曽我逸郎
 久しぶりにメールさせていただきます。
 木村敏氏の本を曽我さんも読んでおられたとは、お互いいろいろなところでつながっているものですね。
 私は、木村敏と中井久夫の二人の書いたものからしか精神医学を知りません。精神医学全体の中では両者は現象学派とか人間学派と呼ばれて、やや過去のものとなってきているようです。最近、脳の生理学的研究が大きな成果を上げて、従って精神病も薬で治す時代になっているらしく、哲学的なアプローチ(治療としては対話中心)は以前ほど顧みられないらしいのですが、それはそれとして、両氏の著作の中では、精神病(というより専ら分裂病)という「特殊」な人間のありかたの研究を通じて、人間一般のありかたが、単なる哲学理論よりははるかに地に足がついたものとして解明されていると思われます。
 木村氏の著作としては『時間と自己』の他、論文集『分裂病の現象学』『自己・あいだ・時間』を読みました。それより7〜8年あとに『生命のかたち・かたちの生命』『偶然性の精神病理』も読んではいるのですが、これらの方は内容がほとんど思い出せません。相対的に若かった頃の読書は血肉となり、年をとってからの読書は(なまじ理解力はついているだけに)読んでいる最中はよくわかったつもりでも、読み終わってしばらくすると何も残っていない、という悲しい現実があります。だから最近は本屋へ行くことをかなり自制しています。……最初から話が脱線気味で申し訳ない。
 『時間と自己』で、「自己」とはどのような構造を持つものとされているか、復習のつもりでまとめてみます。

A.物心ついて以来の「自分に関する」記憶の束としての自己。誰かに「自己紹介」する時の中身として語られるような自己。「自己確認」という時の「確認」の対象となる(「確認」される)自己。これは、これこれのものとして対象化され語ることのできる「ノエマ的」自己である。主語としての自己、主役としての自己、とも木村敏は言っている。
B.我々が何かを知覚する時、その知覚に伴って「その知覚は『自分の』知覚である」という了解が与えられる。あるいは、何かをしている時、「それをしているのは自分だ」という了解が与えられる。あるいは、木村氏の言い方を忠実になぞれば、音楽に聞きほれて一種の放心状態にあったのがふと「我に返って」音楽を対象化したとたんに、「対象(音楽)ではない」ものとしての「自己」が措定され、「この音楽を聴いているのは自分だ」と了解される。このようにして了解される自己。自己そのものが意識の志向対象になっているわけではないから、「ノエシス的」自己であり「述語的自己」である。
AB.両者は互いに相手を前提とする。Aは物心ついて以来のBの積分的集積であるし、Bは、安定的に確立されたAという「標的」がないと十分に機能してくれない。
 分裂病患者はAが十分に形成されておらず、従ってBも十分に機能しない。直接の症状はBの機能不全の方にあらわれ、知覚は正常でありながら、その知覚が自分の知覚ではないような感じを抱いてしまったり(離人症)、他者が自分の頭の中に入り込んで自分に代わって知覚したり行動したりしているように感じたり(させられ体験)、そのような了解を合理的に納得しようとして、自分が終始監視されているとかつけねらわれている、といった分裂病特有の妄想に陥ったりする。

 曽我さんの解釈ともだいたい一致されたでしょうか。
 確かに仏教では「無我」を言いますが、分裂病の患者にとってはそれはぜいたくな話で、人並の「我」を確立・保持することが困難な課題なのです。
しかし、分裂病患者のそのような状態は、仏教の示す真実の姿に隣接していることも確かです。原始仏典には「〜は我に非ず、我所に非ず」という表現が頻出するのですから。
 木村氏は『分裂病の現象学』の中で、分裂病患者の直面する状態を禅僧が修行中に直面する状態に等置して「大疑現前」という言葉を使い、「自己と対象のすべてが疑わしいものとなり、虚無の深淵に差し掛けられる危機」と書いています(P163)。ただし禅僧の場合は、そこを突き抜けた境地とそれ以前の「平常底」との間を自在に往復できるのに対して(P215)、分裂病患者はその「大疑」の中に宙吊りになって苦しみ続けることになるのでしょう。前述の中井久夫『最終講義』にはそのような症例が多く載せられており、鬼気迫るものを感じました。

 以下は、問題提起を含みます。
 『時間と自己』の終わりの方で木村氏は、てんかん患者の「イントラ・フェストゥム」(「現在」のみ。祝祭の唯中)の時間性を禅に類似したものとしています(P143)。また『自己・あいだ・時間』(P136)では、ハイデガーの時間把握が未来を優位においているのに対して、しばしばハイデガーとの近縁性を言われる禅思想は「現在優位」的な存在把握の上にたっている、と書いています。
 確かに『中論』では個々の対象存在、存在間の因果関係、自己、連続的変化、等がみな否定されます。『中論』では強引とも言える論理で主張されているこれらのことが心理的に「了解」されるのは、まさに過去とも未来とも関係を持たない「永遠の現在」の時間性においてであるかと思われます。瞑想を中心とする修行によって、普段の「平常底」の状態から任意に、「永遠の現在」の了解をかみしめる瞬間を引き出すことができるようになるのかもしれません。(このあたりは全く修行実践の経験を持たない私では推測しかできないところです。経験を教えて下さい。)
 そして、てんかん的な「永遠の現在」の経験は「愛の恍惚、死との直面、自然との一体感、宗教や芸術の世界における超越性の体験」(『時間と自己』P134)であると確認されています。これも確かにその通りと思われます。そういえばてんかん患者も自分の発作を嫌なものとは思っておらず、発作を心待ちにする気配さえあるそうです(『時間と自己』P141)。ややアブナイ話ですが、ドラッグの効果(堅苦しく言えば、ドラッグの効果として与えられる心理的「了解」)というのも同様のものではないでしょうか。
 しかし問題は、木村氏がここで祝祭的「現在」について語る時、それが自他未分化(これは我々の間で問題になっていた用語でした)の意識の始源への還帰とされ、人間が原始的な共同体から個人として分離する以前の桃源郷の復活である、とされていることにあると思われます。

「系統発生的にも個体発生的にも、われわれが「自己」の観念を獲得する以前には、世界にはいわば天地の間にみなぎる無記無差別の大いなる自発性がみなぎっていてわれわれはこの自発性と一体になって、この自発性そのものをいきづいていたのであろう。」(『自己・あいだ・時間』P194)
「死は、ある期間の生という姿をとる以外は自らを成就することができない。これは、自他の区別以前の普遍的一者がわれわれ各人の生命的個体においてはじめて自己として現成しうることに対応している。」(『分裂病の現象学』P354)

 このように、諸個人の意識の「始源」をノエマ的に想定する文章を読んだ時、本覚思想と同様の、ある種の危険を感じざるをえません。
 われわれが「そこから来て、そこへ帰ってゆく」何ものか、「自他未分化」の母胎のようなもの、そういうものがあってほしいと、私も思います。しかし、ほんとうには、それはきっと無いのです。我々の意識の出発点が自他未分化のものだったことは事実でしょうが、死んで(あるいは修行によって)それに「帰る」、というのは願望にすぎません。我々は「帰る場所のない」旅人としてこの世に生まれて来ているのです。そのように考えないと我々は幼少時の母親との関係性や家庭環境に一生束縛され、いったんそこから離脱しても最終的にはそこへ帰ってゆくのだ、ということになってしまいます。これでは個人の一生はある意味での自同性に縛られていることになり、ひいては歴史というものも存立しなくなります。
 ではどうなるか。
 一方に、祝祭的(精神医学で言えばてんかん的)「現在」において人が至り得る世界、あるいは禅の修行によって至り得る世界、換言すれば『中論』の主張することが帰謬法ではなく心理的な了解として与えられる世界、があります。このことは私は認めたいと思います。
 もう一方に、木村氏始め多くの人々が魅惑を以て提示するところの、自他未分化の「母胎」があり、それは(現代の市民社会への批判を含意しつつ)歴史的には共同体解体以前の個即類の世界、人類の喪われた「始源」として想定されています。しかし、70年代思想の屍を見た私としては、それは物語にすぎない、と思います。その限りにおいては私も袴谷氏らの「本覚思想批判」に賛同します。
 つまり、両者は(木村氏の言うようには)一致しないわけです。 そして、仏教でも、この両者は一致しないと思います。なぜなら「無明」ということを言うからです。仏教では、十二因縁すなわち仮に「行」と名付けられたノエシス的潜勢力の変転の出発点は「無明」です。「始源」は決して理想郷ではないのです。このてんでは我々はハイデガーよりもフロイトに学ぶべきかもしれません。フロイトは隠された自分の無意識に対して、「ここ掘れワンワン」で宝物が出てくるとは言わず、地上では見たこともないような醜いもの・ネガティヴなものがいっぱい出てくると言ったのです。
 このように考えれば、我々の一生は円環ではなく、折りに触れて祝祭的な時間に接触しては「無明」に戻り、ということをくりかえし経験し、さらに縁ある衆生であれば、それなりの方法を経た上で恒久的に「無明」から脱した状態で「死」を迎える(涅槃)こともできる、ということになるではないでしょうか。
 ご意見をお聞かせ下さい。
     ***
 では、残る暑さの中をお元気でおすごし下さい。草々
             99.8.10.


谷真一郎さんへの返事(99年9月15日)

谷様

 例によって返事が遅くなったお詫びから始めます。すみません。メールを頂いた時は刺激を受けて頭の中でジャイロがヒューンと回り始めたような気がしたのですが、たちまち軸がぐらぐらとぶれて収拾がつかなくなっています。

 先に書きやすいテーマから。

 無明に関して、フロイトの無意識を持ってこられたのは慧眼だと感じ入りました。我々自身の底でありながら、我々自身が目を背けたくなるような、どろどろした、醜悪でおぞましい、我々自身にはどんな処理の仕様も無いような得体の知れないものが、果ての知れぬ深さまで積み重なりとぐろを巻いている、、、確かに無明とはそのようなこと、言われてみればそのとおりです。
 私の無明の解釈は、「無我・縁起を知らないこと」、「知らないが故に執着すること」でした。なんと深みの無い plainな解釈でしょう。宗教的な深みに欠けると反省せざるを得ません。
 気多雅子「宗教経験の哲学」(創文社)でこんな文章を見つけました。
「親鸞の決定論において眺めやられているのは、連綿と果てしなく溯る自らの過去生である。そこにおいて自己が何をしてきたかはまったく知られない。それは、それに対して自己が責任を負いきれるようなものでないにも拘わらず、恐るべき力で自己を規定する闇の部分である。」
 私は輪廻を否定しています。無我であるのに何が輪廻するのか?と。この考えは、今も正しいと信じます。しかし、同時に、このような単純な論理ですましてしまえる感覚は宗教としての底が浅いのではないか、自分は人の生について、正しく見ることができているのかという思いもどこかにあります。
 先日戸田さんという方から、我々は、他者の命・死によって生きているとの主旨のメールを頂きました。なるほど数十億年の昔に地球上に命が誕生して以来ずっと、私は(あるいは、わたしの遺伝子は)誰かの死を待ち受けて死体にかぶりつき、あるいは、誰かを殺してむさぼり食いして、生物進化の系統樹をよじ登ってきた。そして、今も無数の命を犠牲にしながら生き長らえていく。
 暗澹とした気分になってしまいますね。「あたりまえ、、」で食物連鎖の比喩を使いながら、こういう原罪的な縁起の側面は見えていませんでした。
 十数年前に雨の夜に日本海で泳いだことがあります。防波堤からそう離れていないのでせいぜい水深数メートルの筈なのですが、真っ暗な水の中に手を掻き足を掻いていると何千メートルの深海から見たことの無い不気味で巨大な生き物が今にも上がってきそうな恐怖を感じ、長く水の中にいることができませんでした。
 仏教としてというより、宗教としての深さを持つために、フロイトの無意識的なものや原罪的なものなど、理性の及ばぬ深みに潜む不安や恐怖に対する感覚を持ち続けたいと思います。
 今のところ、それがすぐに私の仏教理解を変化させることはないかもしれませんが。

 次に軸がぐらぐら揺れ始めた方の話題、自己の問題です。(うまくまとめられるか?)

 木村敏先生の本を読んでいる時も、何度も「ノエシス的自己=述語的自己」という表現に引っかかりました。当時の私は、ノエシス的自己=主体の自己、ノエマ的自己=対象化された自己、という理解から、「ノエシス的自己がノエマ的自己を対象として立ててそれを名づけたり評価したりしている」という図式(英語の文型で言えば、SVOC)で理解し、イメージ的に、ノエシス的自己=主語的自己、ノエマ的自己=述語(部)的自己という捉え方をしていました。そのため、木村先生の本で「ノエシス的自己=述語的自己」という記述にぶつかるたびに、脳みそを反転させて、「ノエマは対象として立てられて名づけられ判断されるのだから主語的、ノエシスは対象化されずに働くだけなのだから述語的」と自分に言い聞かせながら読んでいました。
 メールを頂いて、この「ノエシス、ノエマ、主語、述語」を頭の中で復習しているうち、やっかいな問題に気づきました。
 述語的自己とは、「そのつど的」自己ではないでしょうか? 禅風に言えば、行住坐臥喫茶喫飯、そのつどそのつどにしがらみなく働いている自己。いや、自己と言うとノエマ的になってしまいますね、そのつどそのつど働いている働き。
 だとすれば、ノエシス的自己は、もともとはじめから無我なのではないか? ノエシス的働きには、自己意識とか我執とかは最初から無縁なのではないか?
 私は、「ノエシス的自己の無我を知るには、それが本当の主体の自己についてであるがゆえに論理・言葉・戯論は届かず、主客対消滅の体験を必要とする」と主張してきました。その背景には「ノエシス的自己が自己を対象化し、対象化したノエマ的自己に執着している」という現状理解の図式がありました。
 しかし、執着するためには、まず執着の対象を持続性のあるものとして捉える必要があります。もし、ノエシス的自己が厳密にはそのつどの働きであり、持続性とは無縁であるなら、執着とも無縁なのではないか?
 であるなら「俺が、、」と思い、ものに執着し、我執をもつのは、実はノエマ的な自己であるのかもしれない。ノエマがノエマを対象化する? 対象化された自己が自己を対象化する? 「自分自身が原因となって自分自身を生み出すことはない」と龍樹菩薩にしかられそうですが、あたかも、何も無かったところに鏡を置いたら、幻影が幻影を映しあって像を結ぶかのごとく、シュールな現象です。蘆束の比喩のように理解しやすくはありません。もっと考えてみれば、物理学の「無から物質と反物質の粒子が対になって生まれる」と言うのも、常識的論理からすればシュールな話で、主客対生成にもつながっているのかもしれません。
 自我意識・我執について考えるなら、客体がノエマ的自己であるのは当然として、執着する主体も実はノエマ的自己ではないでしょうか? ノエマ的主体自己とノエマ的客体自己が対生成する? 「ノエマ的主体自己」は矛盾名詞でしょうか? 「白い黒板」のように? でも、白い黒板(ホワイトボード)もありますよね。
 自己紹介する時の自己(ノエマ的自己)と純粋にそのつどの働きとしての自己(ノエシス的自己)の間に、もうひとつ自己の階層を置きたいのです。正確には、ノエマ的自己を二つのレベルに分けたいのです。自己紹介の自己というか、ペルソナの自己、対外的な仮面の自己とそれとは別の自分にとっての自己に。
 A:ノエシス的自己:無我なる現象であるそのつどの働きとしての自己
 B:我執のノエマ的自己:自己にとっての自己。自己を持続性一貫性あるものとして捉え自己に執着している自己。ペルソナの下の顔。
 C:ペルソナのノエマ的自己:社会的対外的な自己。自己紹介の自己。仮面の自己。本来の自己とは考えられていないので、持続的一貫的なものとは考えられていない。一時的な自己。上記Bの我執の自己に演技を強いるため、我執の自己からは往々にして「非本来的自己」として疎まれている。
 我々がその無我を認識し一旦破壊しなければ行けないのは、いうまでもなくBの我執の無我です。
 そのためにはどうすればいいか? 私のこれまでの「本当の主体の無我を知るには戯論寂滅の主客対消滅の経験による他はない」という主張は、もはや無効でしょうか? 本当の主体とは、Aのノエシス的自己であり、ノエシス的自己は、本来無我なる現象であり働きであり、もともと執着とは無縁だと結論づけてしまいました。我執のノエマ的自己にこそ無我を突き詰めなければなりません。では、どうやって?
 (独楽が暴れ出して、もうほとんど収拾がつかなくなっています。<苦笑>)

 Bの我執のノエマ的自己を考えるのに、動物行動学の研究が進めばなにかヒントをくれるかもと思っています。「意識する動物たち」(青土社)を読んだのですが、一定レベル以上の鳥や哺乳類は自己はともかく外の対象(えさとか天敵とか親とか)については一貫性ある持続的なものとして見ることができるようです。しかし、それも単なる条件反射であるといわれればそうかもしれず、まして、自己を持続的なものと捉えているか(自己意識があるかどうか)までは、なかなか研究が進みそうもありません。私としては、人間だけがBやCを持ち、その他の動物はAだけで生きているとはとても思えないので、きっとそのうち動物の研究がなにか教えてくれると期待しています。(まるで執着することが生物進化の必然的展開のような論理になりましたが、実際そうなのかもしれません。)

 さらに論旨が暴れて恐縮ですが、実は、松本史朗「禅思想の批判的研究」(大蔵出版)で、
「釈尊その人が、”思考の停止”を意味する禅を仏教の修道論のわくぐみの中に取り入れたとき、仏教は、知慧を否定することによって、その知慧の対象である仏教そのものを否定する契機を、仏教の中に取り込んでしまった、、」という一文を第1章「はじめに」に読み、むっとして「松本史朗批判」をものそうと企てていました。その批判の論理は「本当の主体の自己の無我を知るためには、論理・戯論は役に立たない。本当の主体は論理・戯論の対象化の枠組みからは無限遡及的に逃げていく。従って、思考・論理を超えた戯論寂滅・主客対消滅の禅定体験が必要である」という、谷さんにとっては聞き飽きたものだったのですが、これまで書いたとおり、肝心の「本当の主体」がぐらついてきました。しかし、それでもなお、実はこの論理に愛着を持っているので、何とか組み立て直して松本史朗批判をいつか無謀にもやってみたいと思っています。

 いつもながらまとまりの無い文章ですみません。谷さんのメールから受けた刺激が大きかったせいですので悪しからずお許し下さい。

1999、9、15、 台風通過の神戸にて    曽我逸郎

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