曽我逸郎
 前略

 曽我さんとのメールをやりとりしてきた谷です。今回は、taka kudouさんという方と曽我さんとのメールのやりとりを拝見して、私の考えたことを書かせていただきたいと思います。
 以下は、曽我さんとtaka kudouさんの両者を読者として想定して書かせていただきます。

 まず、この問題に関する私の基本的なスタンスを述べます。
 無我の問題は、「自己言及」という基本的な論理的困難を抱えています。「自我というものはない」という言説ないしは思いがここに存在する以上、その言説ないし思いの「主体」が存在するはずで、その「主体」こそが「自我」ではないのか、という問題です。これはスコラ的な揚げ足取りではなく、仏教にとって深刻な問題です。というのは、この「主体」は、「迷いの主体」「悟りの主体」であり、迷いから悟りに向けての「修行の主体」でもあるからです。「無我」をストレートに言ってしまうと、悟りに向けての修行の根拠を掘り崩してしまうのです。
 taka kudouさんが言われるように、原始仏典では、禁欲や瞑想等のまさに「主体」としての自己が明確に意識されております。中国起源の禅(の堕落した一部?)のような、無為や放埒をよしとする雰囲気は原始仏典のどこにもなく、むしろきわめて人為的・人工的であり、システマチックとかプラグマチックという形容さえあてはまりそうです。
 ではそのような原始仏典では「自我」をどのように扱っているかというと……
 最も初期の仏典では、「我というものは無い」とストレートに言わず、「〜は我に非ず、我所(わがもの)に非ず」という表現で、本質的と考えられている色々なものを「〜」に次々と代入しています。つまり(taka kudouさんが指摘されたように)「非我」命題の連続という表現を採っているわけです。
 しかし、その「我に非ず、我所に非ず」は、経典の中で非常に冗長に続いていることから推察するに、おそらく無限連続の過程です。おそらく、心に浮かぶ色々なものを次々とこの公式に代入して「非ず」と否定することをくりかえす、ということが、論証ではなくて瞑想のテクニックとしておこなわれていたと思われます。
 つまり、非我というのは、特定のこれとこれとを対象として否定し(自我の内容から排除し)、最終的に残ったものを真の自我として認める、というものではなかったと考えます。自己であると考えられてきたものを否定し、その否定の主体であったものもまた否定し、……という無限の連続が、とりもなおさず「無我」を証得する修行だったのではないでしょうか。そして最終的には(あるいは「結果的には」と言うべきでしょうか)、「無我」の境地へと至り得るのです。
 taka kudouさんの言われる「意識レベルの七つの段階」というのは、その非我の進行過程を便宜的に分けたものといえるでしょう。他の分け方もあり得ます。たとえば小乗の「四向四果」、大乗の「十地」等々。taka kudouさんが引用された経典は阿含とはいえ長部に属するものですから、釈尊の時代よりはかなり下った時代の成立と考えられます。こういうてんでは仏教理論はかなりルーズで、いろんな人や宗派が勝手にさまざまの段階論を作っていますが、出家して戒律を守り、しっかりした師の指導のもとで真剣に修行すれば、どの段階論でも悟りに達することはできるはずです。山の頂上に行くのに登山道が複数あるようなものでしょう。

 taka kudouさんの言われる「心霊主義」については、私も曽我さんと同様、知識を持たないのでそれについて論じる資格を持ちません。ただ、taka kudouさん御自身がそれについて論及されている箇所から推測すると、非常に高度に精錬されたかたちでの自我を認めていらっしゃるのではないかな、と思います。隻言片句を抜き出すのは失礼かとも思いますが、「本当の自己」「最高の境涯」「霊自身が人格的存在であり」等の表現から推察いたします。とすればこれは、原始仏教ではなく(決して貶めて言うわけではなく)ヒンドゥー教の理想とする境地であり、仏教も中期大乗以降はしだいにその立場に近づいていった(代表的には涅槃経)ところのものであると思います。

 しかしまた、曽我さんがこの無我ないし非我の問題をどのようにクリアされておられるのか、という点については、私にはやや不満の残るところがあります。以下、述べさせていただきます。
 曽我さんが説かれる「縁起」は、(「あたりまえ般若経」での蝋燭の喩えのように)自分自身との切実な関係のない、外的な(客観的な)対象に関して言っておられる場合が多いように思われるのです。自然科学の諸成果を縁起説の支持根拠として援用されるのも、そのことと関連しています。たしかに私も、万物は客観的に縁起的存在である、と考えますが、それを認識することが、この私自身と切実な関係を持っている固有の諸対象に対する執着をなくしてくれる、とは思われないのです。
 曽我さんの場合、無我説は縁起説の適用として、他のあらゆるものと同様、我というものも仮名にすぎなくて実際には存在しないのだ、という主張になると思うのですが、この論法ですと、自分ではない他者の自我(他我)の無はすんなり納得できても、自分自身の自我の問題となると、最初に出した自己言及の問題が出てきてすんなりいかないのではないかと思うわけです。
 論理的には上述の理由で「すんなりいかない」わけですし、心理的には、自分と特にかかわりのない他人の運命は「無常だ」と言って納得できても、同じ運命が自分に襲って来た時にはとてもそんな悟り澄ました心境ではいられない、ということになります。この「論理的」と「心理的」は、実は同じ事柄の両側面だと思います。(この論点については、曽我さんのHPにある99.3.7.の私から曽我さんへのメールにやや詳しく書きました。)

 また、曽我さんの立論は、taka kudouさんへの返信の中に見る限りではこのように客観的というか、自己に関する固有の問題性とは距離を置いたものですので、それに対するtaka kudouさんの「虚無主義に陥る」という批判は、あたらないのではないかな、と考える次第です。

 taka kudouさんに読んでいただきたいこととしてもうひとつ追加させていただきますと、曽我さんの「主客対消滅」という用語、これは曽我さんの造語です。
 禅や西田哲学の解説で「主客未分化」という用語がよく出てきますが、これだと「主客」以前にその「母体」というか、宇宙大の大我というか、そういうものが想定されてしまうようなニュアンスがあります。そこで、粒子と反粒子が「無の中から」同時に生成し同時に消滅する、というイメージで「主客対消滅」という用語を案出されたと私は理解しています。ですから、taka kudouさんが批判されるような「すべては我である」「すべては我とつながっている」といった悟りの形をむしろ避けるために「主客対消滅」という用語が用いられている、と私は考えます。このあたりの事情については、曽我さんのHPの、99.5.13.の私からのメールに対する曽我さんの返信の中で書かれております。

 以上です。どうでしょうか。今度は私が「両方からボコボコにされる」のかな?できればtaka kudouさんからの反論もお待ちしております。


曽我から 谷 真一郎さんへの返事
 (taka kudouさんからの返事は曽我の返事の後に掲出させて頂きました。)

 無我について語ることの困難さをぴたりと言い表して頂いて、改めて問題意識を深めました。

 耳の痛いご指摘もいただきました。確かに私は、「自分自身の自我の問題となると、・・・自己言及の問題が出てきてすんなりいかないので」主体の無我を考えることを早すぎる時点でギブアップして、「主客対消滅の言葉の届かない経験」という自分でも明確に経験していない経験に主体の無我を知る契機をすべて託しておりました。今考えている脳科学、認知科学等々のかじり合わせによる人無我の方便も、あくまで方便であって、対象化された主体の無我についての戯論に過ぎません。主客対消滅を体験するためには、日ごろから座って無我と縁起を考え続けていなければならないとは思うものの、根がなまけものの私は、時間がある時でも、せいぜい焼酎を飲みながらキイボードを叩くくらいで、実際のところ「定」とは縁遠い生活を続けております。

 「心理的には、自分と特にかかわりのない他人の運命は「無常だ」と言って納得できても、同じ運命が自分に襲って来た時にはとてもそんな悟り澄ました心境ではいられない」のではないか? というご指摘には、そのような定めに陥った時の自分の態度を自信を持ってこうだと言いきる自信がないので、あやふやな物言いしかできません。ただ、悲しみ涙を浮かべながらその運命を受け止めることのできる自分であればいいなと思います。本当は、荘子のどこかの話のように自分の背にできた大きな瘤でも「なんてすごい、造化の力。私の体にこんなものを作ってくれたよ」と喜べるほど強ければいいのですが、そこまでの自信はありません。(この説話は、数年前に癌で死んだ2歳年下の友人のことといつもペアで思い出してしまいます。)小渕首相を引き合いに出すまでもなく、いつ知れぬこの身、常にこの今100%生ききり続けねばならんとは考えるものの、実際はそれほど自分を追いつめることはできず、日々の出来事に一喜一憂しつつ埋没しておりますが、いつも心の片隅に「なにかあるかもしれんなあ」という気持ちはあります。バイクで旅に出る時の谷さんが多分そう感じておられるように。

 他人の運命については、慈悲という大きな問題の領域だと思います。 かつて私は、すべてが空で有情も空なら何故空なる有情を救済せねばならないのか、という自問に答えを見つけ出せずにいました。多分般若経のどれかだと思うのですが、うろ覚えで出典が見つけられません、「魔術師が立派な行列を幻出してまた消してしまう。菩薩が済度する衆生とは、その行列のようなものである」とか、「衆生の済度といっても、どこにも済度される衆生はいない、これこそが真の衆生済度である」というような言葉に幻惑されて、慈悲を仏教のどこにも位置づけられなかったのです。無我・縁起・空という仏教の教えとは全然別のところに慈悲は根ざしていると考えた時期もありました。その頃は、無我・縁起・空が対象世界にだけ適用され、自分は無我・縁起・空の外から無我・縁起・空なる世界を観察していたのだと思います。近頃では自分の無我・縁起・空もほんの少しは感じられてきて(私は、頓悟よりも漸悟の立場です)、世界とともに縁起する自分という感覚が多少はあり、人間に対しては常に誰に対しても慈悲をもって接しているとはまったく言えないのですが、(それでもかつてすべての他人を見下し軽蔑していた頃よりはましです。このあたりの感覚は「あたりまえ、、」本文の町からきた娘の告白のとおりです。)鳥や虫や動物には結構簡単に感情移入して、ひどくいとおしく感じたりしています。本来自分に一番近い筈の人間よりも動物の方に共感を感じてしまうというのは、なぜでしょうか?
 一切有情とともに世界とともに縁起する自分ということが分かれば、一切有情への平等な慈悲が自然に湧き起こってくると思います。大きな縁起の流れの中で結局はなにもできずただ見つめて涙をこらえることしかできないのかもしれませんが、、、(また主客対消滅体験に下駄を預けてしまいました。)
 なんだか情緒的な文章になりました。自分の主体の無我・縁起について考えようとすると、いつもこうなってしまいます。

 意見交換のページを始めるに当たっては、私とメールを頂いた方との1:1の交換だけでなくて、複数の人が刺激し合うサロンのようなページになればいいなと思っていました。谷さんの今回のメールでそれがようやくひとつ実現されたわけで、taka kudouさんはじめいろいろな方からいろいろな意見が行き交うようになれば、本当にうれしい限りです。

 それにしても、谷さんと私の仏教へのアプローチの仕方の違いを改めて感じました。谷さんは、仏教解釈のひとつひとつに一定の価値を認め、その教え説くところにしたがって学び、面として広げ、仏教の全体を融和的・肯定的に理解しようとしておられる。一方私の方は、気に入ったポイントだけをつまみ出し、独善的につなぎあわせ、仏教キメラを創り出し、他の仏教理解と戦わせようとしているのかもしれません。私にしてみれば、現代のいわゆる「仏教」の方が巨大なキメラ生物で、そのなかからもとの白象(正しい仏教)のDNAを抽出しようとしているつもりなのですが、、

 谷さんには、広く隔てのない視点で、今後もお目付け役として、私の独善的・短絡的・断定的な暴走傾向をチェックして頂けたらと思います。(勝手に役を押し付けてすみません。)

 今後とも宜しくお願いいたします。

2000、4、10、   曽我逸郎

FTPにあたり、若干コメントを追加させて下さい。(2000、4、12加筆)
(1)虚無主義かどうかという問題に関しては、私は、仏教=無我・縁起・空は、世界と自分にありもしない価値や目的を導入するという無理を強いることなく、世界を喜び、他を慈しみ、自分という現象を肯定する事を教えてくれ、励ましてくれる、少なくとも私の想像し得る限り最もpositiveな思想だと思っています。勿論、無我であり縁起であるということには、生老病死その他の悲しみが含まれているわけですが、それらを包み込んだままそれでも世界を肯定するだけの強靭さをそなえた大きな喜びを教えてくれると思っています。
(2)「我」について、「我というものも仮名にすぎなくて実際には存在しない」という谷さんの要約は、ひょっとすると誤解を受けるかもしれないので、少し言葉を補います。
「我とは、魂とか霊と呼ばれる持続的(半)永久的存在ではけしてないが、しかしまったく端的に何もないのでもなく、感覚器官や脳・神経組織その他の肉体(これも縁起の現象)に縁起し、過去や日々の経験・環境・教育・学習に縁起するところの現象であって、我という現象を時々の色で染めている喜びや悲しみや怒りや執着や慈悲や意欲なども熱く激しく現象する縁起の現象である。」


taka kudouさんから 谷 真一郎さんへの返事

日時 : 2000年5月4日
件名 : 谷さんへ、非我などについて



曽我さん、こんにちは。

バイク事故たいへんでしたね。臨死体験についてはやはり医師から死亡宣告を受けるぐらい死んだ状態にならないと体験できないのでしょうか? とにかく大事にいたらずよかったです。

谷さん、初めまして。

今回、谷さんから曽我さんと私とのやりとりに対して意見をいただいたので考えたことを送ります。

*****谷さん*****
 つまり、非我というのは、特定のこれとこれとを対象として否定し(自我の内容から排除し)、最終的に残ったものを真の自我として認める、というものではなかったと考えます。自己であると考えられてきたものを否定し、その否定の主体であったものもまた否定し、……という無限の連続が、とりもなおさず「無我」を証得する修行だったのではないでしょうか。そして最終的には(あるいは「結果的には」と言うべきでしょうか)、「無我」の境地へと至り得るのです。
**********

非我の瞑想の結果、(最終的な)「無我の境地」なるものに到達するかは私には分かりません。しかし、自分である・自分のものであると執着し苦しみの元になっているものを我に非ずと覚るにつれ、心というものはしだいに解放され浄化され精妙になっていくと考えます。

私は心(あるいは霊・魂というもの)が自分であり、その心が自分をどのように認識しているかが問題であると考えます。

たとえば、自分の肉体を自分であると考えること、さらには家であるとか財産であるとか、会社での肩書であるとか家族、車などなど肉体や明らかに物質的にも自分ではないものを自分であると考え、それらが変化したり失われそうになったりすると苦しむというのが我々凡夫の姿ではないかと思います。

こうした肉体や所有物を自分であると認識している心というものは波立ちやすく不安定で脆く不自由な状態にあります。こうした心の状態から脱出するために非我の教えがあり戒定慧といった修行があるのだと思います。

そして、こうしたものを非我と実感することで次第にそうしたものから心は解放され軽くなり自由になり平安になってゆくのだと思います。それが最高の境地かどうかは別にしても、それが何ものにも動じない自由で平静な境地・涅槃だと思います。当然その涅槃の境地を味わっている自分というものが存在するのですから無我(我は存在しない)ではありません。

まとめると、非我により次第に心は様々なものから解放され自由で平和な境地、すなわち涅槃に到る。しかし、我が無くなるわけではない、ということになります。


*****谷さん*****
taka kudouさんの言われる「意識レベルの七つの段階」というのは、その非我の進行過程を便宜的に分けたものといえるでしょう。他の分け方もあり得ます。たとえば小乗の「四向四果」、大乗の「十地」等々。
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これは仰るとおりです。心霊主義によれば無数の段階があるそうです。それをどのように分類するかについてはいろいろあってかまわないと思います。(混乱したり、分類がいろいろあることが段階があることを否定することにつながらない限りは)


*****谷さん******
ただ、taka kudouさん御自身がそれについて論及されている箇所から推測すると、非常に高度に精錬されたかたちでの自我を認めていらっしゃるのではないかな、と思います。隻言片句を抜き出すのは失礼かとも思いますが、「本当の自己」「最高の境涯」「霊自身が人格的存在であり」等の表現から推察いたします。とすればこれは、原始仏教ではなく(決して貶めて言うわけではなく)ヒンドゥー教の理想とする境地であり、仏教も中期大乗以降はしだいにその立場に近づいていった(代表的には涅槃経)ところのものであると思います。
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「本当の自己」についてはあくまでも相対的なものであると考えています。心霊主義の表現をかりれば、粗雑な状態が仮の自分であり、より精妙な状態の自分が本当の自分ということになります。しかし、その本当の自分と思われる自分もさらに精妙な状態からみれば仮の自分ということになります。

「最高の境涯」については、心霊主義では明確になっていないし、また断定できるものではないと考えています。

「霊自身が人格的存在であり」については、私たちの体は多重構造になっていると考えられており、この世では物質的な体である肉体で自己を表現しているように、死んで肉体から離れたあとは霊的エネルギーでできた体・霊体が自己の表現の媒体になります。その霊体も様々な意識レベルをとることができ、粗雑な意識レベルはより精妙な意識レベルからみれば非我となります。

しかし、その究極の意識レベルついては言及しない。その点でヒンドゥー教と似ているようで違ったものであると考えています。


*****谷さん*****
 曽我さんが説かれる「縁起」は、(「あたりまえ般若経」での蝋燭の喩えのように)自分自身との切実な関係のない、外的な(客観的な)対象に関して言っておられる場合が多いように思われるのです。自然科学の諸成果を縁起説の支持根拠として援用されるのも、そのことと関連しています。たしかに私も、万物は客観的に縁起的存在である、と考えますが、それを認識することが、この私自身と切実な関係を持っている固有の諸対象に対する執着をなくしてくれる、とは思われないのです。
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「自然科学の諸成果を縁起説の支持根拠として援用」について、縁起と量子論の関連については先に送ったメールに書いたのですが、この物質的宇宙もこの物質的宇宙だけでは存在できない。この物質宇宙の原因はこの物質宇宙の他にある。この物質宇宙のなかだけでさまざまな現象が起こっているように見えるのは、それは私たちの感覚器官のせいであることも既に書いたとおりです。空間的にも時間的にも限定された肉体感覚器官で現象を捉える限り、縁起的存在・物質的現象は非我ではなく無我であるように見えます。しかし、それは真の姿ではない。

また谷さんは、万物は客観的に縁起的存在であると認識することでは執着をなくすことはできない。なぜなら、自己言及の問題により自己を客観的に縁起的存在と認識できないから。言い換えれば、他者の無我は論理的にも心理的にも納得できても自己の無我は論理的にも心理的にもすんなり納得できない、ゆえに執着をなくすことはできない、と主張しているように思います。

曽我さんは、自分という存在を世界とともに縁起する現象であると自他の物質的つながりを積極的に肯定しています。であるなら執着が無くなるはずもありません。

とにもかくにも執着をなくすことができないなら、仏教の無我の教えを「我は無い」と解釈することは間違いだということになると思います。それに対して、非我(我に非ず)と解釈することは執着を去ることに直結します。

曽我さんはご自分で漸悟だと仰っておりましたが曽我さんのいうところの「無我」はあきらかに頓悟ではないでしょうか。主客対消滅の体験を経て始めて執着がなくなるとお考えのように思います。しかし、釈尊は非我の教えにおいては徐々に執着がなくなってゆき、それに伴い心が様々なものから自由になり平静になってゆくのだと教えたのだと思います。

スッタニパータ(「ブッダのことば スッタニパータ 中村 元訳 岩波文庫)

1055 メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて汝が気がついてよく知っているものは何であろうと、それに対する喜びと執著と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。
1056 このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行なう修行者は、わがものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、智者となって、この世で苦を捨てるであろう。



*****谷さん*****
 また、曽我さんの立論は、taka kudouさんへの返信の中に見る限りではこのように客観的というか、自己に関する固有の問題性とは距離を置いたものですので、それに対するtaka kudouさんの「虚無主義に陥る」という批判は、あたらないのではないかな、と考える次第です。
**************

曽我さんの立論について、自他の物質的つながりを積極的に肯定する点で「執着」に、我は無いという点で「虚無」にと極端から極端へとを揺れ動くものだと考えます。

たとえば、

***曽我さんから谷さんへの返信より***
(1)虚無主義かどうかという問題に関しては、私は、仏教=無我・縁起・空は、世界と自分にありもしない価値や目的を導入するという無理を強いることなく、世界を喜び、他を慈しみ、自分という現象を肯定する事を教えてくれ、励ましてくれる、少なくとも私の想像し得る限り最もpositiveな思想だと思っています。勿論、無我であり縁起であるということには、生老病死その他の悲しみが含まれているわけですが、それらを包み込んだままそれでも世界を肯定するだけの強靭さをそなえた大きな喜びを教えてくれると思っています。
*****************

このように虚無を指摘されれば縁起が強調され、その結果、自分もそして生老病死その他の悲しみ含めた「あらゆる現象を肯定」することになってしまいます。

既に指摘してきたように曽我さんの論は、釈迦仏教では無常であり苦しみであり、それゆえ我に非ずとされた現象というものを自分や世界であると肯定するものです。
では執着(全肯定)を指摘されればどうなるか、我無し、「すべては意味も目的もないのだ」(虚無主義)と主張することになるのです。

このように曽我さんの無我・縁起・空は「執着」(全肯定)と「虚無」(無意味無目的)という極端の間を揺れ動くものであると考えます。


*****谷さん*****
 taka kudouさんに読んでいただきたいこととしてもうひとつ追加させていただきますと、曽我さんの「主客対消滅」という用語、これは曽我さんの造語です。
 禅や西田哲学の解説で「主客未分化」という用語がよく出てきますが、これだと「主客」以前にその「母体」というか、宇宙大の大我というか、そういうものが想定されてしまうようなニュアンスがあります。そこで、粒子と反粒子が「無の中から」同時に生成し同時に消滅する、というイメージで「主客対消滅」という用語を案出されたと私は理解しています。ですから、taka kudouさんが批判されるような「すべては我である」「すべては我とつながっている」といった悟りの形をむしろ避けるために「主客対消滅」という用語が用いられている、と私は考えます。このあたりの事情については、曽我さんのHPの、99.5.13.の私からのメールに対する曽我さんの返信の中で書かれております。
**************

たしかに、曽我さんは主客未分といった宇宙の大我のイメージを避けようとして主客対消滅という言葉を使用したのは理解できます。しかし、主客未分に代わる慈悲の根拠が必要になり、そのため自分を世界とともに縁起しあう現象であると、世界と我とのつながりを積極的に認めなければならなくなったと思われます。

また、『粒子と反粒子が「無の中から」同時に生成し同時に消滅する』の「無」が問題ですね。これが文字どおり「何も無い」なら、そこからは何物も生成しないはずです。もし何も無い(原因がない)ところから何か(結果)が生成するなら、それは縁起と矛盾します。場の量子論によると「何も無い」(エネルギーが0)状態はありえず、粒子、あるいは宇宙さえも生み出す「真空」?が存在すると考えられています。つまり、粒子の対生成も対消滅も「真空」という主客未分から生まれ、そしてそこへ帰ってゆくのだと考えるほうが「自然」です。

また曽我さんの言う、主客対生成、対消滅、対再生という過程にしても現象としては何も変わっていないわけです。変わったのは認識です。つまりは対生成、対消滅、対再生を認識する主体が存在することになります。

谷さんとの共通点と相異点
共通点:原始仏教の無我は非我という意味である。
相異点:万物は客観的に縁起的存在である(無我・我無し)

相異点について、結局は曽我さんにしても谷さんにしても、万物は物質にすぎず、それは縁起的存在であるゆえに我は無いのだ、という結論になると思います。それに対し私はその物質を存在させる原因が物質以外のものであり、物質は我に非ずと主張するものです。これについては先のメールに書いた通りです。

それでは、また

taka

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