<あたりまえのことを方便とする般若経読みました。>

 こんにちは、ヤフーで見つけてよみました。私は座禅がいいのではと、思ってます。ご存じかも知れませんが、興味深いホームページを見つけましたので、お知らせします。広島にある、少林窟道場と言うところです。ヤフーの禅のページにのってます。
http://www.potato.ne.jp/~zen/
ここの経蔵にある参禅記は、一般の人が参禅した体験を手記にしたもので、長いけれど面白いです。法堂にある般若心経はすごくわかりやすいです。
それでは失礼します。
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いってん


いってんさんへの返事(99年8月18日)

いってん様         曽我逸郎

 少林窟道場のご紹介ありがとうございます。

 禅については、HPのどこかにも書きましたが、大学時代に臨済宗の某有名寺院に数年通っていました。大接心にも何度か参加させてもらい、老師への参禅もしていました。でも、お世辞にも熱心といえるようなものではありません。

 その後は、就職したこともあり、もっぱら本によって仏教を学んでいます。それも振り返ってみれば、お坊さんの書いたものよりも、仏教学者の学問的研究から学ぶことの方が多かったように思います。

 たまたまメールを頂く直前に「禅思想の批判的研究」(松本史朗、大蔵出版)という本を買いました。まだ読んでいませんが、本に巻いてある紙帯の惹句には「もしも禅が”思考の停止”を意味するならば、禅思想が仏教そのものを否定することは明らかであろう。」と記されています。
 松本先生の本は、どれも非常に刺激的で、「伝統的に仏教といわれてきたものをすべて仏教と認め妥協的に折り合いをつけていこうとするのではなく、仏教と呼ばれてきたものの中から、非仏教的・反仏教的傾向を批判的に抉り出していこう」というその姿勢に、私はずいぶん感化されました。

 しかしながら、これまで読んだ本から、先生は「仏教はどこまでも概念的な認識であり、主客を超えた体験を要請することは、反仏教である」と考えておられるように思い、この点には違和感を感じています。
 私の今の仏教理解は、無我=縁起=空であり、とりわけ自己(ノエシス的自己。考えられ対象化された自己ではなく、主体の自己。主体の自己と言った瞬間、対象化してしまっているわけですが。)の無我=縁起=空を知ることが、仏教の最後の関門であろうと考えています。対象としてとらえたのではない自己の無我ですから、言葉の届かない主客対消滅の体験、戯論寂滅の、概念を超えた智が必要だと考えます。
 言うまでもなく、生きて生活していくためには、主客対消滅・戯論寂滅に止まっているわけにはいかず、時間を置かずに主客が対再生し戯論の日常に戻ってくるわけですが、その時には我執が克服されている筈だと考えています。

 しかし、松本先生とは対極にある禅の、最初から概念的認識を袋小路に追い込み、行き詰まらせるような手法(公案)にも疑問を感じます。
 松本先生のいわれるように、確かに釈尊の残された教えは、四聖諦も縁起説も禅とは対照的に理路整然たる概念的教えです。概念的な検討を積み上げ、無我=縁起=空を考え、自己の無我=縁起=空を追求していった先の先に、主客対消滅=戯論寂滅の体験があって、無我=縁起=空の理解は完成するのだと考えます。

 自分を振り返ってみれば、戒定慧、どれからも遠い毎日の生活で、その中でも定は特に欠けています。もっと禅定に時間を割かなければならないのかもしれないと反省しました。

 行ったり来たりの論旨でしたが、私の禅に対する現在の考えをご理解いただけたでしょうか?

 少林窟道場も読んでみます。「禅思想の批判的研究」も読み終えてなにか思うことがあれば、またまとめてみます。

 いってんさんも「あたりまえ、、」のご感想とか、是非教えて下さい。面倒であれば、アンケートのページをクリックするだけでも結構です。宜しくご協力下さい。

ありがとうございました。

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