曽我逸郎
 独覚についてのご意見は、おっしゃるとおりだと思います。
あえて論理的思考を捨てて、修行のみする必要はないと思います。

 釈尊の悟りに論理が必要だったかについては、般若の智慧を2つにわけて1つは縁起、2つめは慈悲として考えると、慈悲というのが心的作用そのものだとすると、理論は必要ないことだと思います。縁起は論理そのものでしょう。

 一つ気になったのは、言わずもがなでしょうが禅は座ることだけでなく、行住臥も修行の場であるので、いつでもできるのではないかということです。
 私自身師について座禅をしたことはないので、いえる立場でないかも知れませんが。とにかく食べるときに、噛むとは何ぞ、と自分に問いかけ只かむ、かむ、というようなことをしています。しかしそれも長く続きませんが。

 少林窟のユニークなのは、曹洞宗なのに公案を使うというところです。最近はそういう曹洞宗の道場も増えてきているようですが。参禅記の方もおもしろいので、よかったら読んで見てください。

 松本さんの本は、仏教への道、だけを大体読みました。禅宗批判の方は、少し読んで諦めました。松本さんに対する批判の方は、そがさんに譲るとして、共感できたのは、"道元によって自未得度先度他と教えられた菩提心は、結局のところ、慈悲と別物ではなかった。"P119という所です。この本で松本さんも慈悲とは無縁の理論家ではないと言うことがわかってほっとしました。他のおすすめの本を読んだら、またメールを差し上げます。

いってん


いってんさんへの返事

 たまには違う書き出しにしたいのですが、また決まり文句で始めねばなりません。返事遅くなりました。すみません。

 年末年始、伊那谷の家で家族とともにすごし、年明けから風邪を引いてしまい、おまけに2月から名古屋へ転勤することになって、ずっとキイボードをたたく余裕が無く、やっと今日返事を書き始めました。

 縁起と慈悲について。
 無我・縁起という極めて主知的な教えと、慈悲という情的なものの間には、一見断絶があるように思われるのですが、私の印象というか、願望としては、無我・縁起を本当に突き詰められた時(つまり、対象化されたのではない自分の無我・縁起を知ることができた時)、世界のあらゆる現象と互いに縁起しあう無我なる現象として、一切有情への慈悲心が自然に必然的に発動すると信じたいのです。無我・縁起が慈悲に直結していると思いたい。無我を知り、縁起を知ることが、慈悲を知る道だと思います。それを確かめるには、自分の無我と縁起を如実に知るしかないのかもしれませんが。

 座禅について。
 いってんさんほどに禅に思い入れがあるのであれば、少林窟でも、あるいは座禅会をやっているどこかご近所の禅寺でも、きちんとした指導者のいるところで是非座ってみられたらと思います。少林窟が近ければいってんさんには一番でしょうし、もし遠いなら、臨済宗でも曹洞宗でも毎週無理なく通えて続けられるところを探されたら如何でしょうか。やはり少なくともはじめのしばらくは、ちゃんとしたところで指導してもらったほうがいいと思います。そして、細く長く座り続けることと自分で学び自分で考えることの両方を継続できれば、現代の独覚として、自分の無我と縁起を如実に知り、大いなる慈悲を働きださせることも不可能ではないのではないかと思います。
 自分ではこのところ久しく座っていない癖に、おこがましくもえらそうなことを言ってすみません。

 寝込むほどひどくはないのですが、鼻と喉と耳に詰め物をされたようで、ずっと鬱陶しい気分です。いってんさんも風邪など引かれませんようにご自愛下さい。

 では。またお便り下さい。

2000年1月13日   曽我逸郎

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