曽我逸郎
 こんにちは。この前は、返信どうも。あの時は7割くらい読んだだけだったのですが、今回は、本文は全部、脚注は大体読みました。
ひとつ気になったのは  存在の否定=現象の場 で、
>風が現われ、そして消えた。しかし、なにも増えたものはなく、減ったものもない。空気が動いただけで、その量に変わりはない。はたして風という「もの」が存在したのだろうか?
 これは不生不滅、不垢不浄、不増不減をエネルギ−保存の法則?で説明していると思いますが、多分あくまで禅の立場からとおもいますが、そう捉えるのではなく、不生不滅、不垢不浄、不増不減という事実はあるけれども、それを言葉では認識しない。したがって感情でも認識しない。そこが涅槃で、空、平等である。
 しかしそこにもとどまらず、平等即差別の真空不空へと、変わらなければならない。ということだと思いますが。
 以上です。失礼しました。

いってん


いってんさんへの返事(99年9月12日)

いってん様

 メールありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。

 「あたりまえ、、、」の風の比喩を思い付いた時、残念ながらおっしゃっているような不生不滅、不垢不浄、不増不減やエネルギー保存の法則が頭にあったわけではありません。無我・縁起をどう説明すればいいかと考え、思い付いた比喩があれでした。風と名づけ、風と呼ぶけれど、そういう<もの>が存在するわけではなく、風とは空気の動きという現象である。「存在」とは現象を固定して捉えた我々の思い込みによるに過ぎない。存在を否定し、無我なる縁起の現象として世の中を見ることを説明する方便として、風の比喩を考えました。

 頂いたメールの一部を引用します。

>それを言葉では認識しない。したがって感情でも認識しない。そこが涅槃で、空、平等である。

 この考え方は、先回のメールで触れた松本史朗「禅思想の批判的研究」が、批判的に主題としているテーマです。7割方しか読んでいませんが、私なりにラフに要約すると以下のように主張しています。
 「禅が思考を否定する背景には、仏教以前からインドにあるアートマンの伝統がある。あれこれ考えることを止めれば、心臓の中の善悪を超越した清浄なるアートマンが自在に働き出し、行くも帰るも他所ならず、という思想が禅である。したがって禅は、<アートマン思想=反仏教>である。」
 松本先生は、この主張を中国語文献、チベット語文献、サンスクリット他のインド文献の経典論書を突き合わせ、詳細に執拗に論証しています。(どのくらい詳細・執拗かと言うと、読み飛ばしたい、もう止めて次の本に取り掛かりたいと何度も思うくらいです。)

 いってんさんが読まれたら、おそらく腹の立つことばかり書いてあると思いますが、こういう文献学的研究にも敬意を払う必要はあるでしょう。他にもあげるなら、同じ松本先生の「縁起と空」「チベット仏教哲学」、伊藤隆寿「中国仏教の批判的研究」(すべて大蔵出版)の三冊がいってんさんの思考実験の仮想敵にふさわしいのではないでしょうか。「縁起と空」は、松本先生の、というより駒沢大学批判仏教グループの考える仏教内部の反仏教を定義し、攻撃する本です。「チベット仏教哲学」では”サムイェーの宗論”<中国から禅仏教が、インドから中観(+密教)がほぼ同時にチベットに入り、同じ仏教と言いながら両者の主張があまりに隔たっていたため、王様が論戦を命じ、中国禅仏教が敗れたと言う事件>をとりあげています。「中国仏教の、、」は、ラフに言えば、中国仏教は(従ってその分枝である日本仏教も)まるまる格義仏教(老荘思想の焼き直し仏教)的(=反仏教的)展開であるという主張です。

 以上の要約は、私なりの非常に荒いものですから、私の要約を批判されることは結構ですが、本そのものの批判は、是非ご自分で読まれた上でやって頂きたいと思います。いつか気が向いた時にお読みになり、対決されれば、きっといってんさん自身の禅理解も深まり鍛えられると信じます。

 私自身、ここ数年駒澤大批判仏教グループの本には多くのことを教えられ影響を受けましたが、今読んでいる「禅思想の批判的研究」には、違和感と言うか、より正確には反感を覚える部分もあり、近々”批判仏教批判”(なんと大それたタイトル! 受けねらいです。)をまとめてみようかと目論んでおります。(乞うご期待!)

 私自身にとっての禅について触れます。
 私は禅から仏教に入りました。京都でなまけものなりに座禅もし、中途半端な形でしたが何度か大接心にも参加しました。公案も頂いていたので、当時は日常論理を超越した(=論理矛盾した)禅の論理を矛盾のまま一大疑団となって丸のまま飲み下そうとしていました。その後禅寺から遠ざかり、もっぱら仏教研究者の方々の本から多くを学んだ今になって振り替えると、矛盾を矛盾のままいくら考えても得られるものはないのではないかと考えます。
 ただ禅がまったくだめだと言うのではなくて、「あたりまえ、、」の”座る練習”に書いたように、その禅定の技術・方法には学ぶべき事が多いと思います。(偉そうに言いながら、実は長らく全然座っていないのですが、、)

 釈尊の教え=無我・縁起・空は、日常的論理にもまったく矛盾しない、「あたりまえの」教えであり、言葉を通して論理によって学ぶことができます。まず論理によって学ぶことが必要です。喩えて言えば、ピストルの弾が、はじめは銃身に導かれることによって正しい方向を得るように。さもなければ、体験主義者の一人よがりを検証することができません。ただし、無我の理解が法無我を超えて人無我にまで届くには(無我・縁起・空が自己にまで届くには、)、つまり、本当の主体の自分の無我・縁起・空を分かるには、論理だけでは不可能で(なぜなら論理で自己を考えても対象化された自己しか問うことができないから)、主客対消滅の経験を必要とします。定は、この経験を得やすくしてくれると信じます。

 以上、まとめると、仏教=無我・縁起・空を学ぶにはまず論理的学習によらねばならない。しかし、それだけでは不十分であり、主体の自己の無我・縁起・空を分かるには、論理の届かない主客対消滅の経験が必要で、禅定はその経験を得やすくしてくれる。禅の持つ定のノウハウは大いに評価するけれど、最初から論理を破壊する禅のやりかたは間違っている。このように私は考えています。

 是非またお考えをお聞かせ下さい。

1999、9、11、  曽我逸郎

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