曽我逸郎
 初めまして、新潟の戸田ともうします。ご覧の通りmedドメインですが、最近では医療にタッチしていません。

 「あたりまえ」拝読しました。感動しました。ちょっとヘッセを思わせる所は確かにありますが、珍しく少し涙ぐんでしまいました。小さくはかない我々のような存在も、大きな営みの部分である、という種類のパースペクティヴに弱いのかも知れません。

 南北問題といった政治/経済の問題を離れても、わたしどもが食べているのは植物や動物といった生命を犠牲にしているのですし、これ程便利な化石燃料も太古の生物の死によってできたもの、さらには私達の免疫系は夥しい数の細菌(だって生物です)を殺しまくっている… そういう私達も、他の何かを成立させる要因だ…

 さて、表題の臓器移植ですが、曽我さんは反対を唱えられているようにお見受けします。ところが私は、「あたりまえ」を読んで、むしろ逆の感想を持ちました。

 私達が生きているのは他の生物の死を前提としている、これは縁起というものの一つなのでしょうが、臓器移植で救われた患者さんは、まさにこの関係を身をもって示しているように思えます。ある人の死が別の生命を直接救うという。よく考えてみれば、火事などで消防隊員が命を賭して誰かを救った場合も同じ構造ですが、臓器移植は救う側の死が確実である点が、より関係をはっきりさせていると思います。

 ですから、臓器移植で救われた患者さんが、臓器提供者の生命を貰い受けたのだ、という心構えを忘れず、臓器提供者の分まで立派に生きればいいのではないかという風に思うのです。いかがなものでしょうか。

 マスコミの大騒ぎや、臓器売買といったものの醜悪さに関しては全く酷い物だと思っております。


戸田さんへの返事(99年9月7日)

戸田様

お便りありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。

> 「あたりまえ」拝読しました。感動しました。ちょっとヘッセを思わせる所は確かにありますが、珍しく少し涙ぐんでしまいました。

感動して頂いたなんて、こちらこそすごく感激です。

> 南北問題といった政治/経済の問題を離れても、わたしどもが食べているのは植物や動物といった生命を犠牲にしているのですし、これ程便利な化石燃料も太古の生物の死によってできたもの、さらには私達の免疫系は夥しい数の細菌(だって生物です)を殺しまくっている…

まさにそのとおりですね。他の命の死を前提にしてしか我々の生が成り立たない。根源的な罪の構造の上に私はある。輪廻は信じていませんが、生物進化の系統樹の一番根っこからこの私まで数十億年の間ずっと無数の命を食ってきた訳ですね、、

> 私達が生きているのは他の生物の死を前提としている、これは縁起というものの一つなのでしょうが、臓器移植で救われた患者さんは、まさにこの関係を身をもって示しているように思えます。

確かにおっしゃる通りですが、縁起ということの意味は「他の命を犠牲にすることによって私は生き続けている。だから、他者の死を利用することは仕方のないことだ」というより、「様々な条件によって私はさしあたり今生きており、その条件がなくなれば、あるいは、別の新たな条件によって、私という現象はこの次の瞬間終息するかもしれない」ということだと思います。わたしとは条件次第でいつ終息するかもしれない現象である、それが縁起として釈尊が教えようとしたことだと思います。

>ある人の死が別の生命を直接救うという。よく考えてみれば、火事などで消防隊員が命を賭して誰かを救った場合も同じ構造ですが、臓器移植は救う側の死が確実である点が、より関係をはっきりさせていると思います。
> ですから、臓器移植で救われた患者さんが、臓器提供者の生命を貰い受けたのだ、という心構えを忘れず、臓器提供者の分まで立派に生きればいいのではないかという風に思うのです。いかがなものでしょうか。

提供する側の人より、受ける側の人(およびその家族)の方が気になるのです。命が永らえて、よかったよかったで終わっていいのでしょうか? そこに自分の命への執着があるなら、釈尊は決していっしょに喜ばれることはなかったと思います。
脳死臓器移植については、提供する側も提供される側も特定されてはならない、というルールがあるようですが、提供した方(かた)のことは、もう少し分かってもいいと思います。さもなければ、臓器は単にめったに得られない貴重な素材でしかない。提供した人が特定されないまでも、どんな趣味を持ち、どんなスポーツをし、どんな仕事をし、どんな夢を持っていたか、くらいは知られるべきではないか。それでこそひとりの生きた人の死がわずかなりと感じ取れる。ヘリコプターで運ばれるジュラルミンケースしか、提供した人の象徴として報道されるものがないのは、やはり変だと思います。

前回の反省を忘れていました。この問題に関して、治療法の是非を問うのではなく、移植を受ける側を攻撃するのではなく、我々みんなの中にある我執をこそ問題にすべきだ、と反省した筈でした。なのに、また同じ失敗を繰り返したようです。先回も書いたように、特定の治療法や特定の人々を攻撃するのではなく、我々全員が持つあらゆる執着や我執を、それが苦の原因であると説き、執着の対象が、無我なる縁起の現象であり、空である事をなんとか知らしめ、執着を解き、苦を吹き消すのが仏教の努めでした。

>ご覧の通りmedドメインですが、最近では医療にタッチしていません。

葬式仏教と揶揄される今の仏教に突きつけられるべき課題は、ターミナルケアではないかと思います。死を目前にした人に、世界と和解し、自分が縁起の現象である事を受け入れ、死を受け入れられるようにする。ターミナルケアは、仏教の力が最も先鋭的に問われる場、試金石であろうと思います。
「仏教とターミナル・ケア」(法蔵館)は読みましたが、もう少しつっこんで勉強したいと感じています。
ターミナルケアを考えるためのいいアドバイスがあれば是非頂きたく、宜しくお願い致します。

1999、9、7、  曽我逸郎

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