曽我逸郎
 曽我さん、こんにちは。

メールありがとうございました。
もらったメールを読んで考えたことをまた送ります。

 (曽我付記:以下「>」で始まる部分は、先回の曽我のメールからのtaka kudouさんによる引用です。)

> 1)最初に私の考える仏教の悟りについて若干の補足を。
>  我々は執着によって多くの苦しみを生み出している。執着は、世界のさまざまな現象や自分という現象を、実体的で永遠の存在であると捕らえる事に根ざしている。
> 我々が執着する「もの」や自我は他に依存する無我なる縁起の現象であると知り、そのことによって執着を吹き消すことが悟りである。そのためには、一度きりの出来事を退屈な「いつも」に変え、現象を存在に変え、執着を生み出しているところの「いつも化システム」が停止した「主客対消滅」の体験が必要であると考える。

肉体や所有物など本来自分ではないものを自分あるいは自分のものだと思うことから執着、そして苦しみが生じます。それゆえ釈尊は「我に非ず」と教えました。しかし、「非我」の教えが「無我」となり、自分というものは無くすべては単なる現象だとすると、そこからは自分の行為に対する無責任、そして虚無主義が生まれると思います。また人生が単なる現象にすぎず肉体の消滅とともに終わるということが真実なら宗教的な悟りを求めることなど無意味であり、むしろこの世的な成功こそ追及すべきです。それこそが唯物論的な思想から導きだされる論理的な結論ではないでしょうか。また曽我さんのいうところの悟りである「主客対消滅」の体験も単なる現象にすぎないことになり、そのようなまれにしか得られないであろう特殊な体験(現象)を求めること自体が一つの大きな執着となり得られないという苦しみのもとになるのではないでしょうか。それに「主客対消滅」の体験とは結局は自他の区別が消失し「すべては我である」「すべては我とつながっている」ということを実感することが悟りであると言っていることになります。これでは「我に非ず」という釈尊の教えとまったく反対です。

例えば、意見交換13から
> 危険なのは、個々・一瞬一瞬の現象を捨象し、自分自身が無我・縁起・空なる現象として個々・一瞬一瞬の現象と縁起し合っているということを忘れて、ただ単に理屈・論理として、なにか本源的なるものを想定し、それが世界全体を通貫しているとか、世界全体を満たしているとか、世界となるとか主張し、その結果、自己の欲望・執着を「大いなるものの自然な発露、良きかな良きかな」と肯定し、苦しんでいる有情にたいしては、「それが定め」と無慈悲でおられるようになることです。 個々の・一瞬一瞬の現象を捨象し、自分が個々の・一瞬一瞬の現象と縁起し合う無我にして空なる現象だということを忘れて、ひとからげに全体世界をでっちあげ、それを満たすものをでっち上げ、世界はのっぺりとすばらしいと考えることがあぶないのです。なぜなら、自己の欲望・執着を肯定し、他者の不幸を無視する論理となるから。

「自分が無我・縁起・空なる現象として個々・一瞬一瞬の現象と縁起し合っている」と言っておられます。無我・縁起・空という言葉を使いながらも現象が自分であると言っています。しかし、「無我・縁起・空なる現象」が我である、「現象が我である」というのなら、これは釈尊の非我の教えと全く反対のことを言っていることになります。

また釈尊は、すべては現象であり人の行為も現象に過ぎない、と教えていたでしょうか。釈尊は行為(身・口・意)というものをとても重視していました。自分の安らぎも苦しみも自分の行為から生まれ、その結果を受け取るのは自分であると教えていました。ゆえに悪を止め、善を為せ、正しい行為をせよと教えていました。自分というものは無いすべては現象にすぎない、とは教えていなかったと思います。

> 2)「悟り・境涯・意識レベルには段階があり、それに対応する世界とそこに生きるものがある」という考えについて。
>(中略) ひとつ確認したいのは、第一の状態にある人間が正しく修行することができれば、ブラフマーカイ神として第2の状態に転生し、さらに修行転生を繰り返して、第七の段階に達するのですね。レベルアップの度に一度死んで次のレベルに生まれ変わるのですね。だとすると最後の第七段階に達した後はどうなるのでしょうか?
>  A:永遠に第七レベルで生きつづける?
>  B:第七レベルでの生き方によって、再び1から7のどれかに生まれ変わり、1から7の間を永遠に輪廻しつづける?
>  C:第七レベルで正しく生きれば、完全に消え去り、もはや転生しない?
>  もしCとお考えなら、私としてはぎりぎりなんとか妥協できるかもしれません。
> A,Bなら、だめです。わたしの信じる無我・縁起の教えとしての仏教と相容れないからです。

意識レベルですから、転生しなければ変わらないというものではなく。常に変動するものです。また第7の意識レベルで終わるものではないと思われます。

>  七つの状態と二つの場所との関係がよくわからないのですが、非想非非想処には、出家後間もない、まだ苦行さえ始めていない釈尊が達したという記述があります。(当HPの小論集のコーナー、「釈尊成道の過程」を参照下さい。)
>  成道前の釈尊が非想非非想処に達したのですから、レベルアップには、死んで生まれ変わるという手続きは必要ないのではないかと考えます。この身のままで、正しく修行していけば向上していけると思います。あえて転生の七つのレベルを想定しなければならない理由が分かりません。

なぜ、意識を七つのレベルに記述したかは私には分かりませんが釈尊にはそのような意識レベルとそれに対応した世界と生き物が見えたということなのだと思います。また二つの場所との関係も私にはよく分かりません。

>  (「経典に書かれている事を否定するのか?!」とお思いかもしれません。私は、経典の記述には、互いに矛盾するものが多く含まれていると思います。すべての経典が、「釈尊の本心」を正しく伝えているわけではない。特に原始経典には、原始経典であるがゆえに釈尊の意図を捉え損ねている面があると考えます。このあたりについては、同じく「釈尊成道の過程」をご参照下さい。) 

教典に書かれていることを文字通りすべて真実であるとは私も思っていません。しかし、一見矛盾するように思われることを簡単に間違いであると判断し切り捨てることは大きな間違いにつながるのではないでしょうか。それは釈尊自身が象のたとえを使って言及しています。目の見えない人に象に触ってもらい、象にとはどのような生き物か聞いたところ、それぞれ矛盾するようなことを言ったという話しです。それぞれの言っていることは間違っていないが自分が触ったのは一部であるということが分からず他の者が言うことを否定することが間違いだったのです。
結局は真理(真実)を自分の狭い見方に押し込め、そして自分の考えに入りきらないものは間違いである方便であるとして捨て去ることに問題があると思います。

> 3)「上の境涯からすると、下の境涯は無常、無我な存在である」という考えについて。
>  では、最高の境涯も、無常・無我なのでしょうか? それとも最高の境涯は永遠の実体なのでしょうか? あるいは、最高の境涯は、肉薄してはいけない、問うてはいけないのでしょうか?

最高の境涯というもは心霊主義においても明確になっていないようです。というのも通信を送ってくる霊自身が人格的存在であり、究極の状態については分からないと言っているからです。また、上の境涯になればなるほど地上的な表現方法である「言葉」では表せなくなるようです。しかし、境涯が上がれば存在がなくなるということも個性が消滅するということもないとのことです。

>  一体、釈尊は、肉体以外の存在形態を本当の自己として認めておられたのでしょうか? それともそのような存在形態は「我ならず」と否定しておられたのでしょうか? 頂いたメールではどちらのお考えなのか、判断に苦しみます。

釈尊が肉体以外の存在形態を認めていたであろうという例として、意識の七つの段階の部分を引用したのです。もちろん、それらの段階における存在形態も我にあらずということになります。しかし、それぞれの段階にいる者にとってはその段階における存在形態が我であることも確かなことです。それは通常私たちが肉体を通して自分を認識しているのと同様です。

>  一部に釈尊が説かれたのは非我説であって無我説ではないと考える人がいることは聞いています。色受想行識も眼耳鼻舌身意も我ではないと説かれた釈尊は、では一体何が我だと言われたのでしょうか。

釈尊は「これが我である」いう言い方はせず、「これは我ではない」という言い方をしました。それはまた我ではないと否定されるべき存在があるということであり、その否定を通してこそ本当の自己というものが現れてくるからではないでしょうか。これが我であるという教えかたは本当の自己を求めることフ(曽我:文字化けあり)妨げになり、本当の自己を求めるという目的のために「我に非ず」と教えたのだと思います。けっして「我が無い」と教えたかったわけではないと思います。

>  私は、無我と縁起こそが釈尊の教えの核心と信ずるので、最高の境涯も無我であると言っていただければ、手を握り合う事が出来ます。

各段階における境涯の説明は可能かもしれませんが、最高の境涯というものはこれだと断定しようとすることはそれ自体が間違いであるように思います。

> 4)「月と指」について
>  釈尊が指差してくださったことを知ろうとすれば、指差してくださった方向を正しく知らねばならないのではないでしょうか。どこでどの季節のどの時間にどの角度を指差されたのか(=どういう背景でどういう状況で誰に何を言おうとされたのか)。
> それを見定めなければ、「釈尊は月を示された」「太陽を示された」「北極星を示された」「XX山を示された」「カラスを示された」etc.好き勝手な議論が沸き起こって収拾がつかなくなります。せっかく釈尊が指差してくださっているのですから、その指をおろそかにしていい筈はありません。文献学をはじめとする批判的な学問研究は尊重されなければならないと考えます。それに基づいてこそ、釈尊が示してくださったものを考える事が出来ます。

私に言わせれば、仏教を唯物論的に解釈しようとしている人たちこそ文献というものを尊重していないと思われます。また文献学による批判も行き過ぎた場合かえって真理を切り刻むことになり全体像を分からなくする方向に行ってしまうと思います。

> 5)「心霊主義と釈尊の本心」について
>  XとYが同じかどうかは、Xとはなにか、Yとはなにか、それぞれ個別に検討し把握した上で言える事ではないでしょうか。それをする前に、「Xを知るためには、XとYは同じだから、Yを知れば良い」と考えるのは、順序が逆ではないでしょうか。

その通りです。個別に検討し、把握した上で言っています。
私はX(釈尊の教え、釈尊の指)とY(心霊主義)が始めから同じだと考えていません。しかし、仏教の初期経典を一通り読み(一部のものは何度も読み返しました)、また霊界通信といわれるものも、今から考えるとおかしいと思われるものから思想的にもすぐれていると思われるものまでかなり読みました。その結果、XとYは同じものを指していると理解したのです。その上で、釈尊の教えたかったことを理解するためには心霊主義が「参考」になると言っているのです。

>  ただし、XとY(釈尊の本心と心霊主義)が仮に別物だとしても、Xを理解する事にYが役立つという可能性はあります。動物行動学や分裂病論が仏教理解に新しい角度の光を当ててくれるように。

「悟り」(極めて安定し、智慧に富んだ意識)について考えるなら、動物(主に本能で行動している)や分裂病(不安定で病んだ精神状態)を研究するより、「超越体験」や「至高体験」を研究したマズローの心理学やトランスパーソナル心理学のほうが役立つかもしれません。(私は良く知りません) 簡単な解説書によるとマズローはそれまでの精神分析などの人間精神の病的な状態の研究による人間観や動物の行動でもって人間の行動も説明しようとする考え方には限界があるとして、人間性心理学を提唱したそうです。

>  お勧めしていただいた本を読んだ上で、あらためて心霊主義について考え、その結果をご報告したいと思います。もうしばらく時間を下さい。

参考にあげた心霊主義の本については、批判・反論するために読むのであれば止めておいたほうがよいかもしれません。得るものがないでしょうから時間の無駄になります。しかし、釈尊が何を人に示したかったのかを知る手掛かりとして読んでみようとするなら、何らかの発見があるかもしれません。また、心霊主義に対しても性急に判断を下す必要はないと思います。というのも心霊主義が人びとに勧めていることはとても単純なこと(人に優しく親切にしなさい等)ですが、その背景にある世界観は唯物論的な世界観とはかなり違っており、また非常に多様な世界だからです。同じことを言う場合でも言い方が異なったりする場合があります。例えば輪廻転生、一つの人格から見れば幾つもの過去世の記憶をもっていることになりますがもっと高い意識レベルからするとそれらの人格がそれぞれ独自に存在し独自の進化を続けていることになります。また、霊界通信を送る霊の個性やそれを受け取り伝える人間側の個性によってそれぞれ特徴があったりします。

>  気分を害されていたら、あやまります。ごめんなさい。私自身の仏教理解と照らし合わせて理屈で考えたことですのでけして他意はありません。

自分の仏教解釈を表明しているという点では、私も曽我さんと同じ思いです。自分は仏教をこのように考えるが曽我さんそして曽我さんのホームページを見ている仏教に関心のある方々はどう思いますか?という思いだけで他に意図はありません。


taka kudouさんへの返事

 年末になって随分寒くなりました。お元気ですか?
 またまた遅い返事で申し訳ありません。

 心霊主義の本、約束していながらまだ読めていません。前回お勧め頂いた「セスは語る」を本屋で見つけて手には取ったのですが、とても分厚い上に、細かな活字の上下二段組で、読みとおす自信が持てず買えませんでした。

 ですので、今回は心霊主義はお預けにして、仏教を中心に思うところを書きます。

1)はじめに、無我と現象について。

 頂いたメールを引用します。
>「現象が我である」というのなら、これは釈尊の非我の教えと全く反対のことを言っていることになります。

 takaさんは、アナートマンを「非我」ととらえ、「我はAでもBでもCでもその他通常<我>として想定されるどれでもない」という教えとして理解しておられるのだろうと思います。
 非我説とは、「我は何ものでもない」という教えであるから、曽我の「我は現象である」という主張は非我説に反する、と考えておられるのだと思います。
 だとすれば、どうやら私の言う無我がtakaさんにお伝えできていないようです。「我は無我であり、かつ現象である」という一見矛盾した主張は、実は矛盾ではありません。

 無我とは、永遠、あるいは永遠とまではいかなくとも持続的で固定的な実体を持たないこと、です。すなわち、縁=条件によって生まれ変化し終息する現象であること、と同じ意味です。持続的固定的な我の実体として想定されているのは、霊魂に他ならず、したがって釈尊は無我説によって霊魂を否定された、と私は考えています。

 釈尊の時代のインドでは、人はそれぞれその人に固有の、持続的な、肉体とは別の、アートマンを持つ、という考えが常識でした。というか、人は、肉体が何度滅びようと、いかに輪廻しようともアートマンとしては一貫しているというのが常識でした。自分のアートマンを高め解放し本来的であるところのブラフマン(宇宙原理)と等しい状態にもっていくのが、バラモン教の教えでした。そういった、アートマンを前提とする考え方があたりまえの状況の中で、釈尊は、アナートマンの教えを説かれたのです。
 takaさんのおっしゃる「肉体以外の存在形態」とは、まさに伝統的なアートマンの概念そのもののように思えます。アートマンを認める人たちに、「本当の自己(=肉体以外の存在形式)を追求せよ」と教えるのであれば、「真のアートマンを追求せよ」という言い方だけでよかった筈です。アナートマンというアートマンを否定する言葉自体が、「本当の自己(=縁起していない自存的不変的自己)」を想定する考え方を否定していると考えます。わざわざ自己を五蘊や六識に腑分けし、「ご覧なさい、ここにも、ここにも、どこにもアートマンは見つけられないでしょう」と教えられたのは、アートマン(=霊魂)に執着する我々をそこから引き剥がすために懇々、切々と説明して下さったのだと考えます。

 ここからちょっとだけややこしくなります。これまでは、話を簡略にするため、アートマンを「肉体以外の本来的(と想定される)自我=霊魂」という意味に限定して、私の考えを説明してきました。しかし、アートマンという言葉は、もともとは、ただの一人称、私・自分という意味です。したがって、「自己とはなにか考えよ」という意味で、「アートマンを考えよ、追求せよ」という表現は可能です。ですから、「アートマン(自己)とはなにか追求していったら、アートマン(自己)は、縁起による現象であって、想定されてきたような自存的不変的自己本体(第二の意味のアートマン)は存在しないと分かった」というのが、釈尊の覚りの内容だと思います。アートマンに二重の意味があることが混乱を生んでいるのだと思います。

 (2003,3,23,加筆)アートマンが一人称代名詞だというのは、思い込みによる私の勘違いです。サンスクリット語の一人称代名詞は aham でした。アートマンが、魂とか自我という意味の他にもつもうひとつの意味は、再帰代名詞です。一人称・二人称・三人称、男性・女性・中性に関わらず、「自分」という意味で広く使われます。

 「アートマン(自存的不変的本体自己としての)はない」といっても、我々は、まったくなにも無いわけではありません。「あたりまえ、、」本文にロウソクの比喩を書きました。静かに燃えるロウソクの炎は、じっとそこに存在しているように見える。でも実際は、炎とは融けたロウの分子が次々と気化して燃えて空中に散っていく酸化反応という現象の場であり、炎という実体が存在し続けているわけではない。でも、だからといって炎はまったくないというわけではなく、手をかざせば火傷するし、熱も光りもある。それらは現象なのです。我々は、存在としては存在していないが、現象としては現象している。無我だからといって、喜びも怒りも悲しみも苦しみもないのではなく、喜びも怒りも悲しみも苦しみも無我なる我々の現象として、火傷する強さで現象しているのです。

2)主客対消滅について

 引用します。
>「主客対消滅」の体験とは結局は自他の区別が消失し「すべては我である」「すべては我とつながっている」ということを実感することが悟りであると言っていることになります。

 主客対消滅は、自分が実体的存在ではなく、縁起の只中の働き・現象であると如実に知るための一過程として想定しています。ですから、主客対消滅から主客対再生に戻った際の実感としては「私は世界とともに世界の一部として生成されている現象だ」といった感じだと思います。「すべては我とつながっている」はともかくとして「すべては我である」というのとは少しニュアンスが異なります。なにより、縁により生まれ変化し終わる現象として如実に自分を知ることがこの体験が教えてくれる事です。

 また引用。
>曽我さんのいうところの悟りである「主客対消滅」の体験も単なる現象にすぎないことになり、そのようなまれにしか得られないであろう特殊な体験(現象)を求めること自体が一つの大きな執着となり得られないという苦しみのもとになるのではないでしょうか。

 主客対消滅は、ひとつの通り過ぎるべき過程であり、悟りそのものではありません。主客対消滅体験によって、自分の無我・縁起を知り、それによって執着を吹き消し、執着による苦を滅し、世界とともに縁起し生成し変化する喜びを喜べるようになることが悟りです。
 主客対消滅も、おっしゃるとおり現象に過ぎません。その体験を求めることは、自己の無我・縁起を如実に知ろうとすることです。それもまた求めることだから執着である、という言い方は可能かも知れません。ただ、この執着は、富や名声に執着することとは別の執着です。執着を吹き消そうとする執着です。執着である以上苦の元にもなるでしょう。苦しむこと無く修行した仏教者が一人でもいたとは想像できません。
 執着を断とうとすることも執着だからなすべきでない、とすれば、いつまでも世俗の執着、自己への執着による苦の中に留まることになるわけですから、我々は執着を断つことに執着すべきだと思います。

3)この世での成功・あの世での救済について

 再び引用します。
>人生が単なる現象にすぎず肉体の消滅とともに終わるということが真実なら宗教的な悟りを求めることなど無意味であり、むしろこの世的な成功こそ追及すべきです。

 死後生がないなら宗教に意味はない、とお考えなのでしょうか? もしそうなら、仏教は死後の救いを説くのではなく、今の生を如何に生きるかを教えるものだと答えます。
 無論、今の生といってもこの世的(世俗的)成功ではありません。我々は、世俗的成功に疑問を抱いたからこそ仏教に尋ねたのではなかったでしょうか? そもそもそこが出発点だったはずです。そして「意味」ということで言えば、この世的成功と同様に、宗教的な悟りも無意味です。(「意味」というのは「何か他のことに役立つ」という意味で言っています。)
 「あたりまえ、、」に私は、「意味を問うことを止めよ」と書きました。勝義として人生に意味はない、と。しかし、こう言うと、大抵「では刹那的快楽を求めるべきなのか」とか「この世的な成功こそ追及すべき」なのかと、詰問されます。意味がないということから、どうしてすぐに刹那的快楽・この世的成功に走るべき、という結論に至るのでしょうか?
 無我とは我々自身のみならず、我々が執着するものも無我なる縁起の現象なのです。我々の執着の対象がなんであれ、それは必ず変化し、いつか終息する壊法です。だからこの世的快楽への執着はけっして満たされません。刹那的快楽やこの世的成功が、すぐにその喜び以上の苦をもたらすことは、我々重々承知のことではありませんか? 刹那的快楽やこの世的成功にいささかなりとも疑問を抱いたからこそ仏教に教えを求めたのではありませんか? もし刹那的快楽やこの世的成功を純粋に(=苦に変化させることなく)楽しめたなら、仏教などそれこそ必要なかったでしょう。我々は100%完璧に一瞬の隙も無く宗教的でいられないのと同様に、刹那的快楽やこの世的成功に100%のめり込むこともできないのです。欲望や快楽にどれほどふけっても、さめた一瞬が残る。その一瞬の隙を狙ってむなしさが噴出してくる。我々は、無邪気に快楽の追及に没頭することは、もはやできないのです。
 (「聖者になる一番の近道は放蕩の限りを尽くすことだ」というのは「ナルチスとゴルトムント」だったか、ともかくヘッセの言葉だったはずです。この言葉は、龍樹菩薩の伝説にもあてはまるような気がします。)

 我々には死後の救済もなく、この世の快楽もさらに大きな苦に転じる。さあ、困りました。そこで仏教の出番です。あの世ではなくこの世で、苦に転化することのない喜びを喜び他と分かつことを教えてくれるのが仏教だと思います。
 仏教とはなにか? 他ならぬ無我の教えこそが仏教です。我々が執着する対象が無我であることを如実に知り、最大の執着の対象である自己も無我であることを如実に知り、そのことによって執着を吹き消す。これは決して悲しい諦観ではありません。無用な苦を除き去り、あふれはじける世界という現象を喜び、一切の有情への慈悲に充ちたあり方です。人生が肉体の消滅とともに終わる現象であるからこそ、現象している間、無益な苦しみを苦しまず、無益に他を苦しめず、苦に転化することのない喜びを喜び、苦に転化することのない喜びを分かとうとするのが仏教だと思います。

4)自分の行為に対する責任と虚無主義について、また無記に関して

 また引用させてもらいます。
>釈尊は行為(身・口・意)というものをとても重視していました。自分の安らぎも苦しみも自分の行為から生まれ、その結果を受け取るのは自分であると教えていました。ゆえに悪を止め、善を為せ、正しい行為をせよと教えていました。

 おしゃるとおりです。ただし、身口意の行為も、それを原因に悩んだり苦しんだり悲しんだり安らいだり喜んだりするのも、すべて縁起の現象です。我々は、無我なる縁起の現象として様々な行為を行い、周囲に様々な影響をもたらし、周囲から影響され、自分の行為と様々な縁による思いがけない結果を受ける。来世に逃げることもできない、この世で、この今、過去の自分と過去のすべての縁を引き受けて生きていく。それもすべて現象として、それが私たちです。

 再び引用
>自分というものは無くすべては単なる現象だとすると、そこからは自分の行為に対する無責任、そして虚無主義が生まれると思います。

 自分の業の結果のうちある種のものは、いつかそのうち身に帰ってくるのではなくて、その行為をなしたと同時に現実化します。たとえば、うまく立ち回って他人を出し抜いて利益を得ようとすれば、仮にそれがうまくいって本人はほくそ笑んでいても、実際は、その小賢しさに比例したサイズに己を矮小化しており、次に思ったとおりにならなかったり、人に出しぬかれたりした時に、怒り悔しがる自分を準備している。自分の行為に無責任でいようとしても、そのような形で行為の結果は常に既に引き受けている。
 「あたりまえ、、」本文に、「自分を軽く透明で弾力のあるようにする」とか、逆に「重く濁ってもろくさせる」と書きました。今から思うと比喩が自己を実体的に表現していてまずいなぁと感じますが、その点は目をつぶって頂くとして、要は、我々は、自分の行為によって、軽々とした透明なぴちぴちはずむ現象であることもできれば、その逆の現象にもなるのです。執着による行いは、ますます自分を執着に縛りつけ、慈悲による行いは、執着の火を鎮めさせる。行為は、なされると同時に我々に一定の影響を熏習し、我々はそれを逃れることはできない。そういう仕方で我々は自分の行為の責任を取らねばならないのです。

 虚無主義については、求める気持ちが残っているから虚無主義になるのではないでしょうか? 成功を目指していたのに得られないと分かったので虚無的になる。しかし、その成功も実は実体の無いものだったと分かれば、虚無感もなくなり、解放された伸びやかな気持ちになるでしょう。意味や価値や目的に縛られなければ、喜びを喜び、悲しみを悲しみ、苦しみを苦しみ、人の喜びを喜び、人の悲しみを悲しみ、人の苦しみを苦しむだけだと思います。これらの喜び、悲しみ、苦しみは、透き通った喜び、悲しみ、苦しみであり、増長や恨みや妬みや損得といった濁った喜び、悲しみ、苦しみではありません。

 頂いたメールを読んで、無記について考えました。無記というのは、「世界は空間的・時間的に有限か無限か、如来(そして衆生)は死後存在するか否か」などの質問を受けて、釈尊が「答えを得ても役に立たない問い」として答えることを拒否されたというエピソードです。世界の有限性はともかく、「如来は死後有か無か」という問題には、釈尊は明確な答えをもっておられたと私は思います。我々は生きている時から既に存在ではなく縁の上にのっかった現象であるのに、どうして死後存在するでしょう。しかし、釈尊は答えを避けられた。それは、無我を如実に知らず自他への執着を残したまま、死後生がないと聞けば、takaさんのおっしゃっているように、人は無責任になったり、虚無的になったりしかねないと案じられたからだと思います。無我を知れば答えはおのずと明らかになるのであるから、先走って死後生を否定していたずらに混乱を生み出すことは、避けるべきだったのかもしれないと考え始めています。様々な似非仏教が死後生を語り、人々を脅して金品を騙し取り、悪い行いに導いているのを見ると、死後生など無いことを一刻も早く一人でも多くの人に知って欲しいと思ったのですが、私は性急にすぎたのかもしれません。

5)仏教の全体的理解

 その1、象の比喩について

 おっしゃるとおり確かに我々の仏教理解は断片的で全体を正確に捉えてはいないと思います。しかし、逆に、こういう事もあるのではないでしょうか。例えば、今から2500年後、大きな文明の断絶の後、未来人か宇宙人が、地球上の多くの場所で同内容の資料を発見して「かつて生息していた象の中には、小型ながら大きく発達した耳をもち空を飛ぶことができた種がいたらしい」と推定するような。つまり、仏教として伝えられてきた教えの中では、比喩が言葉どおりに伝えられたり、誤解や仏教以外の考えが紛れ込んだりして、空飛ぶ象や、角のある象や、火を吐く象が生み出されてきた可能性はないでしょうか。不滅の霊魂や永遠に実在する仏や超能力は、ダンボの耳であり、象の角であり、象の吐く火だと思います。

 私の仏教理解の方法論は、仏教として残されてきたものを断片のまますべて認めつつ仏教は偉大すぎて全体的理解は不可能だ、とあきらめるのではなく、矛盾する部分は切り離し、多少歪んでいても部分と部分のつながりのある全体的体系としてともかく一旦把握し、その体系的仮説を叩きぶつけて検証し鍛え解体し再構築し、少しずつ正しい仏教に近づけていこうとするものです。
 takaさんはじめ皆さんから頂くメールに、私の仮説は叩かれ検証され鍛えられているわけで、大変ありがたいことだと思っています。

 その2、文献学による切り刻みについて

>文献学による批判も行き過ぎた場合かえって真理を切り刻むことになり全体像を分からなくする方向に行ってしまうと思います。
 批判的に詳細に検討され切り刻まれることによって、全体像が分からなくなってしまうような「真理」は、そもそも矛盾を内蔵していたから全体性が破綻するのであって、すなわち真理ではなかったという事だと考えます。真理は脆弱なものである筈がありません。

6)唯物論について(私の科学観)

 takaさんは、私の考え方を「唯物論的」と評されています。私としては、「物は存在しない。我々が物だと思っているのはすべて現象であるのに、いつも化システムが現象を物に見せている」と主張しているつもりなので、「唯現象論的」と呼んで頂きたい、というのは冗談ですが、唯物論的とおっしゃるのは、科学的という意味でしょうか? それとも、物とは霊魂の反対概念で、つまり唯物論的とは反霊魂論的という意味でしょうか?
 後者なら、そのとおりです。
 前者なら、若干説明を加えたいと思います。

 私は、科学の成果と科学の方法を評価しています。科学は、その方法論上、常に一定の範囲、部分の真理しか語れないし、主体のノエシス的働きを問うこともできませんが、科学的方法で見出された真理は真理として尊重されねばならないと考えます。
 一方、仏教は、主体のノエシス的働きを問う方法論をもち、それによって自己と世界の無我・縁起・空という真理を発見しました。無我・縁起・空が真理であるなら、科学による真理とも矛盾しない筈です。仏教が真理であるなら、科学による検証などではびくともしないくらい堅牢である筈です。実際、素人向けの概説書による知識に過ぎませんが、最近の科学、宇宙論も量子論も脳研究も、無我・縁起・空を否定するどころか、それを支持する方向に進んでいるように思えます。
 もし科学が霊魂という永遠の自存的実体があると証明したら、私は今の私の仏教理解の仮説を根底的に破壊しなければならなくなります。

 すみません、ながながと書いてしまいました。

 また是非御批判頂いて、頑固な私の仮説を鍛えて解体し発展させるチャンスを頂ければと思います。宜しくお願いします。

 Y2Kがたいした問題を引き起こさないことを祈りながら。
 では、よいお年をお迎え下さい。

1999年12月23日    曽我逸郎

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