曽我逸郎 様
       from谷 真一郎
 久しぶりにメールさせていただきます。
 最近やや仕事が忙しかったので読書から遠ざかっており、曽我さんのメールやHPの<いつも化>の論文も読んだままで咀嚼検討をなおざりにしておりました。今日、もういちど熟読させていただき、いくつか感想を申し上げます。(【 】の中が曽我さんからの引用です。)

【子供は成長の過程で「主客対生成」によって世界と自我を持つにいたり、執着に捕われ、凡夫として苦を生み出し続けるが、正しく努力することのできた幸運な人は「主客対消滅」の宗教的体験によって自己の無我・縁起を知り、さらに「主客対再生」で日常世界にもどり、今度は執着に捕らわれない生を生きることができる。簡略化すればこれが仏教徒の宗教的人生のモデルであると思う。】
 曽我さんのこの文章には、私は全面的に賛同いたします。エラソウに言えば、曽我さんのこれまでの読書と思索と、それを御自分の人生に現実化させていきたい、という思いが、この過不足ない文章の中に凝結している、と感じます。細かいてんではいろいろな議論があるにせよ、基本的には、釈尊御自身や初期の阿羅漢たちも、このような「宗教的人生」を達成した方々であったと考えます。
 逆に言えば、執着に捕らわれた状態を「煩悩即菩提」などといって無反省に正当化して、雛鳥が口をあけて待つように仏の「救い」を期待する、というのは(何らかの宗教意識ではあるにせよ)釈尊の悟りとは別のものであろう、ということですね。
 また一方では、悟った後の人生というのは(カルトの信奉者が擬態するような)「行きっぱなし」状態ではないのであって、日常の喜怒哀楽や常識をを人々と共有する(共有できる)人生なのだ、ということですね。

 さて、曽我さんの<いつも化>についてです。
 私の手元にある本からの引用です。
「従来、分裂病の基本障碍として思考障害を挙げるのが一般的だったのですが、最近では分裂病者の知覚特性の実験心理学的解析から、むしろ思考作用を成立させているより基本的な機能である注意・知覚・認知あるいはその前提である情報処理機能のあるプロセスに障碍があるのではないかという考え方が優勢になってきています。……(中略)……分裂病に狭義の感覚障害が認められないことははっきりしていますから、もっと高位の問題と考えられ、辺縁系の知覚情報処理の調整機能の問題がひとつの可能性として浮かび上がってきます。」(『有斐閣選書 分裂病』渡辺修三氏執筆部分p87)
 分裂病は脳内の認知システムに関係した病である、と推定されているわけで、曽我さんの問題意識とも合致いたします。そして、中井久夫氏の紹介する「ついに実在に触れた」「世界がいっせいにしかも一つのものも多くの言葉で叫び出した」といった分裂病急性期の「妄想」は、木村敏氏も書かれるように、仏教における「悟り」の瞬間の体験と類似しているわけですね。これらのことから、仏教の「迷い」「悟り」に対応するものが、脳内での認知あるいは情報処理のシステムの中に発見できるのではないか、と考えられるわけです。曽我さんの書かれたこと、だいたいこのように理解してよろしいかと思います。
 私は脳のことについてはほとんど無知で、大脳・小脳の機能も辺縁系もわかりません。いずれ勉強せねばならぬと思いますが……。

 曽我さんの問題意識に基本的には賛成しつつ、いくつか気のついたことを書かせていただきます。

 まず、器質的には脳のどの部分に依拠するにせよ、【一定の基準に基づいて無用な刺激・情報を間引き、残された情報もできあいのパターンに落とし込んで処理するシステム】である<いつも化>は、「言語」と無関係ではありえないと思います。言語化・概念化、あるいは意味付与による「主題」と「背景」の分離、等々によって、乱雑な知覚刺激が間引かれ、整序されて思考の場に登場するわけです。このプロセスを、「感覚与件→悟性による概念化」という二段階で捉えるのは19世紀的なレベルであって、おそらくは「認知イコール概念化」という捉え方が正しいと思われます。言い換えれば、言語以前的な認識というものは存在しな「、ということです。(デリダに関する生かじりの知識と広松渉『哲学入門』岩波新書 を参考にしました)
 そして、唯一の例外としての「非言語的な認知」が、通常の認知とは時制を異にして成立するところの「主客対消滅」の瞬間、ということになるでしょう。
 曽我さんが御自分の主張に対して【刺激・情報の間引きという低位のものと、価値観による順位付け(執着)というかなり高位のものをごっちゃにしており】と自己批判しておられますが、このてんは「言語化・概念化」ということで一括して扱えるのではないでしょうか。そして、このプロセスに、独特の仕方でノエマ的自己がからみついてくるわけです。

 次に、大脳に送る情報を選択保存する<いつも化>のバッファというものは、これは脳内の一種のハードウェアとして「悟り」の前も後も存在し続けるだろうと思います。曽我さんも書かれているように、「主客対消滅」の悟りの瞬間のみ、そのバッファが機能停止するのでしょう。とすれば、悟りの後の「主客対再生」状態はどうかというと、バッファを通じて送られてくる情報を受け取りつつ、ソフトウェアのレベルでそれに対するネガティヴな「反省」が働いて、「(バッファを通じてそのように)見えているが執着しない」という状態ではないかと思います。

 次に、「主客対再生」の段階で成立する【執着とは無縁ななんらかの新しい刺激処理システム】あるいは【執着とは無縁の新しい世界対応のシステム】ですが、これは二段にわけて考察できると思います。
 まずひとつには、上述のとおり、<いつも化>のバッファから送られてくる情報に対する、ソフトウェアのレベルでのネガティヴな反省があります。この「反省」が、その都度の意志の発動によらず(こう言ってしまえばミもフタもないようですが)「条件反射的に」起こるようになること、これが、「主客対再生」の状態、すなわち日常性としての「悟り」の状態の第一義であると思います。
 そうなるためには、日常の我執・法執の経験の「かたわらに」、(その経験自体は消去できませんからそれに併置するかたちで)知的な反省としての「無我」「無常」を置く、という修練を続けることが有効です。5月9日にお送りしたメールで「苦Bbへの対治」としたものがそれにあたります。条件反射の形成というのはある意味ではスポーツにも似たフィジカルな作業ですから、出家して「四念所」のようなメソッドに従うことが、時間的には最も早道でしょう。しかし、出家できなくても(ちょうど合宿生活しなくても通いでも、さらには日曜だけの練習でもそれなりにスポーツに熟達するように)、そのような「無常・無我の条件反射」に至ることは可能です。自分で言うのもなんですが、私自身も仏教の本を読んだり「徒然草」を再読三読したおかげで、事に触れての無常観がやや条件反射的に出てくるようにはなっています。こういうのを「聞法の功徳」というのでしょう。
 しかし、おそらくこれだけでは未だ「智」のみにとどまります。それに「悲」(慈悲)が加わることで、<いつも化>を経た世界(像)は再び豊かさを取り戻すと思われます。しかし、この「慈悲」の問題については私はまだ語る資格を持ちません。

 さて、ここで全く話がはずれるのですが……
 煩悩というものを認識論のレベルから解明しよう、という方向性は、確かに有効です。曽我さんの<いつも化>もそのひとつですし、曽我さんと私との間で交わされた「自己」に関する議論も、基本的には認識論的なフィールドの中でのことであったと思います。
 しかし、「執着する」とか「執着しない」とは、(自分の心理をいささか反省してみると)このように認識のレベルだけのことではなく、行動を選択する意志のレベルのことでもあるわけです。つまり、煩悩をもっと実践的な側面から見ることもできるのではないかな、ということです。換言すれば、「物事がこのように見えてしまう」という角度からではなく、「このように行動してしまう」という角度から煩悩を捉えることも可能ではないか、ということです。そして、何らかの意味での「修羅場」に生きている人であれば、煩悩に関しては実践的な側面から捉えるのではないか、我々の議論は日向の縁側でお茶でも飲みながらのんびりと談義しているように思われるのではないか、と感じる次第です。
 このことは漠然と感じるのみであって、具体的な提案ではありません。現在の私も唯識に関する本を読んで勉強しているのですから、もろに認識論的世界にはまっています。当分そういう状態が続くと思いますけれど、いずれ芽を出すかもしれない種のような問題提起として書き留めておく次第です。

 今日は多岐にわたる内容の、まとまりのないメールになってしまいました。貴HPに掲載していただけるのであれば、適宜「切ったり貼ったり」していただいても結構です。実は、長く中断していた読書を10日程前に再開したばかりで、唯識に関する勉強もそれほど進んでおりません。世親の『唯識三十論』を精読した上で、唯識に関してある程度まとまった見解をメールにして送らせていただくつもりです。その時には御批評お願いします。草々


谷 真一郎さんへの返事

 こちらもまだお返事できていません。しばしご猶予を。

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