曽我逸郎
こんにちは。水野と申します。30歳の男です。

「あたりまえのことを方便とする般若経」を一読させていただきました。とかく難解な文章になりがちな内容が、とても分かりやすく書かれていて、最後まで一気に読み終えてしまいました。すごくおもしろかったです。最初に出てくる自然描写から、時代設定は現代でなく昔のことなのだろう、と一人合点して読んでいたら、途中で「赤い電車」が登場し、ちょっとびっくりしましたが。

わたしは、聖書にはわずかな知識がありますが、恥ずかしながら、仏教についてはまったくの初心者です。したがって、分かりやすく書かれている本文についても、実はまだちゃんと把握できていません。これから少しずつでも、仏教について学んでみたい、と思います。また、本文もたびたび読み返してみたい、と思っております。

ただ、ひとつ安易な感想を述べさせていただきますと、神の視点から人間を考える(とわたしが思っている)キリスト教的見地からすると、本文の内容は実に、人間から見た人間観だなあ、という気がしました。それ自体が我執だったりして、とさえ愚考してしまいました。わたしはキリスト教信者ではありませんし、現在の皆無に等しい仏教知識でどうのこうの言える立場でもありませんが、両者の発想の違いが、まず最初のインパクトとして、非常に印象に残りました。

低レベル & 勝手な感想で、すみません。これから自分なりに勉強していくうえでの参考にしたい、と思っておりますので、是非、このホームページ作りに引き続きがんばってください。では失礼します。


水野さんへの返事

 ありがとうございます。ちょっと誉め過ぎです。でも、分かりやすく、おもしろくて、仏教を学んでみようかと思ったというコメントには大変勇気づけられました。ありがとうございます。

 時代設定に関しては、けして昔ではありません。多分逆に近未来をイメージして書いていたように思います。
 効率や便利さや豊かさに追い求めることが価値を失い、かわって、自分のあり方を問う事がパラダイムとなった時代。コンピュータや電話や飛行機は勿論あるし、世界各地との様々な交流はさかんなのだけれど、いきすぎた大規模集中大量生産とか生産と消費の分離とかが改善され、人々は自分の生活圏の中で自分で作れるものは自分で作って、その過程や自然の移ろいに楽しみを見出し始めた、、、そんな近未来のイメージです。老子の小国寡民とまではいかなくても、地域ごとにもう少し自給の度合いを高めて、季節ごとの自然の変化・恵みを喜ぶ。あるいはもっと大それた事を言うと、仏教(無我=縁起=空)を問い掛けることによって、時代の価値観をそんな方向に向けられたら、という気持ちがあります。

 もう一点、「曽我の仏教解釈(無我=縁起=空)は、人間から見た人間観であり、つまりそのまま我執である、という可能性はないか?」という問題提起を頂きました。大変新鮮です。そんなふうには考えてもみなかったからです。正直なところ意表を突かれてどこから考えればいいのかも良く分かりません。

 とりあえず前半は、おっしゃるとおりだと思います。釈尊は超人的にすごい方ですが、それでも人間ですし、人間として試行錯誤されて、ついに明晰な世界観にたどり着かれた。さらにそれを人間に到達可能なものとして教えて下さった。その世界観は対象化された外界の世界ばかりではなく、自分をも含んでいるところが重要であり、その世界観こそ無我=縁起であり、無我=縁起によって執着を吹き消すことが救済である、というのが私の仏教理解です。

 意表を突かれたのは、「人間から見た人間観であること」=「我執であること」?、という部分です。

 以前、谷さんという方から、「無明とは、フロイトのいう無意識のごとく、自分でも目を背けたくなるような不気味なものが、もわもわと湧き上ってくる内なる深淵である」という意見を頂き(意見交換のページ、99/8/10)、自分の仏教理解が宗教的深みに欠けると感じ入ったことがあります。わたしの底の浅い仏教解釈は、私の無明の底にうごめく我執が一見行儀のよい衣をまとって上ってきたものでしょうか?
現時点ではなんとも判断がつきかねますが、そういう問題意識で自分を観察し続けることは必要だと思います。当面判断を保留させて下さい。

 最後に、キリスト教について触れておられるので、わたしのキリスト教についての見方も簡単に述べておきます。といってもキリスト教を学んだわけではありませんので、これまで様々な機会に断片的に見聞きしてきたことから出来上がった印象といったものに過ぎません。水野さんは「キリスト教信者ではない」と書いておられますが、もしキリスト教にシンパシィを感じておられたら、どうか怒らないで下さい。けしてけんかを売っているわけでも挑発しているわけでもありません。「すべては縁起による無我なる現象であり、変化し続け、いつか終わる」と考える私が、絶対なる永遠の神という概念と相容れられないのは御想像頂けると思います。
 「神が人間を作ったのではなく、人間が神を作った」といったのは、フォイエルバッハでしたっけ、確かめる資料が手元にないので違っているかもしれませんが、私もそう思っています。そして、何故人間は神を作ったのかというと、永遠にして絶対のものを欲したからだと思います。変化を恐れ、永遠に変わらない価値にしがみつきたかったから、神を創造した。永遠にして絶対なる神は、人間の執着の産物であり、弱さの産物である。キリスト教の神だけでなく、すべて超越的永遠の価値を説く思想は、すべてこの意味で人間の執着の産物であり、弱さの産物ではないでしょうか?

 如何お考えになりますか? 是非またご意見をお聞かせ下さい。

2000、3、24、    曽我逸郎

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