曽我逸郎
 遅れましたが、あけましておめでとうございます。
 昨年以来続けていた世親の『唯識三十論』の読解、なんとか形になりましたので、お送りします。
 そこに述べられている事に対する批判は控えて、とにかく今の私に可能な限りの深さで読み込んでゆく、ということに心がけました。私としては、これを土台にして、唯識をどのように取り込んでゆくか、とりわけ、その論理に「外部性の契機」(換言すれば「他者との出会い」)が欠如していることに対してどういう態度を採るか、を考えてゆくつもりです。
 かなり長いものになってしまいました。お暇な時にお読み下さって、御意見いただければ幸いです。 ・・・一部略・・・

草々

***

 唯識三十論(世親造・安慧釈) 要約・解釈

 凡例:1〜30は詩頌の番号である。詩頌の各節は内容上の段落とは一致しない場合がある。詩頌の間は一行空け、同一詩頌の中でも内容が切り替わる所は一行空けた。
 仏教及び唯識思想特有の述語はできるだけ使わないようにして、説明的な現代語に置き換えた。現代語の後に( )で漢訳の術語を入れた箇所もある。
 唯識以前からあった思想がそのまま述べられている部分は《 》で囲んだ。
 全体として、要約というより、谷の立場からの解釈であり、原文にない内容をかなり補ってある。唯識以前の仏教思想から補った部分は地の分にそのまま入れ、仏教思想以外から補った部分(あるいは谷の私見)は【 】に入れた。
 内容の理解がおぼつかない部分は、その両端に……を入れた。

1.自我を措定するという誤り(煩悩障)を除き、次に、認識対象の存在を措定するという誤り(所知障)を除くことが本論の目的である。
 自我も認識対象も、両方とも仮設されたものである。その仮設の根拠として、以下に述べるような、意識の世界の内部での諸関係や変化(転変)が存在する。
 《普通の物体は外的な力が加わらない限りは変化せず継続して存在するが、意識というものは、外的な力が加わらなくとも変化して継続してゆく。このことを説明するためには、意識の源泉(アラヤ識)を考え、ある意識内容をもたらす潜在力(習気または種子)がそこに蓄えられており、ある時それが顕在化して新たな意識内容をもたらすのだ、と考えなければならない。(「潜在力」は唯識以前から経量部にあった説である。)》
 そこで、自我や認識対象が仮設されるプロセスは以下のようである。意識の源泉である無意識(アラヤ識)の中に、あるものを仮設する潜在力が蓄えられ、ある時、それらは仮設された認識対象として意識の中に顕現する。その顕現したものに対して言語名称が割り当てられた結果、それは個体の外側に客観的に存在し、不変の本質を持ったものであるかのように固定化して捉えられ、執着されるに至るのである。
 従って、自我も認識対象も存在しないのであるが、それらが存在するかのように仮設している主体(あるいは仮設ということの行われる場)としての「意識」というものは、存在すると考えなければならない。

 本人の過去世における意識経験(A因)は、意識の源泉である無意識(アラヤ識)の中に潜在力(A果)となって残り、その力(B因)が本人の現世での意識経験(B果)を生み出す。意識経験の場である通常の意識(表識)とアラヤ識との間には、このように互いに因となり果となる相互関係が存在する。
 たとえば前世において悪事を働いた者が、その結果として地獄に生まれる。地獄が実在するわけではなく、意識の源泉である無意識の側から、地獄に関する光景や痛みなどの意識経験がもたらされるのである。《この場合、前世での意識経験は倫理的善悪の値(この例の場合は悪)を持つが、その結果として与えられるものは現世での境遇(この場合は地獄)のみであり、その境遇の中で善悪いずれに生きるかについては決定されていない。善悪の選択ははあくまで本人の意志によるのである。(これは有部・経量部ともに採っていた説である。)》
 そのこととは別に、ある意識経験は一種の習い性として、(その生涯の中で)同種の意識経験をくりかえすことの原因ともなる。
 従って、まとめて言えばこういうことになる。ある意識経験は、その生涯の中で同種の意識経験をくりかえすことと、その意識経験の善悪に対応して来世の境遇が決定されることとの、二つのことの原因となる。いずれの場合も、その意識経験によって意識の源泉である無意識(アラヤ識)の中に作られる潜在力(習気)が、原因と結果との間に介在している。

2.意識には三つの層がある。以下順次に説明する。
 最も深層にある、意識の源泉である無意識をアラヤ識(別名異熟識)と呼ぶ。上述の如く、過去における意識経験によって形成された潜在力の存する場所である。

3.アラヤ識は、その個体の意識経験を、その個体のものとして統合する働きを持つ。【アラヤ識はその個体の「過去」の一切を含んでおり、その都度のノエシス的意識経験を「自分のもの」として受け止めている。厳密に言えばこれはアラヤ識が主体的に働いているわけではなく、個々の意識経験が、自らの帰属先をそこに見いだしている、ということであるのかもしれない。いずれにせよ、個々の意識経験に随伴するノエシス的自己感覚と、既決の自己の集積として無意識下に存在する主語的自己とが相補的に働いて、安定した自我が成立していると考えられる。】
 知覚と思考力(あわせて表識)の認識対象とは別に、背後にあるアラヤ識の認識対象というものを考えることができる。アラヤ識の認識対象は、知覚と思考力の対象となる個々の対象存在の背景を成すところの「場」あるいは〈世界〉(器世間)【後期フッサールの言う「生きられる世界」】である。
 ……意識は一般に、認識対象とは別に、それを彩る心理的諸要素(心所)を伴うが、アラヤ識も同様である。その代表的なものとして、〈世界〉全体の見せる相貌の把握【ハイデガーの言う「気分」】がある。……

4.……アラヤ識は、特定の感情を伴うことはない。【〈世界〉内の特定の対象に対して抱かれるものが「感情」である。アラヤ識は〈世界〉全体ないしはその背景を認識対象とするから、感情という面から言えば中立の存在である。】……

 《知覚及び思考力と同じく、アラヤ識も各瞬間に消滅しつつ、次の瞬間に再び生じて継続してゆく(刹那滅)。》

5.完成者(阿羅漢)の位に達した時、アラヤ識の中にあって意識経験へと熟してゆく潜在力は消滅し、従ってアラヤ識自体も滅する。

 さて、意識の二番目の層は、自我意識(末那識)、すなわちノエマ的自己を設定する意識である。この意識が対象とするのはアラヤ識それ自体である。【つまり、その都度の意識経験を「わがもの」として受け止めている「過去の総体」をことさらに対象化し、それを固定的な「自我」という実体として捉える意識である。】

6.自我意識には、常に、自己を自我として実体化し、自己を一定のありかたに固定化し、その価値を損なわれないよう防衛してゆこうとする心的傾向(心所)が伴っている。その心的傾向は、それ自体が倫理的な悪をもたらすとは必ずしも言えないが、(唯一の実在である)意識というものの縁起的ありかたを正しく捉えない結果として、苦をもたらすもの(煩悩)である。

7.しかし、自我意識に伴う実体化・固定化・自我防衛の心的機制の強さや様態は、修行の段階によってさまざまである。

 さて、この自我意識は、修行によって完成者(阿羅漢)の位を得た場合、日常的に消滅した状態となる。
 また、完成者以外の者も、深い瞑想に入っている間は自我意識が消滅する。あるいは、世間から遠ざかって修行をしている期間(山中修行等)は自我意識が消滅している。【すなわち、時間の停止する主客対消滅の状態においては、自我意識は消滅している。】

8.意識の三番目の層は、知覚及び思考力(あわせて表識)である。

9・10.《知覚及び思考力には、意識内容を彩る心理的諸要素(心所)が随伴する。》
 ……それらの中には、概念化・意志等の、(アラヤ識・末那識も含めた)意識一般に必ず随伴するものがある。……

11.また、希望・確信・想起等の、知覚及び思考力のみに固有に随伴するものがある。

12〜14.また、悟りを妨げるさまざまの感情や心的傾向(煩悩)が随伴する場合がある一方で、それらと反対に働いて(対治)、知覚及び思考力を悟りの方に向ける働きが随伴する場合もある。たとえば、貪り・怒り・真理への昏さ(貧・瞋・癡)が随伴する場合もあれば、それらを滅してゆくような心的傾向が随伴する場合もある。

15.前述の如く、アラヤ識の中にある潜在力によって知覚及び思考力が生起するのであるが、それらは、同一の瞬間において複数のもの(たとえば視覚・聴覚・思考力)が並行して働くことがありうる。このことは自らの意識経験を反省すれば自明のことであるが、各々の瞬間にはひとつの知覚(たとえば視覚)のみが働いている、という学説(経量部の説)もあるので、ここで反論しておく。

16.思考力は、視覚・聴覚等が働いていない時にも常に働いているが、睡眠中や深い瞑想中には一時的に働かなくなり、それらの状態を抜けると再び働くようになる。このことは、思考力の背後に、如何なる時も断絶しないアラヤ識の流れが存在していることを証明している。断絶していた後で再び働くようになった思考力は、アラヤ識から生じて来るのである。

17.これまで述べてきた三層の識のありかたから改めて確認されるように、認識対象としての事物は存在せず、それらはすべて意識の側から仮設されたものにすぎない。また、仮設の主体(あるいは仮設の場)としての意識そのものは存在する。(第1節の確認)

18.知覚及び思考力と、自我意識、この二つのそれぞれと、アラヤ識とが、互いに因となり果となりあって、意識内容が展開する。(第1節の確認)
 すでに述べた如く万物は意識内容としてのみ存在するが、意識内容は意識の各層の間のこのような相互作用によって形成されるから、(ヒンドゥー哲学が主張するような)万物がそこから流出する根源や、万物を創造する神、といったものは認められない。

19.人間の死と生まれ替わり(輪廻)は、以下のように説明される。
 前世での意識経験によってアラヤ識に生じた潜在力が、知覚及び思考力、及び自我意識(と、それらに随伴する心理的諸要素)として顕現しきってしまうと、その個体には死が訪れる。アラヤ識はそのような潜在力の集合体(あるいは貯蔵所)であるから、アラヤ識自体もいったん消滅する。
 しかし、(死によって終了した)この生涯における意識経験が、新たな潜在力を生み出しており、それらの集合体(あるいは貯蔵所)として新たなアラヤ識が出発する。これが生まれ替わり(輪廻)である。
 この時、二種類の潜在力が協同して、新たなアラヤ識を成立させる。二種類とは、第一には、この生涯における意識経験から生じた潜在力(諸業習気)であり、これは善悪の値を持つ。第二には、(それらの意識経験の背景に基本的に存在するものとして)、認識対象と、それを認識している主体がともども存在する、という意識(煩悩)が生み出した潜在力(二種習気)であり、これは善悪の値を持たない。逆に言えば、この二種類の潜在力が揃わない場合には生まれ変わり(輪廻)は起きない。

 【二種習気に関連して、認識対象と認識主体がともども存在する、という時の「認識主体」とは、個々の意識経験に随伴するノエシス的自己感覚のことである、と考えられる。このノエシス的自己感覚は、認識対象と相補的なものである。(フッサールによれば、対象像と自己とが意識という現象の「両極」を成している。)そこで、認識対象が実在するものと了解されているならば、認識主体に対しても、それが実在するものだという意識が避け難く生じてくるであろうと考えられる。
 ただし、その意識が生じた段階では、もはや認識主体は客体化されて認識対象(すなわちノエマ的自己)となってしまっている。その場合、自己に関する「過去」の総体がノエマ的自己としての像を結ぶのであって、もはや、その都度の認識対象との相補的関係(フッサールの言う「両極」)からは独立した実体となっている。これが前述の自我意識(末那識)である。
 従って、ここで二種習気に関連して言われている「認識主体が存在するという意識」は、未だ認識対象との相補性のうちにとどまっているノエシス的存在でありながら、無明の働きによってノエマ化されてゆく初発の段階にある「自己」を指している、と考えたい。】

 意識の源泉としての無意識(アラヤ識)が存在し、それが人間の生まれ変わりの主体(輪廻の当体)である、という理論についての異議に答える。
 《前世での善悪の行為の結果(業)を背負いつつ生まれ替わってゆく人間のありかたは、十二の段階(十二因縁)で説明されてきた。その最初のものが、前世での善悪の行為の元となった根元的な無知(無明)であり、二番目のものが、前世での善悪の行為及びそれによって生じた潜在力(行)である。三番目は現世での意識の初発段階(識)である。(これは十二因縁に関するアビダルマの「三世両重」の解釈である。十二因縁に関しては他の解釈も存在するが、世親の註釈者としての安慧は、ここではアビダルマの解釈に従っている。)》
 二番目と三番目との間に個体の生まれ替わりがあるわけだが、ここで両者は、個体としては別の境遇に生まれ替わるということで断絶があり、しかし、誰が生まれ替わって誰になったという形での連続性がある。ここで、三番目の「識」を上述の特徴を持つアラヤ識であると考えることで、この断絶と連続性の両方が説明できる。また、生まれ替わりの境界を超えて存在し続けるアートマンのような実体を想定せずに済むのである。

 さて、前述のように、人が死んで生まれ替わる時には、生前の彼の善悪の行為によって生じた潜在力と、自我と認識対象を措定する誤った意識(煩悩)によって生じた潜在力との両者が協働している。
 修行者は、瞑想等によって、自我と認識対象の存在を否定する意識を養い、それによって、自我と認識対象を措定する誤った意識によって生じていた潜在力を少しずつ滅してゆく(対治)。それを完全に滅し尽した場合、善悪の行為によって生じた潜在力はあっても、それと協働するものの方が欠けていることになるから、彼はもはや死んでも生まれ替わらない(涅槃)。
 彼がその修行を達成してしまってからも、彼の前世での行為によって生じた潜在力が意識内容として顕現しきるまでは、彼には死は訪れない。この期間は、彼は身体を保ったままで意識は寂滅の状態にある(有余涅槃)といえる。

20.前述のように万物は意識内容としてのみ存在し、万物の動きや関係性は意識の動きや意識内部の関係性としてのみ存在する。その意識は、以下のような三つのステージにおいて存在する。
 まず第一に、【当該の意識自体によって】「このようである」と意識されている意識内容(遍仮所執性)である。意識自身によっては、認識対象も自我もともに、(仮設ではなく)固定したかたちで実在するものとして意識され、執着されている。これは正誤という観点から見れば誤った意識内容であるが、そのような意識内容を持つものとして、意識それ自体は確かに存在する。
 ここで確認すべきことは、唯識の立場では、外界の事物というものは端的に「存在しない」のだということである。他の仏教諸派のように、(固定した実体ではなく)さまざまな条件(縁)に支えられた無常な状態で外界に存在する、というようには考えない。

21.次に、固定した実体を持たず、意識内部の関係性に由来する諸条件に支えられて生滅変化(縁起)し、自我と認識対象とを仮設するものとしての意識(依他起性)がある。【これは、当該の意識自体を客観的に見た姿である。】その具体的なありかたについては、すでに詳しく述べた。
 最後のステージについて説明する。
 【我々は、ある人物の意識を外部から観察する場合や、人間一般の意識のありかたを学ぶ場合には、その意識が誤った意識内容に執着したものであることを容易に理解できる。さらに、彼のアラヤ識・ノエマ的自己・知覚及び思考力の三者の関係を辿ることができれば、彼が何故そのように誤っているかということ(識の縁起)までもがわかる。このようなかたちで、意識の客観的な姿(依他起性)を知ることは難しくない。
 しかし、その観察者が正しく観察するのは、観察者自身の切実な現実とは別の他人事であるから執着なく正しく観察できるということか、でなければ、単に一般論として学んで承認するということにすぎない。観察者自身の切実な現実をテーマとした意識内容では、認識対象や自我への誤った執着が続いている。】
 そこで、【修行の結果として、当該の意識自体によって自らの姿が客観的に捉えられており、従って】認識対象も自我もともに存在しない、と悟られている状態が、第三番目の完成された意識のステージ(円成実性)であるといわれる。

22.この意識の第三ステージと第二ステージとは、異なるものであるとしても、単純に同一であるとしても、どちらの場合も背理に陥る。
 すなわち、第三ステージは単なる一見解ではなく、ものごとの本来の姿(如性)である。従って、第二ステージにおいて生滅変化している意識は常に(固定された形で実在する自我や認識対象への執着とは無縁であるという)第三ステージの性質を帯びていることになる。この観点から言えば、両ステージは別物ではない。
 しかし、仏教の修行者が達成せんとする事は、第二ステージすなわち意識内部の関係性という場の中で、第一ステージの(仮設物への)執着を離れ、第三ステージの真理(如性)に目覚めることである。両ステージを単純に同一としてしまったのでは、修行の意味が見失われる。【第二ステージの客観的な真実性が、当該の意識自体によって体得された状態をもって第三ステージとせねばならないのである。】

 さて、修行者によって第三ステージの真理が悟られるプロセスは以下のようである。
 まず、第一ステージの仮設諸存在が全く無であって存在しない、ということへの目覚め(無分別出世間智)がある。【これは仮設された自我と認識対象とがともに消滅して意識が直接に世界と触れあっている状態であり、時間は停止している。】
 その次の瞬間から、【新たに継続してゆく日常的時間の意識として、】仮設された自我と認識対象は、それが仮設されたものであるという自覚に常に随伴されたものとして意識の中に復活する。つまり、意識内部の関係性によって生滅変化し、自我と認識対象を仮設してゆくという、【意識の客観的なありかたが、当該の意識自体によって】体得された状態(後得清浄世間智)が得られるのである。

23.……前述のように、すべての実在は意識とその関係性に尽きるものであるが、それは三つのステージにわたって存在することが明らかとなった。では、各ステージにおいて、あるものが「実在する」とすれば、どのように「実在する」のであるか。
 それは、各ステージにおいて順次に、(1)あたかも固有な本質を持つ実体であるかのように、(2)【実在性に関して判断停止された意識現象として】ありのままに、(3)存在一般が持つ固有の性質(如性)として、それぞれ「実在する」のである。
 また、仏教ではあらゆるものに関して、それは「実在しない」と教えるが、その「実在しない」という規定は、各ステージにおいてはどのように適用されるのか。
 それは、第一と第二のステージにおいては順次に、(1)そのような固有な本質を持つ実体は存在しない、(2)自我・認識対象ともども意識現象にすぎない(唯識)、という意味で「実在しない」と言われるのである。また、第三のステージにおいては、そこで明らかとなっているところの、存在一般が持つ固有の性質として、「実在しない」という性質が示されているのである。……

24.……また、仏教ではあらゆるものに関して、それが「固有の本質(自性)を持つものではない」、と教えるが、その「固有の本質を持つものではない」という規定は、各ステージにおいてはどのように適用されるのか。
 まず第一ステージにおいては、それは仮設された存在であって、【当該意識によって】言語名称があてはめられ、固有の本質を持つものであるかのように誤認されているにすぎない、という形で適用される。
 第二ステージにおいては、それは意識内部の関係性に由来する諸条件に支えられて生滅変化(縁起)するものであって、それ自身の固有の本質に基づいて生成するものではない、という形で適用される。……

25.第三ステージにおいては、「諸存在には固有の本質がない」という真理そのものが、明るみに出されたかたちで存在している。この真理自体が、万物の固有の本質(自性)である。
 「諸存在には固有の本質がない」という真理は、【修行が完成した段階で初めて意識内容として与えられる】最上のものであると同時に、普遍的・客観的なもの(如性)でもあるから、修行以前の段階の意識に関しても、修行上の各段階の意識に関しても、真理として等しく適用されるものである。【しかし、それは当該意識によって十分に自覚されてはいないのである。】

 ……(1節で述べたところの)万物は意識内容としてのみ存在するという真理(唯識)もまた、存在一般が持つ固有の性質(如性)の一側面であった、ということになる。……

26.万物は意識内容としてのみ存在する、という真理(如性)が真に獲得された時には、意識内容はすべて捨象された状態(無取得)となる。
 意識内部の関係性で言うならば、(19節で述べたように)瞑想等によって自我と認識対象の存在を否定する意識が養われ、それによって、自我と認識対象を措定する誤った意識によって生じていた潜在力が滅し尽されるまでは、このような意識内容の捨象は実現しない。

27.厳密に言うならば、万物は意識内容としてのみ存在する、という真理(如性)それ自体が認識対象として据えられている限り、自我及び認識対象という図式は残ることになり、未だその真理が真に獲得された状態にあるとは言えない。これは、言葉で語られた教えの内容に執着し、言葉どおりの「真理」が客体的に存在すると考えられている状態である。
 同様の事は、特定のイメージ(たとえば骸骨)を観念的に対象化することで無常を心に刻む、という一般的な瞑想法に対しても言えるのであって、それは悟りに資するものではあっても、悟りそのものの状態とは言えないのである。

28.従って、(「真理」であれ何であれ)対象化されるところの一切の意識内容が無くなった状態こそが、万物は意識内容としてのみ存在する、という真理(如性)が真に獲得された状態であると言える。この時には、認識対象のみならず自我も消滅している。

29.意識というものが意識内部の関係性に由来する諸条件に支えられて生滅変化(縁起)するものである、という事実は動かない。その関係性という場の中で、自我と認識対象を仮設し執着する状態から出発して、自我と認識対象を捨象した状態に至るまでの変化がある。これは、意識の源泉である無意識(アラヤ識)における変化であると言ってもよい。この変化に伴って、意識の源泉である無意識は、その個体が迷妄の状態にあることの根拠から、悟りの状態にあることの根拠へと転換(転依)する。

30.《ところで、仏教の修行の成果には二つのありかたがある。
 一つは、自我の非存在(人無我)のみを悟った状態(煩悩障の滅)である。この場合、認識対象に関しては、それが生滅変化するものであることは認めた上で、生滅変化するマスとしての対象を構成するところのアトム的諸要素(ダルマ)は、未だ実在するとされている。実在するアトム的諸要素の集合離散によって、マスとしての認識対象の生滅変化を説明するわけである。これは、仏の教えを聴聞して悟った者(声聞)の悟りであり、これはこれで、ひとつの悟りとして認められる。
 もう一つは、自我の存在を認めないだけでなく、認識対象に関しても、アトム的諸要素も含めてすべての実在性を否定する(法無我)という悟りの状態(所知障の滅)である。これは、自分の悟りを求めるだけではなく利他行に打ち込み、しかもその成果を計らない、という生き方に目覚めた者(菩薩)の悟りである。後者の方が完全な悟りであると言える。》
 自我と認識対象の両者の非存在を悟った時、世界そのものの相貌が根底から変化する。彼の悟りは彼という個体の枠を超えて、仏陀の悟り(法身)として自覚される。その世界の中で彼は、(19節の末尾で述べたように)悟りを得てからも現実の身体を保って、利他行を続ける。


谷 真一郎さんへの返事(1)

 御無沙汰してしまっております。

 実はホームページの更新情報のところにも書いたのですが、バイクで、といってもスクーターですが、肩の骨を折って入院しておりました。

 ずうっと谷さんに頂いたメールにお返事をしなければと思いつつ、「自分の肉体も自我意識も、外界の事物と対等に縁起され縁起させる無我なる現象だ」と考える私としては、唯識は識という概念に捕らわれ過ぎだと思われ、なかなか素直に唯識に学ぶことができず、なにか一冊唯識の本を読もうとしたものの、買った本は、袴谷憲昭「唯識の解釈学・解深密経を読む」(春秋社)で、ますます唯識への偏見を助長してしまった次第です。

 どんなお返事を書こうか思いあぐねているうちに事故に遭い、ますます時間ばかりがたち、このままではますます書きにくくなりそうなので、頂いたメールに直接関係するわけではないので申し訳ありませんが、このところ考えているテーマを書きます。
 一度お話ししたかもしれません。認知科学や脳研究です。心霊主義の立場から批判を頂いているtaka kudouさんから「唯物論者の馬脚を現したな」と言われそうですが、実際そうなのです。taka kudouさんから「唯物論的」と言われた時はぴんとこなかったのですが、唯物論的という意味は、(マルクスでもレーニンでもなく、)この分野では、意欲や感情や意識といったことを、心や魂といったものを持ち込まずに、脳を中心とする肉体の化学的電気的もしくは物理的な反応・現象の体系として解明しよう、解明できるとする立場を指すらしいのです。だとすれば、まさしく私は唯物論的(自分としては「唯[現象]論的」といって欲しいところですが、、)であり、taka kudouさんは、私の正体を見抜いておられたことになります。
 自分の肉体や外界の物・存在が、無我なる縁起の現象であること(=法無我)を明晰に説明する方便が、相対論・量子論などの物理学であるなら、自己意識・我執が本来無我にして実体がない現象であるにもかかわらず、如何に縁起し現象し、持続性を獲得し、さらには永続性のある実体であるかのごとくに自分をいつわるに至るのか、その過程を解明し、説明してくれる方便は、認知科学や脳科学やさまざまな動物における意識の進化の研究ではないか、と考えています。つまりそれらの研究は、人無我を説く方便になりうるのではにかと考えています。
 まとめるにはまだ材料不足でもう2〜3冊読んだ上で、都合のいいところを恣意的に継ぎはぎしてやろうと思っています。うまく行けば、ノエマ・ノエシスや「いつも化」も取り込んだものにできるかもしれません。
 まとめられた暁には、またご批評ご批判下さいますようお願いします。

 次のメールでは、谷さんの唯識についてのご意見を私なりにうけとめた感想を送らせて頂きます。

2000年3月18日  曽我逸郎

(2000/3/29 加筆)
 私の<法無我、人無我>は伝統的な仏教用語としては正しい使い方ではない。正しくは、谷さんの上記30番にあるように、自我を五蘊(色受想行識)の法に分析し、自我はそれらが仮に集まっただけで固有の本質をもたないと知るのが人無我である。有部は人無我を認めたが、要素である法には自性があるとした(我空法有)。対して大乗中観は、法も無我であると主張した。したがって大乗では伝統的には、まず人無我を悟って、その後に法無我にいたるとされる。
 一方、私がいつもいいかげんに法無我といってしまう場合の法は、自分の肉体も含めた存在一般という意味に過ぎない。存在が自性を持たず変化しいつか壊れる事は、合理的に説明できるし、理解もできると思う。しかし、対象として立てられた自己ではない丸のままの自己が無我であると納得することは並大抵のことではない。それゆえ、私には、法無我の理解はたやすく、人無我を知ることは極めて困難だと思われる。
 私の法無我・人無我は、伝統的人無我・法無我の一段下のレベルでうろうろしているだけなのだろうか? 自分の無我・縁起・空を知ることこそ肝要であって、それこそが智慧の完成(般若波羅密)であると思うのだが、どうだろう?


谷 真一郎さんへの返事(2)

 頂いた唯識三十論の要約・解釈をもう一度読みました。虚心に読もうとするのですが、どうしても素直に唯識の立場から読むことができません。せっかく谷さんに要約・解釈してもらったのだからと思っても、唯識への違和感ばかりが先に立ってしまいます。どうしてかくも拒絶反応が強いのか、ひょっとして私は唯識と前世でなにかあったのでしょうか?(笑い)

 違和感は違和感のまま書きます。御許し下さい。

 中観と唯識の違いは、谷さんがいつかおっしゃっていたとおり、修道論の有無の違いだと思います。中観が、無我だ、縁起だ、空だとひたすら真理だけを語ろうとするのに対して、唯識は、凡夫とはどういう事であるのか、いかにして凡夫が悟りへ向かうことができるのかを問題にしている。中観が無時間的な真理を語るのに対して、唯識は執着から解脱への変化・過程にフォーカスしている。

 一個所私の感じ方と違っていてあれっと思ったのは《普通の物体は外的な力が加わらない限りは変化せず継続して存在するが、意識というものは、外的な力が加わらなくとも変化して継続してゆく。》という部分です。
 私としては、外界の「もの」が時間の中で変化していくのは自明なことなのですが、自我の方は、感情や気分の変化もあり表面的には不安定なように見えながら、性格とか執着とかはなかなかに根深く、いくら反省し努力しても、少しして振り替えるとやっぱり元の木阿弥、ほとんどなにも変えることができなかったというのが実感です。 勿論思いがけない経験で発心したり改心したり価値観がすっかり変わるということはあるのでしょうが、自分の努力ではなかなか変えられない。
 ですから、阿頼耶識という概念は、なぜ自我がこうも安定的なのか、執着が何故根深く抜き難いのか、そのしくみを説明するものだと考えておりました。
 中観が、「執着の対象も、執着するあなたも空だよ」と説いても、それだけで簡単に「なるほど納得、執着がなくなりました」とはなかなかならない。それに対して、唯識は、我々が何故執着するのか、何故執着が抜き難いのかを説明しようとしているのだろうと思います。

 ところが、『自我も認識対象も存在しないのであるが、・・・・「意識」というものは、存在する』という唯識の主張がどうも私には納得できないのです。自我を識に置き換えただけではないのでしょうか?  自我を措定するという誤り(煩悩障)がこれで除かれ得たのでしょうか? 『阿頼耶識は刹那滅しながら継続していく』、『如何なる時も断絶しないアラヤ識の流れ』という唯識の主張も、無我・縁起・空という仏教の正統な思想を知っており意識しておりながら、それに徹底できずに、否定された筈の永続的な要素を再び持ち込んでしまった結果ではないでしょうか? 阿頼耶識などという概念を持ち出さずに、はじめから「自我は刹那滅しながら継続する」と言っていれば、唯識の理論はもっとすっきりしたものになっていただろうと思います。勿論それは、無我を説く仏教の枠組みの中ではできない相談なのですが。

 民も山河もない無の王国で只一人「すべて我の思うがままだ」と叫んでいる王様。あるいは、丸いガラス容器の中で生暖かい生理食塩水に浸りながら夢を見ている脳。「唯識」という言葉から、どうしてもそんな異様な独我論的傾向を感じてしまうのです。
 我々の意識は、外界の対象を創り出しているというより、外界からの縁によって起こされてきたと思います。まさに谷さんがメールのはじめに書いておられる問題意識、「唯識における出会いの欠如」のとおり、私も唯識のこの点に違和感を覚えます。

 読み返してみると、思った以上に唯識を悪し様に書いてしまいました。どうしてでしょうか? 書いていくうちにどんどんそっちへ流れていきます。でも、唯識のお陰(谷さんの要約・解釈のお陰)で中観に欠けている部分が分かりました。
 唯識とは別の形で中観の不足部分を補う理論、唯識のように永続的傾向や独我論的傾向に傾くことなく、無我・縁起・空という仏教的真理に抵触することなく、凡夫が解脱に向かう過程を語ることのできる理論、修行している凡夫と修行の結果の如来が変化しても同じ個人であると認めることのできる理論、さらには凡夫はなぜ執着するのか教えてくれる理論が必要なのだと思います。

 唯識をきちんと学んだこともないくせに読みかじりの印象だけでずいぶんなことを書きました。あきれておられるのではないかと思います。遠からず目が覚めて反省することになるかもしれません。
 しばらくは御寛恕頂いて、変わらぬお付き合いを頂きますようお願いします。

谷 真一郎 様

2000、4、4、   曽我逸郎

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