曽我逸郎
 「無我について」など、読ませていただきました。

 自己言及、あるいは無限遡及に陥るといった矛盾は、テキストとして解釈してようとするところから生じているような気がします。まず最初に表現すべき内容があった、と仮定することによって、別のアプローチができるのではないか、と思います。

 たとえば「吹き消す」「ひらひら落ちる」というテキストを前にして、そこに表現された内容を読み取ろうとするとき、私たちは、「吹く」とか「消す」といった単語そのもののよりも、炎にむかって息を吐きかける行為と、その行為によってひきおこされる自然現象を、ある程度明確なイメージとして想い描きます。1枚の紙、数え切れないほどの枯葉、赤い花びら、などのイメージを用いて「ひらひら」を空想的に体験し、理解を深めようとするわけです。この空想的な体験がなければ、読み手の中に、文脈らしい文脈が構築されることはありません。

 たとえば「般若心経」は、読み手が明確なイメージを描くことを、ことごとく禁止するような印象を受けるので、非常に読みにくいテキストのように思えます。しかし、文脈らしい文脈を諦めてしまえば、目の前にテキストがあるだけで、それ以上何も読み取ることができなくなってしまいます。「吹き消す」という言葉が「吹き消す」という意味を成しているだけでは不充分、そう感じたら、ふさわしい文脈を、読み手として模索すべきです。

 これから紹介する、現象モデルは、描くべきイメージがシンプルなので、自分の考えをわかりやすく説明したいときなど、役に立ちます。

 とりあえず、何も考えないようにしてください。自分がどんな服を着ているとか、どんな地面の上に立っているとか、そういうことを考えずに、次のようなイメージをつくってみてください。

 よく晴れた青空が広がっています。あなたは、視野いっぱいに広がる青空を見ています。なんとなく空を見ています。

 「こんなによく晴れた日には、水平線がくっきり見える」という考えが、心に浮かびます。

 あなたは空を見ていましたが、海の彼方に、ふと目を向けます。(俳優になったつもりで、この心の変化を軽やかに演じてみてください)

 よく晴れた日に、なんとなく水平線に目を向ける・・・これだけです。

 タネ明しをする前に「なんとなくそうしたくなって、視線を向ける」という行為を、自分のものにしておく必要があります(目の前で、どんなことが、どんなふうに起こったか、と考えられるくらいでOK)

 テーブルの上のコップになんとなく目を向けた、でも悪くないのですが、コップの形や大きさ、質感、距離感など、ディテールが多すぎるので、おすすめできません。水平線はまっすぐ一直線なので、図形パターンとしてこれほどかんたんなものはなく、右端と左端を気にする必要もありません。まなざしを向ける対象として、これほどシンプルな輪郭のものは、他にないと思います。

 さて、ここらへんから、少しずつタネ明しのような説明になります。般若心経の「転倒夢想」は「誤った考え方」などと訳されますが、「1+1=3」とやって、間違えた、という解釈はふさわしくありません。「転倒夢想」は、白いものを黒いと思いこんでいるとか、どこにもないものをあると思いこんでいる、というふうに、逆転の可能性が秘められています。なぜ「転倒」なんでしょうか?

 「よく晴れた日には、水平線がくっきり見える」と、あなたは考えていました。しかしこれが「誤った考え方」であることが明らかになります。結果として間違っていた、ということより、間違えるという行為によって、その後、どんなことがひき起こされるか、ということが、ここでは重要です。

 あなたはまず、海の彼方の、だいたい水平線があると思われるあたりに目を向けました。ところが、そこに水平線はありませんでした。水平線のあるべき姿(位置)を求めて、上に下に、注視点がさまよい動きます。つかみ損ねたものをつかまえようとするような、あわただしい動きです。疑いのないまなざしを投げかけて、当てが外れたとき、どんなことが起こるか・・・

 視線を投げかけた直後、あなたは「水平線を見ている」と思っているのに、実際には見えていない、という矛盾に直面します。

 この矛盾は、ほんの短い時間ですが、あなたの眼球運動を支配します。水平線を見ようとしている限り、あなたの目はその姿をとらえるべく、精密な自動機械のような動きをくり返します。

 医学用語で「サッカード」と呼ばれる眼球の(注視点をジャンプさせる素早い)回転運動について、詳しく知っている人はあまりいないかも知れませんが、自分が何かを見そこなって、完全に当てがはずれたときのことを考えれば、補うことができます。

 サッカードが連続的に起こる現象は、直前の行為の矛盾を証拠するもの(矛盾によって、その行為が失敗した結果)だと言える場合があります。連続的なサッカードは、矛盾を解消しようとするはたらき(理性?)のあらわれで、分裂病患者に見られる病的なサッカードは、そうした矛盾の表れかもしれません。

 よく晴れた日に、水平線が忽然と姿を消すなんてことが実際に起こり得るでしょうか。この点をハッキリさせておきます。海の彼方と、空の色が同じになれば、水平線はきれいに消えて、見えなくなります。青で塗りつぶした巨大な壁のような景色が、自然のいたずらでつくりだされることが、稀にあります。このようなトリックにひっかかったとき、自分の注視点がどのようにふりまわされるか、そこに「遠離一切転倒夢想」の秘密が隠されているような気がします。

 まなざしの勢いが持続している間、言いかえれば「(水平線が)はっきり見えるはずだ」という信念に基づいて、眼球が動いている間は、矛盾をかかえたまま、あなたの目は水平線をさがし続けます。

 「(水平線が)はっきり見えるはずだ」という思いこみが「主」で、「(水平線が)見えない」という視覚情報が「客」だとすれば、「客」に圧倒されて(一時的に)「主」が消えることによって、矛盾が解消します。

 以上のような文脈で考えると、矛盾をひき起こす行為が原因となって、主客のどちらかが消える、という結果が成り行きとして導かれていることが理解できます。(ちょっとややこしい)

 ある行為をしたとき、転倒夢想によって矛盾が引き起こされると、その結果として、主客のどちらかが消滅する、ということです。

 般若心経に書かれているように「一切の転倒夢想」から遠く離れると、矛盾が生じることもなくなるので、「主客のどちらかが消滅する」というこも、結果として、あり得ないことになります。

 主客消滅というのは、意識の主体が消えるとか、まわりの世界が認識できなくなるということではなく「矛盾を解消するはたらき」について述べた文脈からくると考えるのが妥当で、もっともわかりやすいのではないか、と思います。

 「矛盾を解消するはたらき」のことを、理性と呼ぶか、仏性と呼ぶか、というような話はいっさい抜きにして、水平線を見そこなったとき何が起こるか、そこらへんを注意深く観察すれば「転倒夢想」「ケイゲ」「吹き消す」といった仏教用語を読み解くヒントが、得られるような気がするのですが、いかがなものでしょうか・・・


間 黒男さんへの返事

 返事遅くなりました。最初のメールを頂いてから、ほぼ4ヶ月になります。本当にごめんなさい。

 正直なところ、間さんの文章は私には難解でした。おっしゃっているような想像力というか、イメージ喚起力というか、そういう能力が私に不足しているせいだと思います。

 精一杯想像力をはばたかせて、まず最初に頂いたメールについての私の理解を2点にまとめ、その後そこから考えた事を書いてみます。正しく理解しているという自信はあまりありません。間違っていたらご指摘ください。

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A)テキストを読む時には、その言葉の意味を追うだけでは不十分で、テキストの喚起するイメージを思い描き、文脈を空想的に体験する必要がある。

B)転倒夢想(間違った思い込み)が矛盾に出会った結果、それが転倒夢想であったと露呈した時に、矛盾を解消しようとして主客の一方が消滅する。遠離一切転倒夢想(間違った思い込みが全くない状態)の時は、主も客も、ともに安泰である。

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 まずA)について。
 テキストを読む時については、おっしゃるとおりだと思います。私自身が常に自覚的にそういう読み方をしているというわけではありませんが、テキストを読む時はイメージを膨らませ、文脈を体験しようとすべきだと思います。
 ただ、自己言及・無限遡及の問題は、わたしにとってテキストを読む時の問題ではなく、自分について考える時の問題なのです。

 普段私たちは自分を考える時、「わたしは**である」という形式で考えます。これは、自己を固定化し「いつも化」して、持続的実体的な「存在」として捉えているわけです。「わたしは無我なる縁起の現象である」という表明ですら同様の形式であり、言葉にとらわれれば、「現象」という「いつも的<存在>」に堕してしまう。
 おっしゃっているようにイメージを広げて頂き、その時々の縁によって、ある時はダイナミックに、あるときは頼りなく変化し、いつか終わる自分を想像してもらわなければ、「無我なる縁起の現象」という言葉でわたしが言おうとしている意味は、理解してもらえません。
 しかし、では、正しく想像力を発揮すれば、ノエシスとしての自己を知ることができるのかというと、まだまだ不十分で、言葉(=戯論)に頼っている限りどうしてもノエマのレベルを抜けきれません。
 なぜなら、言葉は固定化「いつも化」の産物だからです。変化する現象を固定しいつも化し実体視し対象化する事によって言葉は可能になる。言葉があるところ、常に既に現象の固定化・いつも化・実体化・対象化は実行されています。

 自分を対象化して問う事はたやすいけれど、それは対象化された(ノエマとしての)自分であって、現に今ここで働いている主体の自分(ノエシス)ではない。今わたしは、「現に今ここで働いている主体の自分(ノエシス)」と書きましたが、それはそう考えた時既に、そういう形で対象化され、ノエマ化されています。通常の思考の形式(戯論)では、主体の自己はけっして問うことができない。蜃気楼のごとく一歩近づくたびに一歩向こうへ逃げていきます。

 ただしかし、言語によっては決して捉えられない真の主体の自己といっても、闇の奥に潜む神秘の自己などといったものではありません。今ここで働いている自分、今の私で言えば、「そろそろ切り上げて会社へいく準備しなきゃ」(額の汗を拭う)「今日は何するんだっけ。あれして、あれもまとめないと、ああめんどくせえなぁ」(マウスの横の昨晩のグラスを流しで洗う)(窓の外を見て)「ちくしょう、また暑くなりそうだな」「えっと、今日はゴミの日だっけ」云々と、一瞬一瞬途切れなく様々に動いている自分のことです。(あ、またノエマ化してしまった。) これを、木村敏先生は確か「述語的自己」と呼んでおられたと思います。(中公新書「時間と自己」or「あいだ」(出版社失念)?)

 主体の自分が、主体の自分のまま対象化されずに自分を知るには、どうすればいいのか? 言葉(戯論)の介入なしに、、、、。
 ここで要請されるのが、私の言う「主客対消滅」体験なのです。

 ですから、B)として私が理解した間さんの主客の捉え方とは、やや異なります。間さんは、「主=思い込み・理解・解釈。客=視覚ほか外界からのインプット」と考えておられるのではないでしょうか? 「転倒夢想では、主と客は食い違っているが、ともかく主も客もある。遠離一切転倒夢想においては、主と客はぴったり一致しつつ、ともにある」と。

 わたしの場合の主とは、上に書いた、対象化され得ない主体の自分です。客は、その主体が対象化し認識している内容のことです。したがって、私の客は、間さんの主に近いものかもしれません。

 認識はいつもなにかについての認識です。認識には常に指向性がある。認識を矢印で示せば、根元が主であり、先端が客となります。

 <主>     <客> 
(主体・ノエシス・述語的自己) - - - - -----> (何かについての認識内容)
言語化・対象化不能 (認識の指向性) 「SはVである」
(矢印の始点側が破線になっているのは、始点を定めがたい事を示す。)

 この図式で分かるとおり、「私は、無我なる現象である」という言明も、「私はノエシス的な対象化不能の主体である」という言明も、仮にそれが正しくとも、実際は「客」なのです。

 ところで、「主客対消滅」は、他ならぬ私の造語で、伝統的言い回しである「主客未分」が孕む危険な要素(個々の現象を超越する本源的な何かがある、という考え方)を排除したつもりだったのですが、「主客対消滅体験で大いなる喜びに包まれる」という言い方に居心地の悪さを感じてもいました。主が消滅しているのに、どうして喜びを感じるのか?
 主客対消滅からもどってきた時に感じる喜びだと考える事もできるかもしれませんし、実際そうなのかもしれません。
 しかし、間さんから頂いたメールで、ここまで書いてきた事を考えているうちに、もやもやしていた思い付きが少しずつ固まってきました。
 私が「主客対消滅」で言い表そうとしていた事態は、認識の指向性の消滅ではないか?
 座禅の時、意識を鼻先に集めよ、と教えられます。そして、鼻先という意味のない一点に意識を集中しつつ大きく長い息を整えているうち、意識は鼻先から拡散し、方向性を失う。私自身の乏しい禅定体験に照らしてみると、この「意識・認識の方向性喪失仮説」はあながち的外れではないように思えます。
 では、認識が対象・指向性を失う時、何が起こるのか?
 認識の指向性がないのですから、言葉はその土台を失っており、働けない筈です。つまり、戯論寂滅の状態である。しかし、主も客もなくなるわけではない。その間も世界では、様々な現象が縁起しあっているし、主という現象も停止するわけではない。先程の出勤前の自分の例では、認識が対象を持っていたので、あのような形にせよ言語表現ができたけれど、戯論寂滅状態ではどんな言葉も届かない。しかし、それでもノエシスの働きは動いている。でも、それは捉えられない。戯論寂滅のノエシスは、量子論の不確定性のごとく、原理的に不可知である。(そういえば、戯論寂滅という言葉自体が、伝統的に「原理的に不可知」という意味でも使われてきたように思います。厳密な文献学的主張ではなく、単なる私の印象にすぎませんが、、、)

 では、認識の指向性の停止した「主」に何が起こるのか? 原理的に不可知だと主張したものの、さらに戯論を重ねさせてください。いや、戯「論」と呼べるようなものですらなく、ただ私が様々な書物から読みかじったことを勝手につなぎあわせて、この時起こっているであろうことを推察しているだけなのですが、、、

 「宇宙の核心、世界の全体を一挙に知る」「真如法界をつかむ」などと言うつもりは毛頭ありません。しかし、おそらく少なくとも、自分が本体をもつ「存在」ではなく、身の回りの個々の様々な現象とともに等しく互いに縁起しあっている現象であるということは、はっきりと感じ取ると想像します。ハイデガーの「世界内存在」をもじって言えば「世界内生成」、あるいはもっと変な言い方だと「共世界内生成」。縁起し変化する世界への感嘆、執着の消滅、意味・目的の呪縛の解消、世界との和解、自分という現象の肯定。これらすべてが綯交になった言葉にできない(=戯論寂滅の)感覚。極めてビビッドな祭り体験という表現も可能かもしれません。そして、この体験からもどってきて認識の指向性が回復した時は、身の回りの現象を対象として認識はするものの、「いつも化」・固定化・「存在」化はなされず、同じように生まれ変化し滅びる現象として、ともに生成する喜び、滅びゆく現象への愛惜、苦しむ有情への慈悲が自然と起こってくるものと想像します。言葉についても、言葉の持つ「いつも化」・実体化の罠を常に意識することによって、うまく言葉を使う術を得るものと想像します。
 (勿論一度の体験ですっかり変わってしまえるわけではないでしょう。「いつも化」のしくみは根深く、持続的に「意識の指向性解消の練習」を繰り返し、自分の「いつも化」・価値の固定化・執着を点検し続ける必要があると思います。)

 間さんのメールから随分逸脱してしまいました。もう一段、自問自答の暴走を御許し下さい。

 対象化と「いつも化」はどちらが先か、という問題にも思い至りました。おそらく個体の成長の過程で、対象化と体験が繰り返されて、「いつも化」と対象の価値付けが形成されるのでしょう。しかし、「いつも化」+対象の価値付けが出来上がってしまえば、その後のそのつどの個々の認識・対象化は、逆に「いつも化」によって引き起こされるのではないか?
 誰もが同様の経験をもっていてみんなに肯いてもらえる、という自信はありませんが、こういう経験はありませんか?
 山道を歩いていて、ぎょっと恐怖を感じて飛び上がり、なにかを飛び越えて、振り向いてみたら縄が落ちていた、なんだ、縄をヘビと見間違えたのか、というような。
 つまり、対象が意識に登る前に、対象は「いつも化」によって既に対象化されるのではないか。まず「いつも化」システムが対象を切り出し、その上でそれを意識・認識に渡す。だから認識された対象は、既にあらかじめ「いつも化」によるところの好悪・美醜・善悪・上下その他の価値的な色付けをされた上で認識される。おそらくこれが世俗的なあり方だろうと思います。
 ところが、意識・認識の指向性消滅体験を経ると、「いつも化」・固定化なしに、即ち、あらかじめの価値評価なしに、認識は対象を現象のままにとらえる。これがつまり、「如・来」ではないか?

 すみません。なんだか自分でも収拾がつかなくなってきました。まだまだ未消化な思い付きのようです。でも、未消化であるのは、大きな栄養(可能性)を宿している証拠かもしれません。間さんの与えて下さったヒント・刺激に感謝します。

 中途半端ですみません。時を置いてまとめられたら、御一読頂き、また御批判頂けると幸甚です。

間 黒男さま

2000年 9月 8日     曽我逸郎

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