曽我逸郎
曽我さん、はじめまして。

アンケートに対する答えです。

>>まず単刀直入に、面白かったでしょうか?(一つ選択)

まぁまぁおもしろかった。

>>あてはまるご感想を選んで下さい。(複数回答可)

仏教としては許し難いとまでは言えないが釈尊の本心とはかけ離れていると思う。

文章はとても巧いと思う。

思想的にみて残念ながら人も社会も救う力はないと思う。

唯物論が蔓延するこの時代に迎合した間違った仏教だと思う。

真剣に真理を探究していると感じますが経典や仏教書だけでは限界があると思います。
良質の心霊主義の本を読んでみてはいかがでしょうか。

>>本文をどの程度読まれましたか?(一つ選択)

初めから終わりまできちんと読んだ。

<<taka kudouさんは、アンケートフォームの形式をなぞったメールで感想を寄せて下さいました。アンケートのフォームはクリックするだけでお手軽ですので、ご意見頂いていない方は、是非ご協力下さい。>>


taka kudouさんへの返事(99年8月25日)

アンケートにご協力頂き、ありがとうございます。

>仏教としては許し難いとまでは言えないが釈尊の本心とはかけ離れていると思う。

 そうですね。釈尊の本心はどうだったか。これが一番大切なことですね。タイムマシンがあって一回だけ使っていいと言われれば、迷わず釈尊に会いに行きます。直接本心を尋ねられなくても、座っておられる姿を物陰から見、お声を聞いて人柄の一端にでも触れてみたい。
 でもそれができないなら、文献を中心とする残されたものに頼り、適切な想像力を使い、仮説をたて、それを互いに批判検証するしかありません。
 taka kudouさんは釈尊の本心をどう考えますか?
 私の考えは、「あたりまえ、、」もですが、「釈尊成道の過程」のページにもう少し直接的な形で見てもらえると思います。いつかお時間のある時で結構ですので、「成道の過程」へのご感想とtaka kudouさんのお考えになる釈尊の本心について、またメールを頂ければ幸いです。

>文章はとても巧いと思う。

 ありがとうございます。ほんの短い期間ですが、文学青年の時期があったので、このように言って頂けると、デヘデヘとしまりなく喜んでしまいます。

>思想的にみて残念ながら人も社会も救う力はないと思う。

 すみません。方便力の不足です。
 ただ、私の書いたものはともかくとして、釈尊の教え、つまり無我=縁起が、世界の有り様であり、そのように世界を見ることは、執着を減じ、執着に基づく争いや苦を減じ、便利さや快適さの追求とは別の喜びをもたらしてくれると考えるのですが、如何でしょうか? デカルトやニュートンが近・現代の我々の世界観を導いてきたように、無我=縁起が我々のこれからの世界観となれば、我々は、効率とか欲望の充足とかとは別の楽しみを楽しみ、執着と執着による苦からもう少し離れられるのではないかと思います。「あたりまえ、、」を中心とする私のHPは、釈尊の教えが宿しているこのポテンシャルを現実化することにほんの少しでも役立てれば、という試みです。

>唯物論が蔓延するこの時代に迎合した間違った仏教だと思う。

 文学青年になる前は、理科少年だったので、(文学青年の後は仏教おたく中年ですが、、)、理科、特に物理や生物の話は大好きです。いつのまにか根拠もなく思い込んでいたことが、科学的実験や観察に基づく理論によって覆されるのは、足場が揺らぐような不安と同時に、世界が広がったような自由感があって、わくわくします。
 わたしは、無我=縁起は、最も基本的な宇宙の根本法則だと考えています。無我=縁起は、科学をも包摂する理論であり、相対論も量子論も、無我=縁起という大きな真理の一部分を記述したに過ぎないと思う。ちょうどニュートンの理論がアインシュタインの相対論の限定的な近似であるように。
 万が一、無我=縁起に反する事実が発見されたとしたら、それはどんなに些細な事だとしても、無我=縁起に対する反例であり、無我=縁起の無謬性を打ち砕くことになります。私は、無我=縁起をそれくらい基本的普遍的な宇宙の真実だと考えています。
 つまり、私にとって、科学は釈尊の教えに対立するものではなく、釈尊の教え(無我=縁起)を論証するもの、仏教の方便なのです。
 一方、我々の日常的な世界の見方は一面的部分的で偏狭な世界の見方です。執着に捕われた世界観です。そうした世間的世界観と釈尊の教え(無我=縁起)の中間に科学があるといえるのではないでしょうか? 科学理論は、執着に捕われた日常的世界観を突き崩し、我々が無我=縁起を見ることができるように準備をしてくれます。つまり、科学は仏教の方便たりうるのです。
 特に、相対論、量子論、動物行動学、発達心理学、精神病理学などには、方便としての可能性を感じます。はじめの二つは法無我を中心に、後の三つは人無我を考えるための有益な戯論的きっかけになるのではないかと期待しています。
 喩えを思い付きました。私の考えを明瞭に分かって頂けると思います。
 最近脳の研究が進んでいるようですが、脳の生理学的化学的研究が進んで、我々が心といっている働きが、化学物質や電気的な刺激と反応で説明されたとします。それは、けして反宗教的な考えではなくて、それどころかまさに釈尊の教え(無我=縁起)をサポートするものだと考えます。少なくとも心や霊魂の実在とか輪廻を信ずることよりは、はるかに釈尊の教えにかなった事だと思います。
 仏教は科学と相容れないと考える人が案外多いようですが、その考え方は、仏教を執着を離れない日常的世界観のレベルで捉えているからではないでしょうか?

 すみません。読み返してみると、科学万能主義100%のように誤解されそうです。私の仏教理解の全体を再度ラフにスケッチします。
 1)我々の生は苦である。苦には、どうしようもない苦もあるが、ほとんどは我々自身が創り出している苦だ。
 2)我々が苦を創り出しているのは、執着による。
 3)執着は、執着の対象の無我=縁起を知ることによって消すことができる。
 4)執着の対象の無我=縁起を知ることができた時、周囲のあらゆる現象とともに生成する喜びと、それらの現象に対する慈悲が生まれる。

 今回科学について書いたことは、この3)執着の対象の無我=縁起を知るのに科学は方便として貢献する、という点でした。

(99年9月10日加筆:科学の大きな欠点について触れるのを忘れていた。科学では自己を問えない。医学、心理学、精神病理学、人類学、社会学、etc. それらはすべて対象化された自己を、問う自己の向こうに立てて捉えている。問う主体を主体のままに問うことは、科学ではできない。この故に、科学は方便に留まる。)

>真剣に真理を探究していると感じますが経典や仏教書だけでは限界があると思います。
>良質の心霊主義の本を読んでみてはいかがでしょうか。

経典や仏教書だけでは限界があるとは私も痛感します。でも、だからといって、他に何があるでしょう? 考古学や歴史学には貢献できる可能性があると思います。「良質の心霊主義」は貢献できるでしょうか?
 いや、わたしは、taka kudouさんが「良質の心霊主義」といわれるものが何であるのか、まだ把握できていません。お勧めの本を紹介して頂けませんか? それを読んで、釈尊の教えと心霊主義について考えてみます。そしてその結果考えたことを、またこのHP上に掲出し、taka kudouさんはじめ、皆さんのご意見を仰ぎたいと思います。

 お暇な時で結構ですので、是非次のメールをお送り下さい。お待ちしています。

 ありがとうございました。

                  曽我逸郎

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