあらゆる素粒子の振る舞いのすべての可能性のすべての組み合わせの数だけの宇宙が、しかもプランク時間毎に生み出されるのだろうか、と想像して頭がくらくらしました。これが定説なのかは知りませんが、それにしても、この仮説では、無数の宇宙が超ねずみ算的に生まれ続ける、というだけで、生まれた宇宙の間に精妙・粗雑の順位ができあがる原理はどこにも含んでいなかったと記憶します。また、この仮説では、世界が無数に枝分かれしていくその瞬間ごとに、無数の我々はそれぞれ既にどれかの世界に属しており、それらの世界は互いに閉ざされており、連絡どころか、存在を知る事も、ましてやどれかの世界を選択する事もできないとされていたと記憶します。量子論の多元宇宙仮説は、少なくともわたしの読みかじったものは、精妙・粗雑の段階的構造が不可欠であるところの心霊主義多元世界をサポートするとは思えません。
*****
という訳で、わたしにとっては、1は理解不能、2は既に否定された過去の世界観、3は極端にユニークな仮説としか思われず、つまりわたしはどれも選び取る事ができません。
takaさんの文章からは、1と3の両方に肯定的な印象を受けますが、そのようにお考えですか?
* 自由意志について(あるいは、takaさんのレトリックに対する若干の苦情)
少し引用させて頂きます。
---------takaさん---------
ところで、唯物論的な考えを持っている方は大概2の完全決定論に行き着くようです。それも量子論というよりはニュートン力学の機械論的決定論のようです。しかし、少なくとも釈尊は自由意思を認め、自分の意思や行動で自分の人生は変えていけるのだと教えていたはずです。
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ここでtakaさんの言われる「唯物論的な考えを持っている方」とは、誰の事でしょうか? どこかの一般的な第三者? わたしは、一般論として、そうかもしれませんねえ、と受け流しておけばいいのでしょうか?
どうもそうは思えないのです。変にぼかして書いておられますが「唯物論的な考えを持っている方」とは、わたしのことを言っておられるのではありませんか? そうでないと、突然ここで一般論を持ち出されても、前後の脈絡が通じません。奇妙な遠慮はなさらず、はっきりと「曽我の唯物論的仏教解釈は、機械的決定論に行き着かざるを得ず、それは自由意志を認めておられる釈尊に反する」と書いて頂いた方が、論点が明確になります。引用した部分を、このように読み替えた上で反論を試みます。
わたしの仏教解釈は、先にも書いたとおり、唯物論ではけっしてなく、敢えて言うなら、反物論・唯現象論です。わたしの考えは、反決定論であり、自分の意志や行動で、自分の人生どころか、世界をも変えていけると考えています(思い通りにとはいかなくても)。そのことは、「あたりまえ、、」本文・晩秋の集まりの目次(左側フレーム)の「励まし」をクリックしたあたり(フレーム未対応のブラウザなら、娘の報告が終わって、「あたりまえの事を説く如来」が答えるところ)を読んで頂ければ、明々白々だと思います。
誰かの文章を読んだ時、それが自分にとって重要なテーマを扱っていればいるほど、すぐに一つの評価・解釈・理解を与えてしまい勝ちです。でも、もし、自分の評価・解釈・理解に反する主張をさらに見つければ、もう一度想像力を働かせて、矛盾のない全体性のある主張を彼がしているのか、検証してみる必要があるでしょう。その手続きを経た上で彼に疑問・反論をぶつけるべきです。彼の主張から都合のいい部分だけ抜き出して、そこから「全体像」を作り上げて批判するなら、それは対話ではなく、独り言にすぎず、自問自答にしかならないのではないでしょうか? takaさんは、わたしとの意見交換よりも自分で作り出された唯物論者との議論のほうをお望みなのではないか、と時々感じます。
* 科学と仏教
また引用させて下さい。
---------takaさん---------
曽我さんは科学が霊魂の存在を否定していると解釈しそれを拠り所として、ご自分の仏教理解の仮説を立てたのでしょうか。
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わたしが霊魂の存在を(より正しくはあらゆる「存在」を)否定するのは、霊魂をはじめとする存在前提的発想が、釈尊の教え=無我・縁起に反すると考えるからです。無我=縁起=空が、一番の根本にあります。それは、最も普遍的な宇宙の真理だと思っています。一方、わたしは科学に対しても、部分的であるにせよ世界の記述として一定の評価を与え敬意を抱いています。無我=縁起=空が世界全体を包摂する真理であり、科学が世界の部分的真理であるなら、全体と部分の間に矛盾があってはならない。現時点の科学は、無我=縁起=空と一致するので、科学は仏教を説明する方便になると考えています。
万一科学が、わたしの仏教理解(無我=縁起=空)に反する自存的存在を発見したら、それが霊魂であれ、陽子の永続性であれ、わたしは自分の仏教理解を一から考え直さねばなりません。なぜなら、わたしは科学の手続きを評価しており、一方わたしの仏教理解は、残念ながら仮説に過ぎないからです。仏教は普遍的真理であるが故に、科学の部分的真理と矛盾する事は許されないと思っています。万一、例えばビッグバンを引き起こしたのは永遠なる絶対の神であったと科学が発見したりすれば、それはすなわち無我=縁起=空に対する反例であり、わたしは、潔く白旗を掲げましょう。
これまでのところ、科学は、日常的世俗的な「いつも化」・存在肯定的見方を否定し、すべては縁起の現象であるという仏教の見方を証明してくれていると思います。今後もこの関係は変わらず、科学は仏教(無我=縁起=空)を証明し続けてくれると信じています。
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ようやく一通目へのお返事が書けました。2通まとめて一遍にお返事しようと思っていたのですが、また時間がかかってしまいそうなので、頂いた2通目については、あらためて出来次第お送りすることに致します。
一点だけ2通目の中から、触れさせて下さい。今回のメールの流れの中でお話したほうが理解してもらいやすいかと思うので。
---------takaさん---------
曽我さんの釈尊の悟りに対する理解では、その最初に否定されるべき物質や肉体そして物質的現象こそ我であるとなっているように思われます。
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説明がくどい・しつこいと自分でも思いますが、大切な事だし、このところ考えている新しい視点もあるので敢えてまたやや詳しく書いてみます。
「我」は、勿論物質や肉体ではありません。「我」とは、私たちが自分を自存的「存在」として妄想した概念です。「我」は精神的実体であるとか、あてにならない不浄な肉体を超越して自存的に(他に依らず)「存在」しているなどといった考えは、自分に価値ある永続性を与えようとする我執の産物です。
そのような概念化された「我」、自分で自分を対象化して捉えた「我」とは別に、今ここで現に動き働いている私たちが現象しており、この私たちは肉体としての側面も確かに持っています。我々のこの肉体は、食べ物や水などによって維持され、物理的力や化学物質(毒素とか)によってダメージを受け、場合によっては破壊される。我々の肉体は、生まれ変化しいつか終わる存在、すなわち、ひとつの現象です。
そして、私たちのもうひとつの側面、いわゆる精神的側面とは何かというと、肉体の上に乗っかったさらに別の現象であると考えます。
肉体の上に乗っかった現象とはなにか? 古くからの精神と肉体の二元論をどう克服するのか? 精神現象が一定の持続性を持つように見えるのは何故か(「その人らしさ」は何に由来するか)?
これらの問題は、あらためてきちんとまとめようと思っている事で、まだ準備不足なのですが、試行錯誤の一回目として書いてみます。
我々の精神的側面(意識)とは、我々の脳という場所で起こっている現象であると考えます。我々のあり方が、肉体、特に脳の状態に影響される(縁起している)ことは明白です。不幸なフィニアス・ゲージ青年のように、脳への物理的ダメージが性格を変えてしまう。かつて行われたロボトミー手術は同じ事を人の手で行った訳です。体温異常や脳への血流(酸素供給)の異常によっても、我々は普段と同じように感じたり考えたりできなくなる。酒、麻酔、覚醒剤その他薬物によっても、普段とは違った状態になってしまう。我々の精神・意識は、肉体から独立して自存する霊魂ではありえず、肉体、特に脳の状態に縁起していることは間違いありません。
ただし、我々は脳そのものである、と考えるわけでもありません。あくまで脳で起こっている現象である。
脳には膨大なニューロンがあり、それらがその時その時さまざまな組み合わせで他のニューロンに刺激を伝え、あるいは他を抑制させています。六根から入った刺激(これはそのつどの一回的なものです)をこの興奮伝達と興奮抑制の複雑なネットワークが「いつも化」し、パターン化する。そのパターン化された情報が刺激となって、別の興奮伝達と興奮抑制の複雑なネットワークが発動し、外界の変化になんらかの対応をする。(実際の情報処理の「いつも化」はもっと何段階にも分かれており、ニューロン間の刺激伝達・抑制はいくつもの化学反応が組み合わさった複雑な過程で、わたしとしては、ここで起こっている事の方を真に精妙と呼びたいと感じます。)
外界の出来事をいつも化し、それに対して反応するパターンが、その人らしさを形成していると考えます。はにかみ、高慢な態度、実直な物腰、卑屈な追従、ひたむきな向上心、等々。高慢な人物もいつも高慢という訳ではなく、相手や状況によっては(外界からの刺激によっては)、逆に卑屈な反応を示すというのは、よく見られる事です。時々のその高慢さや卑屈さには、その人らしいパターンがあり、それがその人の個性として現れるのです。
「いつも化」のパターン、反応のパターンは、固定したものではありません。シナプス可塑性と呼ばれているようですが、ニューロン・ネットワークのパターンは、変化します。繰り返し信号の通過したシナプスは信号を通しやすくなるそうですし、ショッキングな事態に遭遇したり、過酷な状況を克服したりした時には、一回の経験でも脳内ネットワークのパターンは変わり得る。
或るきっかけでそれまで繰り返してきた世俗的生活に疑問符がともって発心するという事があります。これも、それまでの世俗的な処理パターンでは対応できないより根本的な疑問に逢着し、まったく新しいパターンを発見しようとする試行錯誤の始まりだと思います。また、瞑想とは、既存の処理パターンを弱め、柔らかくし、新しい処理パターンのトライアルを試みやすくすることではないかと想像します。
この「いつも化」、パターン化は、多様で複雑な現実にすばやく的確に対応して生き残っていく事を可能にした、いわば生物の自然な進化・適応の結果ではあるのですが、一方で現象を「もの」として固定し、退屈を生み、執着を生み出し、苦の原因ともなっているのです。
ところで、この処理パターンは、我々を一方的に規定するばかりではありません。我々への刺激となる六根(眼耳鼻舌身意)の最後には、内なる意根も含まれます。世俗生活の中でも仕事やスポーツなどでむずかしい目標を設定して挑戦し、さまざまな苦労・努力を経験する事で自分を変える事ができるというのは、誰もがうなづくことでしょう。宗教的発心は、世俗生活を処理するパターンの総体が根拠を失って、なんとかしてもう一度もっと深いところから全体を築きなおそうとする試みを開始することだと思います。
如何でしょうか? 「曽我は唯物論である」との思いをますます強められたかもしれませんね。
繰り返すと、我々は、ニューロンでも脳そのものでもないが、それと隔絶・独立して存在する霊魂でもない。脳における刺激処理・対応の様々なパターンの組合わせが我々である。それらのパターンは、ニューロンのネットワークのパターンとして保存されている。ニューロン・ネットワークのパターンは、それが処理し得る状況に出会い続ける限りはそのまま維持され、あるいは強化されるが、未知の体験を経験すればその度にそれに対応するために変化していく。努力、試行錯誤、瞑想、求道などによって(思いのままとはいかないし、簡単でもないが)、我々は自分(のパターン)を変えることもできる。
とりあえず今回はここまでにします。
いつも間の抜けたタイミングの返事になってすみません。頂いた2通目に関するお返事もなるべく早くまとめさせて頂きます。もしまたお返事を頂けるようでしたら、次のメールをお送りしてからまとめて頂けると助かります。勝手を言ってすみません。
それと、今回は何個所か刺のある表現になってしまいました。よろしくご寛恕の程お願い申し上げます。
taka kudou 様
2000、7、20、
taka kudouさんからのメール(2000,7,25)
曽我 逸郎
頂いたメール2通拝読いたしました。我々の間の距離はなかなか埋まりそうもありませんね。今回もまた距離の確認のような内容になってしまいそうです。まあ、これは仕方ないことですね。
それは対話ではなく、独り言にすぎず、自問自答にしかならないのではないでしょうか? takaさんは、わたしとの意見交換よりも自分で作り出された唯物論者との議論のほうをお望みなのではないか、と時々感じます。そうですか、それなら独り言は止めることします。
いままで、お付き合いいただきましてありがとうございました。
taka kudou
taka kudouさんへの(ダメモトの)返事
前略
下の(1)を半分ほど書いたところで、(上の)いささかショッキングなメールを頂きました。気分を害させてしまったようです。ごめんなさい。私としてもとても残念です。どうかご寛恕のほどを。
このメールも読んで頂けるのかどうか分かりませんが、ダメモトで仕上げて、お送りいたします。私にとっても意見交換以上に自問自答の意味合いが大きいので、ともかく頂いた問題提起を検討してみます。
(1)無我と非我について
takaさんのお考えになるアナートマンが非我であること、肉体がまず最初に否定すべき我であり、次に否定すべきが伝統的かつ粗雑な霊魂観であり、「我」は自己否定を繰り返しながら精妙化の純度を高めていくべきであるとお考えである事、理解しました。(間違っていますか?)
この理解が正しいとしても、takaさんと私の間には決定的な違いがあります。takaさんの「我」は、おそらく精妙化の純度を上げていくほどに、次第に超時間的な永遠不変に近い存在になり、他に依存しない自存的な存在となっていくとお考えなのではないでしょうか?
・・・takaさん・・・精妙から粗雑をみれば、一時的で仮であり、そこに我はないのであれば、逆に、精妙の度が上がるほど次第に一時的でも仮でもない本当の我に近づいていくとお考えだろうと推察します。その究極は、考えられないし考えてはいけないと書いておられますが、結局のところ永遠・不変・絶対の超越的存在に近いものを想定せざるを得ないのではないでしょうか? takaさんにとって、最高度に精妙である霊とはほとんど神と同意ではありますまいか?
〜「非我」とはより粗雑な状態をより精妙な状態の立場から見て、それが一時的に仮に存在しているにすぎないと知り、そこには我というものはないのだと悟ってゆくことである〜
・・・・・・・・・・・・・
それに対して、私の考えるアナートマンは、世間的・日常的な感覚からすれば、身も蓋もないものです。五蘊(色受想行識)のどれも「我」(持続的自存的な自己の本体)ではない。takaさんのおっしゃる肉体は色にあたりますが、その他の受想行識、即ち感覚的、意識的、”霊”的側面も、「我」ではない。釈尊は、五蘊とか六入とか六境とか、さまざまに自己を分析して、そのどれもが「我」ではない、と説いておられます。五蘊、六入、六境などの分析は、それぞれが自己のすべてを尽くしていると思います。五蘊、六入、六境を超越する「我」を釈尊が想定しておられたとは、私には考えられません。徹底して自分が自存的持続的「存在」(=「もの」)であることを否定されたのが釈尊の教えだと思います。
「我」と呼ばれる自存的持続的「存在」(もの)はなく、私たちは様々な縁に縁起するそのつど的な現象である。縁とは、その時々の肉体の状態もそのひとつだし、環境・経験もまた縁、ある時の自分という現象のあり方もそれ以降の自分現象のあり方の縁である。
諸法無我という言葉があります。この「諸法」は、初期仏教の時代の教えに沿って狭く捉えれば、五蘊、六入、六境などに分析された自己の要素をさし、我々のどの要素も(同時にそれら要素の集合体も)自存的持続的実体をもたないことを言っていたと読んだ事があります。しかし、私は、「諸法」の中に、我々の要素のみならず広くあらゆる事物を含めて考えてよいのではないかと思います。富や名声や地位などの執着の対象のみならず、木も石も山も、自存的持続的実体をもたず、滅びつつある現象である、と。
釈尊は出家を薦められました。一人息子であろうが家を捨てよと説かれたのは、「家」の永続性を否定し、「家」を実体視することを拒絶されたからこそだと思います。もし釈尊が無我(=自存的持続的実体は「ない」)ではなく、非我(=本当の自分ではない、本当の自分は違うところに「ある」)を説かれたとすれば、この諸法無我、すなわち自分以外の事物の無我が説明できないのではないでしょうか?
(2)主客対消滅について
*****takaさん*****残念ながら主客対消滅は、わたしも明確に体験していません。それらしきものが遠くに見えたか? くらいのものです。takaさんの上の修行進展図にならえば、
釈尊:非我→執着を去る→自由・平安(苦の滅)
曽我:主客対消滅体験→無我・縁起→執着を去る→苦の滅→世界と共有する喜び
*************
0:これまで自分を導いてきた(=縛ってきた)世俗的価値観への根本的疑問の自覚(発心)→1:無我・縁起・空の考察&座る練習他プラクティス→2:執着の若干の減少&世界とともに生々する喜びの断片的経験&慈悲心のほのかな芽生え→3:(1)の継続&(2)の深化→4:(1)の継続&(2)の深化→5、6、7:繰り返し、、、→m:主客対消滅体験(大きな喜び、主体の自己の無我・縁起を知る)→m+1:現世のしがらみの中における執着の滅、無用の苦を作り出す事の停止、慈悲、現実に対処しての無力さの自覚・苦悩&努力、世界とともに縁起する喜び→m+2、3、4、、、:継続・深化→z:死
という感じで、私自身は多分2か3あたりにいるのだと思います。主客対消滅体験(大きな喜び)は、ですから、勿論スタートラインではなく、正しく修行を継続できた稀で幸運な人のみが得られる体験だと想像します。しかしながら、主客対消滅体験が得られなければ失敗だとか無駄だとかいうことではなく、無我=縁起=空に参究し、プラクティスを続けて、幾分かでも苦を滅し、喜びを共感し、慈悲心を動かせれば、客観的にはともかく実存的には大いに意味ある事だと感じます。
****takaさん*****自分が無我・縁起する現象であると自覚しなくても(発心のずっと以前から)、我々は既にそのことに薄々気づいており、それゆえに、日常生活において、その儚い現象である「我」を実体視してそこに激しく執着しているのではないでしょうか? はっきりと自己の無我・縁起・空を知ったわけでもなく、100%自己が揺るぎ無い「存在」だと信じられているわけでもなく、疑いつつ頼っているから激しく執着するのです。損だ、得だ、自分の存在を認めさせたい、怒り、妬み、嫉み、自慢、自棄、気散じ、、、等など。こういった執着に縛られた世俗的あり方に対して、自分が無我であり縁起する現象であることを逃げずに正面から見つめることによって、我々は、上に記した「修行進展」の過程に入ることができるのではないか思います。
こうした曽我さんの仏教解釈おいて、主客対消滅体験を経験していない者にとっては、自分が無我・縁起する現象であると考えることは、その儚い現象である我に対して激しい執着が生まれるおそれも否定できないと思います。
*************
(3)この世での成功・あの世での救済について
*****takaさん*****確かに現存する経典にそういう記述は沢山あります。ですが、わたしは、それは反仏教的・インド伝統的な考えが仏教経典の中に侵入してきたものであって、仏教本来のものではないと考えます。
仏典にもこの世での生き方であの世で赴く世界が決まることがしつこいほど出てきます。
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*****takaさん*****勿論、私も世俗的成功を世俗的成功故に否定し非難しようとしているのではありません。世俗的成功は、世俗的影響力を有し、正しく使われるならば世俗的救済力になる。
世俗的成功も一概に否定されるべきものではないと思います。
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*****takaさん*****肉体的動物的欲は、もしそれが純粋に肉体的動物的に留まれば、実はさほど恐ろしいものではないだろうと思います。食欲がいくら激しくても、一人で食べられる量なんてたかが知れている。満腹になればいくらごちそうを出されてももう食べられない。性欲もまたしかりです。
意味を問うことを止め、人生の意味を否定したとき、何が残るか、そこにあるものは肉体的動物的欲ではないでしょうか。人生に意味はないということはある意味で動物的に生きろと言っているようなものではないでしょうか。
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*****takaさん*****大部分の人が実行しているのは、<ごまかし>です。テレビのバラエティ番組、パチンコ、テレビゲーム、その他無数のエンタテイメントによって暇をつぶし、根本的な問いから目をそむける。あるいは、仕事・勉強にのめりこみ互いに追い立てあい、暇をつぶし、根本的な問いから目をそむける。一見宗教的な方法でさえ、実は、聖なるものを自分の上に作り上げ、それに身を捧げる事で、自分が意味ある事をしていると思い込もうとする、自作自演の自分をだます試みではないかと思います。
「刹那的快楽やこの世的成功が、すぐにその喜び以上の苦をもたらす」ものでしょうか。もしそうなら、大部分の人が宗教的な救いを求めるでしょう。
*************
*****takaさん*****外の対象と自分への執着がなくなり、無用の苦を生み出す事がなくなるから。意味や目的といった概念に捕らわれる事がなくなり、今ある自分と世界のあり方を肯定できるようになるから。ともに縁起する世界の美しさを知り、ともに縁起する有情の喜びを共感できるようになるから。
なぜ、すべては現象であり意味もなく目的もない無我なる縁起であると悟ることから喜びが生まれるのか?
*************
(4)無我なる縁起の現象に主体性・自由意志は可能か?
*****takaさん*****行為は勿論存在物ではありませんから、まさに現象です。結果も原因を縁とし結果を起としているわけですから、縁起の現象です。
自分の意志で為した行為も無我なる縁起の現象にすぎず、その結果も無我なる縁起の現象に過ぎないのでしょうか。釈尊はそのように教えたでしょうか。
もっと主体的に生きよと教えたのではないでしょうか。
*************
まずtakaさんはすでに重々ご存知の事ですが、私の「無我」理解は、<意欲や主体性を持たない>といった意味ではありません。何度も繰り返しになりますが、<自存的持続的実体をもたないこと>です。つまり<自分は無我である>というのと<自分は縁起の現象である>というのは同じ主張です。「自分には、自存的持続的実体はなく、すなわち様々な縁が重なり合って起こっている現象が自分である。」
また、縁起といっても、縁によって「私」がころんと生み出され、それがそのまましばらく存在し続けるというのではありません。そのつどの縁によって、一瞬一瞬新しい私が現象していく。仕事に取り組んでいる時とうんざりしている時、今日は何を食おうかと考えている時、発心を新たにする時、劣情を抱いている時、酔いつぶれて寝ている時。それら時々の別々な私を、ひとつの同じ私が存在し続けていると捉えるのは、実は随分乱暴な一元化です。
そうした時々の非連続の現象である我々が、どうして一貫した人格的個体として把握されるのか? 一つの理由は、これら現象が肉体という一貫した場所で発生し続けるからでしょう。肉体も本当は現象なのですが、現象の場所として見れば一貫している。二番目は、前回のメールの最後で試みた刺激処理のパターン(=個性、その人らしさ)のためです。
そして、この刺激処理のパターンについて付け加えねばならない事は、私たちは、そのつどの現象だといっても、そのつどの単一の現象ではなく、そのつどの私たちは実は無数の現象が組み合わされた全体的現象であり、内包する様々なプロセスを経て発現してくる現象だという事です。
六根から入ってくる刺激、たとえば目(網膜の多くの光受容体)でとらえた像は、脳の中で、或る方向の線に反応するニューロン、或る方向の動きに反応するニューロン、特定の色に反応するニューロン、特定のテキスチャーに反応するニューロンなどなどに分断されて分析され、再び統合され、たとえば一個のリンゴとして認識される。
我々は、しばしば、言葉は一個のリンゴを表すのに、「丸くて、赤く、つややかな、いい香りのする、うまそうな、、」と多くの表現を積み重ねる、そしていくら言葉を重ねてもここにあるリンゴには届かない、それに対して純粋経験は、一瞬の全体的体験であり、見た瞬間にこのリンゴをこのリンゴとして把握している、などといいますが、純粋経験においても、実は脳は言葉のレベルをはるかに超えた細密さで対象を細切れに分断した上で把握しているのだそうです。(余談ですが、我々の脳は、刺激の受容から認識(どこで認識しているかは依然として課題ですが)に至る道筋の随分初期の段階から刺激の簡略化(いつも化)を行っていて、諸法実相をあるがままに見たり聞いたりするのはどうやら無理な相談のようでもあります。)
六根からの刺激に応じて、様々なニューロンが分業的に反応し、それらが次のニューロン群に伝えられる。その時シナプスで起こっているイオン反応は、まさに精妙としか言いようがありません。一つのニューロンは、枝分かれした樹上突起のたくさんのシナプスで多くの刺激伝達を受ける。それらの刺激は、樹上突起の分岐を駆け上がってくる過程で、あるいは増幅しあい、あるいは一方が他方を抑制し、或いは両方が打ち消しあい、結果、総体としての刺激がある閾値を超えるか超えないかによってそのニューロンが興奮するかしないかが決まる。ニューロンの興奮は、アクソン(ニューロンのアウトプットの枝)を通じて次のニューロンに伝えられるが、アクソンの途中にもシナプスがくっつき、そこからの刺激でアクソンの興奮伝達は制御を受ける。またアクソンにも分岐があり、そこでも興奮伝達のパターンは変わる。
こうして、多くのニューロンのある一部がともに興奮し、ある一部は興奮しない。そして、それが、次のレベルへ、さらに次のレベルへと伝達され、視覚や聴覚に特化した部分から、連合野とよばれる直接感覚を受けない部分へと伝わっていく。そこでもさらに処理が繰り返され、共同興奮のパターンによって、高度な認識が生まれる。たとえば懐かしい思い出にともなう様々な感覚、香り、色艶、響き、などなど、さらにはそれらが一体となったひとつの全体的イメージ。
しかし、takaさんは、(このメールを読んで頂いていると仮定して、)如何にこれらの過程が精妙であろうとも、結局のところ、ひとつの条件から一つの反応しか生まれないのなら(すなわち決定論的であるのなら)、自由意志や主体性が生まれる余地はない、と考えておられるかもしれません。私自身この問題にはまだ自信のある解答を持っていません。機械論的・決定論的脳プロセスのどこに自由意志や主体性の余地が生じるのか? どこから自由意志や主体性が始まるのか?
ニューロンの細胞骨格やシナプスで起こっている微細な現象に量子効果が働き、それが拡大されて、一つの条件下でも多様な反応が可能になる(すなわち決定論が崩される)という説もあるそうです。これが真実かどうか、今後の検証を待たねばならないでしょうし、これだけでは、多様な反応が起こり得るというだけで、肝腎の「私という現象が悩み、逡巡し、判断する」という主体性・自由意志の由来は説明されません。
これは脳研究の大きなテーマで、世界中で多くの科学者が格闘しているわけですから、私ごときが解決できる筈もありません。ですが、いくつか本を読んで考えた事を書いてみます。主体性・自由意志の発生にはいくつかの条件が必要でしょう。
まず、目的にそって行動するということがあるということ。たとえばヒトデが貝を探すというような。この時点では、まだ本能や反射に縛られた、たとえば血糖値の低下に伴う反応であり、決定論的であるのかもしれません。
次に、記憶のシステム。少なくとも魚には記憶があります。池の鯉が手を叩けば寄ってくるというのは、手の音の後餌が得られる事が保存されているからです。しかし、このレベルは条件反射にすぎず、やはりまだ自由意志や主体性による行為ではないのかもしれません。
さらに、自己モニターあるいはフィードバックのシステム。自分のなした行為・認識とその結果を再度インプットし、以後の同様の状況における行為・認識を修正するシステムです。このシステムによって反応・行動の個体としてのパターンが形成される。人懐っこい犬・臆病な犬といった個性が生まれてくる。外国語のテープを繰り返して聞くうち、ある日それまで一つながりの無意味な音に過ぎなかったものがふいに言葉として分節されて聞こえてくるというのも、このシステムによってニューロンの新しいつながりがさまざまに試され、遂にシナプス可塑性によって有効な連結が固定されるという事だろうと想像します。
もうひとつは、シミュレーションのシステム。過去の記憶から任意の要素をつなぎあわせ、ある条件から得られる結果を予想する。その結果は間違っているかもしれません。しかし、シミュレーションされた結果が、どんな行為をするか、しないかに影響を与えるなら、これこそが自由意志・主体性の発露でではないでしょうか。
これらのことが、脳内のおそらくはニューロンからニューロンへの興奮伝達・抑制の、目で見ながらたどっていける道筋として、解明される日がいずれくるだろうと期待しています。念のため繰り返すと、ニューロンあるいはニューロンネットワークがわたしなのではなく、ニューロンネットワークが刺激に応じて反応するというそのつどの現象がわたしなのです。ニューロンネットワークの反応のパターンは、私の育ってきた文化・環境・教育・経験などによって育まれ、過去の自分という現象のあり方にも大きく影響を受けている。
という訳で、私は、無我なる縁起の現象であるけれども、条件のままに動く機械ではなく、自由意志を持ち主体性を持つ、という事を、脳科学は解明してくれるだろうと期待しています。つまり、脳科学も仏教を強力にサポートする方便になり得ると期待しています。
(5)縁起であり現象にすぎない我にどうして行為の責任が生じるのか?
*****takaさん*****99年11月19日付けのtakaさんのメールへの返事で、責任という言葉を私が不用意に用いたために混乱が生じているようです。また熏習という言葉も、もともと(私の考えに合わない?)唯識の言葉であり、「何に熏習されるのでしょうか」とおっしゃるのも誠にもっともな疑問です。責任・熏習という言葉を使わずに、再度説明します。
縁起であり現象にすぎない我にどうして行為の責任が生じるのでしょうか。責任が生じるということはその元となった行為に対して何らかの価値判断が下されたことになるのではないでしょうか。曽我さんのすべては無我なる縁起の現象にすぎないという思想にそうした価値基準なるものが存在するのでしょうか。曽我さんの無我なる縁起の思想では単に原因と結果があるだけではないでしょうか。
また行為の影響が何に熏習されるのでしょうか。現象に過ぎない我に熏習されるのでしょうか。現象にも軽々として透明なぴちぴちはずむ現象もあり、その逆の現象もあるということですね。つまりは縁起であり無我である現象にもやはり価値(意味)の違いがあるのですね。
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(6)虚無主義について
*****takaさん*****成功に実体があるという考えには、違和感を覚えます。仏教とは水と油のようになじまない発想だと感じます。
何をやっても結局は無に帰す、どんな努力も意味も価値も無いとする思想、成功も実は実体の無いものだとする思想こそが虚無主義ではないでしょうか。曽我さんの「人生に意味はない」とする思想。これこそ虚無主義ではないでしょうか。
曽我さんの無我とは結局は「何ものにも意味を認めない」ということではないでしょうか。
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*****takaさん*****前回のメールでtakaさんに絶交宣言をされてしまい、自分の徳の無さを痛感し、自分の文章の毒を反省しましたが、この一文については一言申し上げねばならないと感じます。
つい最近、まったく面識のない年配の主婦を(世間的には頭が良いといわれ成績がトップクラスの)高校生が「人を殺す経験がしたかった」という理由だけで婦人の頭を金づちでなぐり全身を40数か所を包丁で刺して殺害するという事件が起きました。新聞報道によるとこの学生、哲学や物理理論が好きでよく同級生と議論していたとか。
虚無主義や唯物論思想の影響ではないかと私は感じています。
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(7)分析と全体的理解
ルコント・デュ・ヌイという方の主張の要約、正直なところ、よく理解できませんでした。社会を学ぶにはそのための手法があり、個人の心理を研究するにはまた別の手法があり、生理学には生理学の手法があり、それぞれの学問の領域内で多くの成果が上げられていると思います。そしてさらに一つの学問レベルで得られた知識と別レベルでの知識を突き合わせるなら、さらに多くの事を学べるでしょう。
食塩とナトリウムと塩素の喩を使っておられますが、知識がないので水と水素と酸素の喩にすりかえさせてもらいます。
水を研究していた学者が、なぜ水の誘電率が高いのか研究したとします。水の分子は、酸素原子を中にして水素原子が「へ」の字型に両端にくっついていること。酸素側が電気的にマイナス、水素側はプラスで、「へ」の字型にくっついているため水分子には電気的に傾きがある事。さらには水が液体故に個々の分子が自由に向きを変えられるため、電圧がかかれば、すべての水分子が同じ方向を向き、結果電気を通すということ。この学者は、水の誘電率が高い理由を解明しました。
しかし、なぜ水素原子は「へ」の字に酸素原子にくっつくのでしょうか? H‐O‐Hと一直線上にくっつけば、電気的傾斜は生まれず、水は電気を通さない。一直線ではなく「へ」の字である理由を説明しなければ、真に誘電率の高さを説明した事にならない。
この学者は、もう一度鉢巻を締め直し、原子のレベルに降りていって研究しなおしました。量子論を学び、酸素原子の電子雲(電子の存在する場所の確率)の形から、水素原子が一直線ではなく「へ」の字にくっつく理由を解明し、水が電気を通す理由をより深いところから説明する事ができました。
いかがでしょう。この物語に矛盾はありますか? 分析によって見えなくなるものより、見えてくるものの方が遥かに多いと思います。
(2000、12、8、加筆)
ここに書いたことには矛盾がある。水分子の「へ」型構造による電気的傾斜だけでは電気は流れない。一知半解の読みかじりで恥を晒している。イオンにも触れねばならないのだろうが、書くほどに馬脚を露しそうなので止めておく。しかし、マクロなレベルからミクロなレベルまで、それぞれのレベルにふさわしい見方・理論があり、うまく視点をずらしながら適切な理論をあてはめていく事で理解の幅と深さを増していく事ができると思う。
残存する多くの仏教文献の断片を突き合わせる事。なにがどれを引用しているのか。何がどう増広されたのか。どれがなにを批判しているのか。どの言葉がどこでどう意味をすり替えられて使われているのか。ペルシャやインドやチベットや中国の土着思想・新進思想とどうかかわりあってどう影響されたのか。彫刻や絵に残された事との対比。社会制度、文化、政治、経済とのかかわりあい。
細かく分析すればするほど確かに全体像は見えにくくなります。しかし、その困難を乗り越えて多様で細かな分析に耐える仮説をうち立てられれば、その仮説は史実により近いと言えるのではありませんか?
もし今、釈尊が目の前におられたら、私とて分析など放擲します。釈尊の元に駆け寄り、ひれ伏し、教えを請います。その教えだけを頼りに、それ以外の一切を切り捨てて、一心に教えに参じます。
でも、残念ながら、釈尊はもうおられません。残っているのは、釈尊の教えの後の展開だけで、それも多くの人の多様な解釈を経たもので、互いに矛盾に満ちています。その中から少しでも釈尊に近づくには、文献学的研究を尊重する事、みずから犀の角として思索し瞑想する事、しかありません。
takaさんは、分析によることなく、いかにして釈尊の教えに近づけるとお考えですか? 直感によって? あるいは釈尊の霊が時空を超えて、言葉に寄らず(言葉は分析的なものです)直接語り掛けてくるのでしょうか? 歴史学・文献学の成果は、耳障りなノイズとして捨象すべきだとお考えなのでしょうか?
ここまで読んで頂けていれば、うれしいです。気が向けばまたメールを下さい。お待ちしています。
草々
taka kudou さま
2000、8、1、 曽我逸郎
taka kudouさんからのメール(2000,8,3,)
曽我さん、こんにちは。
下の(1)を半分ほど書いたところで、いささかショッキングなメールを頂きました。気分を害させてしまったようです。ごめんなさい。私としてもとても残念です。どうかご寛恕のほどを。
このあいだメールを送った後、なぜか心が痛んでしょうがありませんでした。
少々、ぶっきらぼうで説明不足であり、
ああいったメールを受け取ったら、やはり悲しいだろうなと今は反省しています。
ただ、曽我さんからいただいた返事を読み、
そして意見交換コーナーを見た感想として、
「たいへんそう」だというのが率直な気持ちです。
たくさんの方からの意見に返事を出したくてもなかなか出せない、
そうした苛立ちが私への返事のなかに見てとれました。
正直に言って、
いろいろな考えを持った人が曽我さんの思想を見て
それぞれの考えから意見を寄せるのですから、
それらに返事を書くのは脳力的にも肉体的にも時間的にもたいへんなことだと思います。
そうした曽我さんへの思いもあり、それにもっと根本的な問題として、
私自身がもっと霊的真理に対する理解を深めなければならないと感じているからです。
やはり、意見交換する以上、
そのたびにお互いの思想が深まっていかなければつまらないものになってしまいますから。
ですから、先日送ったメールは、
私との意見交換はほどほどでよいですよ、
このへんで一休みしましょう、という意味にとっていだだきたいと思います。
このメールも読んで頂けるのかどうか分かりませんが、ダメモトで仕上げて、お送りいたします。私にとっても意見交換以上に自問自答の意味合いが大きいので、ともかく頂いた問題提起を検討してみます。
曽我さんからのメールはじっくり読みます、
それとともにさらに霊的真理を学び、じっくり考え、
そして考えが熟したらまたメールを送ります。
それでは、また
taka kudou
taka kudouさんへの返事
メールありがとうございます。
気持ちがほうっとくつろぎました。
そうですね。一日一日を大切にするのと焦るのとは違う事ですね。このところ少し追い立てられたような気持ちがあって、それが文章にも表れ、不愉快な気持ちにさせてしまったと思います。すみません。
頂いたメールは、たとえば「縁起と主体性は両立するのか?」など、私の意識していなかった問題点を提起して頂き、それを考えていく過程で、自分とはいかなる現象であるのか、仮説の形が少し煮詰まったかなと感じます。
また是非刺激を与えて頂きたく、メールを頂ける日をお待ちしています。
では。
taka kudou 様
2000、8、3、 曽我逸郎