こんにちは。先日はあのような真摯なお手紙を送っていただきましてありがとうございます。
風の件ではやはり私の読み違いだったようで、どうもすみません。

 曽我さんのメールをよくチェックしないであの3冊でなく「禅思想の批判的研究」を借りてしまったので、とりあえず読めるところまで読んで感想をお書きできればいいなと思っています。

 メールを読んで1つ気になったのは、
>仏教=無我・縁起・空を学ぶにはまず論理的学習によらねばならない。
と言うところです。独覚という言葉の意味を取り違えているかもしれませんが、独覚と言うことばが仏教の教えを学ばずに悟ると言う意味ならば、必ずしも論理的学習が必要とは、限らないのではないか、と感じました。
 独覚ってそういう意味だったと思うんですが。
 かといって私がひとりで独覚できるというわけはないのですが。

 それと少林窟道場のおすすめは般若心経ではなく、般若心経提唱でした。
すみません。

 あと、曽我さんの少林窟道場HPの感想もいつかぜひお聞かせください。

 それではまた、失礼します。


いってんさんへの返事

いってん様
           1999年12月1日   曽我逸郎

 返事が本当に遅くなって、申し訳ありません。

 二つ宿題を頂いておりました。
 ひとつは、「独覚ということが可能であるなら、仏教を学ぶに論理的学習は不要ではないか」という質問。
 もうひとつは、「少林窟道場HPの感想」でした。

 まず一番目について。

 よく考えてみると、頂いた質問は二つの要素に分けて考えるべきだと思い至りました。

 A:経典やお坊さんの説法など仏教に関係するものに一切接することなく、仏教的覚りに達することができるか?
 B:論理的思考なしに仏教的覚り達することはできるか?

 さらに展開すると、
 「釈尊は、論理を用いて教えを説かれたか?」とか
 「釈尊の解脱に論理は必要であったか?」
と問うてみることも、有意義な思考実験であろうと思います。

 Aについては、私は、仏教のブの字も知らなくても正しい修行によれば正覚に達することは理論的には可能だ、と思います。釈尊自身がそれをなさったのですから。しかし、あくまで「理論的には」という但し書きがつきます。釈尊が苦行や様々な試行錯誤の末に見出され、残して下さったことを敢えて無視するのは、愚かなことです。凡夫の我々がひとりで歩いても、つまらぬ幻覚体験かなにかを真理だとと思い込んだりするのが関の山、いつ死ぬか分からぬこの身、釈尊の残して下さったものを頼りに横道にそれることなく励むべきです。(といいながら、道草ばかりの私ですが、、、)

 問題は、20世紀末の今、釈尊の教えに頼ろうとしても、仏教を名乗るものがあまりに多いという点です。永代供養とか水子供養、除霊、果てはポアだとかグルだとか。仏足石を飾って足裏占いをする集団も現れました。たまたま出会った「仏教」を縁だけで無批判に受け入れ、身を委ねることはとても危険な状況です。(けして少林窟が危険な似非仏教だといっているわけではありません。あくまで一般論として、です。)浄土教の言う選択(せんじゃく)という考え方(多くの教えの中からすぐれたものを選び取る)が、今重要になっています。浄土教を選び取れという意味ではありません。仏教と呼ばれるものがすべて同じ、ひとつではなく、多様であり、矛盾しあう教えを含み、その中から正しいものを選び取り、間違ったものを選び捨てようとする姿勢が必要だと考えます。似非仏教がはびこる今、仏教を学ぼうとするなら、経典や論書を読み、多様な角度から検討し、批判的論理的に学ぶことから始めなければならないと思います。
 そのようなやり方で仏教を学んでみると、仏教といわれるものの中に様々な相矛盾する概念・考え方のあることに気づきます。それらを、仏教用語辞典のように、すべて仏教として網羅的にならべるのではなく、ひとつの整合性のある体系として全体としてとらえたいというのが私の望みです。その、現時点における体系的理解の仮説が、ホームページにまとめた無我・縁起・空、すなわちあらゆるものの実体性を否定し、ありのままに現象とみて、執着を吹き消す教えとして仏教を理解することです。この体系に組み込めない輪廻や霊魂や永遠の仏といった考え(すべて永遠の実体を想定する考えです)は、反仏教的なものと考えています。
 勿論これは、現時点の仮説に過ぎません。整合性を持ちつつ、体系としてより深く、より高く、より大きなものに育てたいと思っています。一旦解体し一から組み直すことになるかもしれません。そして整合性をテストし、体系を発展させるのに、いってんさんはじめ皆さんから頂く質問や指摘、示唆が大変助けになっています。そういう狙いで始めたわけではありませんが、意見交換のページこそが、今私にとって自分のホームページの一番大切なコーナーになっています。

 話が脇道にそれました。頂いた質問に戻ります。Bに半分まで答えたかと思います。すなわち、似非仏教がはびこる時代に生きる我々には、論理的批判的に正しい仏教を見分ける努力が必要だ、と。

 では、正しい仏教がすでに明確だとして、それを学ぶのに論理は必要でしょうか? 逆に、論理は有害でしょうか? 釈尊は、論理を用いて教えを説かれたのでしょうか?

 私が仏教の核心だと考える「無我」がどのように説かれたか、三枝充悳「初期仏教の思想(中)」(レグルス文庫)第6章でみてみましょう。極おおざっぱな拾い出しですが、論理を否定しているように見受けられるものと、肯定しているようなものと、両方があります。(同書のページと行頭の番号のみを記して、経典名は省略。)

 <否定的なもの>
P380 1037 識別作用が止滅することによって、(中略)この名称と形態とが滅びる。
 (論理の前提である識別作用の否定を説いているので否定の方にあげましたが、この説き方には論理的な響きがあるようにも思います。)
P382 1076 (前略)あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまった。
P400 813 (前略)見解・学問・思想のどんな事でも、とくに執着して考えることがない。(後略) (この前後には一定の見解に固執して論争することへの戒めが並んでいる。)
P403 894 (前略)一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 <肯定的なもの>
P385 1107 (前略)真理(法)に関する思索を先に行うこと、これが無明を破ること、了解による解脱である。
P406 975 (前略)適当な時に理法を正しく考察し、(後略)

 こうしてみると、論理否定の言葉の方が多そうです。しかしながら、無我を説いておられる言葉そのものは、噛んで含めるような論理を使っているものが多数あります。短くて典型的なものをひとつあげると、
P457 35-141 眼は無我である。眼が生起する因であるものも縁であるものも、それもまた無我である。無我から生じた眼が、どうして自我であろうか。(後略)
 もう一つの仏教の核心である縁起については、これはもう「XがあればYがある」という教えの形式そのものが既に論理ではないでしょうか。
 また五蘊とか六処だとか、仏教の教えは相当に分析的(=論理的)でもあります。五蘊のどれも自分ではない、と結論づけられた背景には、自分とはなにか、様々に考え追求された釈尊の姿が伺えると思います。自分とはなにか、何故人は苦しむのか、何故人は生きるのか、釈尊は、考えに考え抜き呻吟されたに違いありません。
 今ある形に経典がまとまったのは、釈尊の死後数百年たった後だといわれますし、釈尊その人は論理を否定しておられたと仮定することは可能かもしれません。私も、釈尊の解脱体験そのものは、言語化不能の体験であったかもしれないと想像します。しかし、その言語化不能の体験は、自己や苦や生きることの意味などを論理的にさまざまに考察・検討し突き詰めたればこそ、得られたのではないでしょうか? 禅風に言えば、立てられた竿を登って登って登り詰めて、竿の先に立って、もうこれ以上登ろうとすれば落ちるしかない、というところまで突き詰めた挙げ句、さらに一歩踏み出したところの心身脱落が戯論寂滅であろうと思います。

 自分とはなにか、何故生きるのか、そもそも仏教に教えを求めるに至った自分の問題を忘れ去って、ひたすら息を整えて座ることが何かをもたらしてくれるとは私には思えません。逆に言えば、そんなに簡単に忘れられるような問題であれば、仏教に答えを求める必要もないでしょう。ああでもない、こうでもないと考えざるを得ないからこそ、我々は仏教に行き着いたのです。様々な試行錯誤・検討が、釈尊にとって必然であったように、論理的追求は我々にも必要な過程だと考えます。

 ただ、とはいっても、私は論理だけで仏教が理解できると言っている訳ではありません。松本史朗先生の「釈尊その人が、”思考の停止”を意味する禅を仏教の修道論の枠組みの中に取り入れた時、仏教は、智慧を否定することによって、その智慧の対象である仏教そのものを本質的に否定する契機を、仏教の中に取り込んでしまった」という言葉(「禅思想の批判的研究」大蔵出版 P4)には反感を覚えます。
 「すべては無我なる縁起の現象である」という教えが仏教の核心だとしても、論理の上では、それは誰にでも分かるあたりまえのこと。しかし、自分自身が無我なる現象であると分かるところまでは、論理では突き詰めることができない。なぜなら論理で自分を考えても、それは対象化されたノエマ的自己でしかなく、時々刻々働いている自己ではない。無我なるそのつどのノエシス的働きとして無我と縁起を知るためには、論理を超えた宗教的体験が必要だというのが、私の推測です。(ノエシス・ノエマという概念は、谷さんという方から教えてもらったものです。「あたりまえ、、」HPの意見交換を見て下さい。)

 まとめると、論理的に学ぶことと、座ってひたすら息を整えることに集中することと、両方が必要だということになります。(なんと折衷的で常識的な結論。こんな結論のために、これだけごちゃごちゃと書く必要があったのでしょうか? 苦笑)

 次に、二つ目の宿題、少林窟ホームページの感想、といっても全部を見ていないので、お勧めの「般若心境提唱」の第5回までについての感想となります。

 実は最初にメールを頂いて少林窟HPをご紹介頂いた時、「般若心境提唱」の第1回の本文だけざっと読んで、「ああ、例のごとくの禅僧の説法だな」と感じ、遠ざけていました。
 たとえば、「認識、知識をもって聞いてはならん」「全身耳になって只聞く」「いきなり正法の人になる」「分からぬ者が分からぬだけです。摩訶、と言ってご覧なさい。それそのものでしょう。(中略)認知し言語的に定義付けしてしまうから、単なる概念となり、単なる情報となって、そのものの絶対世界、無限世界がわからなくなってしまうのです」などといった言葉に正直言って反感を感じました。一般的に禅の解説書には、解説にも、あるいは日本語にさえなっていない文章が多く、もったいぶった言葉で読者をけむに巻き、「座らない奴には分からん」といった態度のものが多くて、辟易します。少林窟にもそんな印象を持ってしまったので、「訳の分からん文章を読んで、感想を書くのはつらいなあ」と思い、これが返事の遅れた理由の一つでした。
 ところが、ようやく重い腰を上げ、プリントアウトして読んでみたら、意外にも私の考えていることと通底するのではないかと感じました。
 最近、<そのつどの無我なるノエシス的働き>と<いつも化システム>という着想を得ました。(詳細は、ホームページの小論集「いつも化システム 云々」と意見交換のページ10/15谷さんへの返事を見て下さい。)
 少林窟が、「心を拘束する連鎖性のシステム」とか「心の癖」といっておられるのは、私の言う<いつも化システム>と非常に近いように感じます。「瞬間の今の現象」とか「瞬間瞬間に作用し、瞬間瞬間に終わっているこの作用」といっておられるのは、私の「そのつどの無我なるノエシス的働き」と似ているように思います。少林窟からすれば、「いっしょにするな」といわれるかもしれませんが、、、。色受想行識を、心を拘束する連鎖のシステムとして解釈しておられるのも、なるほどと感心しました。

 少しだけ気になったのは、「心の癖」を断ち切って、「瞬間瞬間の今の作用」となったとしても、そのままずっと「連鎖性の切れた」状態でいることはできないのではないかと思いました。お話の中に、海外に道場を作るとか、科学者の研究に協力するとか、人作りとか、公益とか出てきましたが、そういったプロジェクトを計画し実現していく為には、「心の癖」「いつも化システム」の働きが必要なのではないかと思います。無我なる瞬間瞬間の作用だけでは、菩薩は実社会で身のある働きはできず、なんらかの「いつも化システム」を必要とするだろう。それは、自己の無我を知らない凡夫の「いつも化システム」とどう違うのか。
 (こんな事は、「いつも化システム」を解体できた暁に悩めばいいことですね。)

 一つ一つの動作を客観視して意識を集中して行うとか、腰をひねることが、「連鎖性を切る」ことになるのかは、実際にやっていないので分かりません。でも、テーマが中国の禅語録ではなくて、般若心経だったせいか、禅にしては論理的であり、インド的な分析も保持しているように感じました。(勿論これは、私にしてみれば、よい意味で言っています。)
 今の私は、座ることがまるでなくなっているので、もっと座らねばならないのだろうなと反省しました。でも、ついついパソコンに向かいながら酒を飲んでしまう軟弱者です。

 是非またお便り下さい。お待ちしています。ありがとうございました。

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