曽我さま、メールありがとうございました。新潟の戸田です。
At 22:38 99.9.7 +0900, 曽我逸郎 wrote:
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>確かにおっしゃる通りですが、縁起ということの意味は「他の命を犠牲にすることによって私は生き続けている。だから、他者の死を利用することは仕方のないことだ」というより、「様々な条件によって私はさしあたり今生きており、その条件がなくなれば、あるいは、別の新たな条件によって、私という現象はこの次の瞬間終息するかもしれない」ということだと思います。わたしとは条件次第でいつ終息するかもしれない現象である、それが縁起として釈尊が教えようとしたことだと思います。
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 成程。ただ、病気で苦しんだり死んだりしたくないのは大変自然なことで、現実的な治療法として臓器移植があるならばそれを受けたいというのも自然なことである気はします。お盆には墓参するくせに仏教を知らない情ない者なので質問させていただきますが、医療は「苦」からの脱出の一つの方法ではないのでしょうか。

>提供した人が特定されないまでも、どんな趣味を持ち、どんなスポーツをし、どんな仕事をし、どんな夢を持っていたか、くらいは知られるべきではないか。それでこそひとりの生きた人の死がわずかなりと感じ取れる。ヘリコプターで運ばれるジュラルミンケースしか、提供した人の象徴として報道されるものがないのは、やはり変だと思います。

 むしろ、提供を受けた側が、臓器提供者が誰であるか知るべきだと思うのですよ。災害救助でレスキュー隊員や自衛隊員が命を落した時、救助された人は隊員の菩提を弔うでしょう。それと同じです。そうでなければ遺体や臓器は只の医療材料になってしまいます。そうではなくて、そこには一人の人間の一生が詰まっているのだと。

 無論、提供側の意思がないかぎり、臓器受容者以外は臓器提供者を知る必要はありません。そんなことをしたらマスコミの餌食になってしまいます。

>葬式仏教と揶揄される今の仏教に突きつけられるべき課題は、ターミナルケアではないかと思います。死を目前にした人に、世界と和解し、自分が縁起の現象である事を受け入れ、死を受け入れられるようにする。ターミナルケアは、仏教の力が最も先鋭的に問われる場、試金石であろうと思います。

 そこは医療の手の届かない所ですから。

 上では話題を臓器移植の受け手に絞っていたのですが、良く考えると提供側は正にターミナルケアの問題になるわけです(患者に加え、縁者のケア)。「脳死」という、ある意味で目に見えない死を扱う場合、ますます問題が深くなります。臓器移植の議論の違和感の一つは、提供側への説得を当の医者がやる所にあります。医者は病気に負けたのに…

>ターミナルケアを考えるためのいいアドバイスがあれば是非頂きたく、宜しくお願い致します。

 差し当り現場と無縁の人間になっていますが、何かあれば御連絡いたします。

#なお、HTMLメールは御勘弁下さい。うちではゴミにしか見えません。

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Haruo Toda,


戸田さんへの返事(99年9月12日)

戸田様

 メールありがとうございます。

 さっそく苦について思うところを述べます。

 HPの「釈尊成道の過程」でも書いたとおり、苦にはいくつか種類があると考えます。そのうちの第1、「生理的な苦」は、仏教には治すことはできません。仏教は呪術や超能力ではないのですから。
 一部の胃潰瘍とか、心因性のものは治せるでしょうし、体の持つ抵抗力とか自然治癒力とかを高める効果も仏教にはあるかもしれません。しかし、加持祈祷・神通力みたいな力によって直接に病気そのものを治すことは、仏教にはできません。釈尊自身が、晩年背中の痛みに苦しめられています。

 愛する子供を失った母親が子供を生き返らせてくれと釈尊に頼んだ話があります。釈尊はその依頼を受け入れ、胡麻(麦だったかもしれません)が必要だから持ってくるように、ただしその胡麻は今まで一度も死者を出したことのない家のものでなければならない、と答えます。喜んだ母親は胡麻をもらおうとあちこち尋ねますが、死者を出したことのない家はどこにもなく、駆け回るうち、やがて母親は誰でも人は例外なく必ず死ぬことを悟り、釈尊のもとに出家します。

 生理的な苦は、無我なる縁起の現象であるという我々の本質に根ざしており、けしてなくすことはできません。仏教にできることは、執着によってその苦をさらに別な苦に拡大することを止めさせること、そしてその苦を受け入れられるようにすることです。
 医療にしても生理的な苦から我々を完全に「脱出」させてくれるわけではありません。しかし、医療は、生理的な苦を弱めたり、先送りにしたりすることができます。これは仏教にはできないことです。医療と仏教は守備範囲が違うのです。

 仏教が守備範囲にする苦は執着による苦です。私たちの苦しみの大半は執着によって我々自身が生み出したものだと思います。執着の対象が無我なる縁起の現象である事、我執の対象である自分が無我なる縁起の現象である事を知ることによって、執着を吹き消し、執着に基づく苦を吹き消すことができる。これが釈尊が教えてくれたことです。生理的な苦は脱出不可能ですが、執着による苦は吹き消すことができるのです。

 確かに病気で苦しんだり死んだりしたくないのは自然なことで、脳死臓器移植があるなら受けたいというのも自然なことでしょう。しかし、釈尊は自然なことを肯定されたわけではありません。我々凡夫にとっては、物や金や地位や権力や名声や永遠の若さに執着することは「自然な」ことですが、釈尊の教えは、執着という「自然な」ことを吹き消せということでした。

 戸田さんとのやりとりを通じて、無記について考えました。無記と言うのは、仏教における判断停止みたいなものです。世界が時間的空間的に無限か有限かとか、死後生の有無などを尋ねられても釈尊は答えませんでした。「このような問いにどんな見解を持っても苦を吹き消す役には立たない。私の説いたことは説いたこととして聞き、説いていないことは説かれないままにせよ。」
 釈尊のこの態度を形而上学の否定、経験的認識の及ばぬ先については認識が及ばぬと正しく認める態度として高く評価する方々がいらっしゃいます。(例えば佐倉哲さん。「あたりまえ、、」のリンクのページからHPへ飛べます。)
 でも、正直に言うと、死後生の有無について無いと明言されなかったことは、私には不満でした。仏教の核心である無我・縁起と死後生は相容れないと考えるからです。しかし、確かに無我・縁起を知らないうちに「死後生はない」と説かれたとしても、いたずらな議論と混乱を引き起こしただけだったでしょう。無我・縁起を知ることに集中すべきなのです。その結果、死後生の有無はおのずと明らかになるでしょう。無記は正しい戦術でした。

 長く生きられるようにするのが医療の仕事で、よく生きられるようにするのが仏教の仕事なら、医療に何の貢献もできない私としては、無我と縁起について皆と考え、自分自身と他の人々が少しでもよく生きられるように、できることをやっていきたいと思います。(このHPがそうなのですが、目的に適っているでしょうか?)
 今後は脳死臓器移植には無記で臨み、無我と縁起について考えることに集中したいと思います。

 追伸:HTMLメールをお送りしてご迷惑をかけてしまったようです。HTMLにしたつもりはないのですが、途中まで書いては Outlook Express 他で自分当てに別のコンピュータに送ったりしたので、どこかでHTMLになってしまったのかもしれません。戸田さんだけでなく他の方にも同じ迷惑をかけているかも。申し訳ありません。今回はエディタで書いて Outlook Express でお送りします。なにか問題が発生していれば、お手数ですが、お知らせ下さい。

 今後ともよろしくお願いします。

1999、9、12  曽我逸郎

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