早速の返信、ありがとうございました。
私は曽我さんのように全て、自然のなせるままに、の考えとはちょっと違う考え方をしているようです。
まず医療についてですが、昔に比べて技術が進歩したことは人々に幸せを与えました。 昔なら手をこまねいて死へと見送るしかなかった病人が新薬などで健康な社会生活をおくる事もめずらしくなくなりました。
このことだけならお釈迦さまも善哉善哉と言われると思います。

私が思うに、身内の提供する腎臓、角膜、等は移植しても良いのではないか、と思います。家族の助け合いは利害をこえるものだからです。

外国では臓器の売買も行われているとか、日本をそうさせたくはありません。
クローンなどもってのほかです。クローン人の人権を無視しています。

時代が変わっているのは承知してますが、金の亡者にだけはなりたくありませんね。ほどほどこそが最善じゃないでしょうか。

@長田


長田さんへの返事

長田康人様    1999、5、14、  曽我逸郎

 脳死臓器移植について2通目のメールを頂いたまま、2ヶ月近く過ぎてしまいました。

 この間、別の方から「臓器移植と輸血は本質的には同じではないか。曽我の意見は冷酷すぎる」という主旨のご意見も頂きました。(メールは非公開に、とのことで残念ながら詳細は伏せます。)
 長田さんのメールにあった「曽我さんのように全て、自然のなせるままに、の考え」という表現からも、必ずしも私の考えがそのままお伝えできていないように思い、いろいろ考えてみて、自分の判断に性急すぎた部分もある事を発見し、再度メールをお送りします。

 それにしても、仏教徒として現実の重たい問題にどう対処するかを考えることが、自分の仏教を深め、鍛えることになると発見しました。仏教を仏教として考えるだけでは見えてこない問題があるようです。今後も実社会の様々な問題にも目をむけていきたいと思っています。

 では、本題に。

 脳死臓器移植は、輸血同様問題はない? 家族からの生体移植はOKだが、脳死臓器移植は認められない?
 このように「どこまでの治療が許されて、どこからが否定されるべきか」を問うても、意味がないのではないかと思い始めています。

 日本における脳死臓器提供第1号の方が脳死判定を受けていた夜、その報道がその方の死をまだかまだかと期待しているように感じ、移植を受ける患者さんも同様の期待感を共有しているように決めつけて、感情的に脳死臓器移植に関する最初のコメントを書いたのでした。端的に言えば「人の死を待ちわびて、そうまでして生きたいか」をいう気持ちでした。しかし、「人の死を待ちわびて」いたのは報道関係者であって、移植を受ける患者さん達がどんな気持ちだったかは、本当はわたしは何も知らないことです。
思い返してみて唯一記憶にあるのは、ずいぶん前の、移植を受けるために海外へ向かう家族へのTV取材です。当時脳死移植を不可能にしていた日本の制度・法律を攻撃していました。その全体的トーンに、提供することになるどこかの誰かの死に対する気持ちが感じられなくて、違和感を覚えました。「この人は、自分(&家族)の命が永遠でないことに怒っている。この人には提供してくれる人の死は他人の死であって、自分や家族は永遠に生き続けるべきだと思っている」そんな印象を持ちました。
勿論この家族にも様々な葛藤があったことでしょうし、TVでカットされた発言に別のニュアンスがあったかもしれません。安直に移植を受ける側を悪し様に決め付けたことは反省せねばなりません。

 しかし「そうまでして生きたいか」という疑問は、実はまだ私の中で燻り続けています。よくよく考えてみれば、脳死臓器移植だけのことではありません。たとえば、健康オタクの人がいて、運動に励み、健康食品を買い込み、消毒薬・抗菌グッズに囲まれて、他人は汚くて握手するのも嫌、とか、中国古代王朝の不老長寿の仙薬をめぐる争い・陰謀とか、いつまでも生きたいという執着が自己目的化して、生の素晴らしさを見えなくすることを恐れています。(変なたとえですみません。)
 逆に言えば、生への執着がなければ、脳死臓器移植も問題はないのかもしれません。
 たとえば、偉大な菩薩がいて、大勢の人に教えを説き、もうすぐその方便が完成するという時、すぐに臓器移植をしなければ助からない病気になりました。たまたまそこに事故で脳死になった人がいて、菩薩は感謝して衆生のために移植を受け、方便を完成し、多くの人を救うことができた。こういう場合にも脳死臓器移植に問題があるとは思いません。
脳死臓器移植という医療法自体に問題があるのではなく、我々誰もが持つ命への執着を問題にしたいのです。脳死臓器移植は、他人の死を前提としているため、問題が際立つのです。

 私は、けして「全て自然のなせるままに」と委ねているわけではありません。時々は献血もします。病気が長引けば医者にいって薬をもらいます。私はよく生きたいし、そのために努力をする人でありたいと思います。毎日の生活ぶりに目をつぶって言ってしまえば、一切有情のよい生のために努力をする人になれたらいいなと思います。(生活の実体を思うと、果てしなくはずかしい発言ですが、、、)

 「「よく生きるって何?「あたりまえ、、」に「勝義として人生に目的はない」って書いてなかったっけ?」」疑問の声が聞こえてきそうですね。

 どう説明できるか考えていた時、たまたま「パッチ・アダムス」という映画を見る機会がありました。
 ご覧になったかもしれません。生きる意味を失った男が、自殺未遂をして精神病院に入院し、そこの患者をあるきっかけで笑わせ、心を開き、自分も精神的に救われるという体験をする。医者を志し、医学部に入り、患者を単なる患者として扱う医療ではなく、医者と患者とスタッフがお互いに治療し合う(=心を救済し合う)診療所を作ろうとし、、云々という粗筋です。この診療所が大学で問題になり、「まだ医師の資格もないくせに互いに治療し合う等と言って、医療過誤があれば命に関わる」と糾弾されます。そのときパッチは「命がなんだ。死は恐れるべきではない。大切なことは生活の質を高めることだ」と答えます。
 「生活の質を高める」という言い方は、近代進歩史観そのもののようで違和感がありますが(日本語で聞いていたので、英語でなんと言ったのか知りません)映画の他のシーンから察すると多分こういう事でしょう。
 看護婦に物を投げつけ、家族を拒絶する末期ガンの患者がいました。彼は、世界を怨み呪い怒っていました。パッチはやっと彼と心を通わせ、男はパッチに見取られながら、穏やかに死んでいきます。
 「なんでもいいからともかく長く生きること」ではなく「世界と和解し、世界のすべての現象を慈しみ、懸命に生きる有情を祝福し、有情の苦しみを悲しむこと」。後者の方がずっと大切で、これこそがよく生きることではないかと映画を見ながら思いました。

 仏教とは関係のないパッチ・アダムスを持ってきたのは、説明として失敗だったでしょうか。

一連の脳死臓器移植に関するもろもろの報道からは、私たちすべてがいずれ必ず死ぬ、私たちは死に向かっている、私たちは常に死につつあるという視点が抜け落ちていると思います。私たちは無我なる縁起の現象で、生まれ、変化し、いつか必ず終わる。「よく生きる」とは、つまり「よく死に向かう」ことではないでしょうか?

 結論をまとめてみます。

 脳死臓器移植であれ、消毒薬であれ、治療法自体の是非を問うことには意味はない。命に執着して、よく生きることができなくなっていれば、それこそが問題だ。
 なんでもいいからともかく長く生きさせること、ではなく、無我・縁起・空を教え、「よく生きる」ことを教えることが、仏教の本当の慈悲ではないか。

 また是非ご意見をお聞かせ下さい。

<追加>報道へ記者発表するときは、まず脳死した方への黙とうを全員でしたらどうかと思います。セレモニーにすぎないかもしれませんが、なくなった方のためというより、医療関係者、報道陣、そして一般の我々みんなが死を思うための儀式です。TVニュースのアナウンサーも、「ご冥福をお祈りします」といった発言があっていいのに、と思います。


メール公開に当たっての加筆(99年6月1日)

1)誤解されそうで付け加えます。脳死移植が問題とならないケースの喩は、勿論、菩薩への移植は許されて凡夫への移植は禁止されるべきだといっているわけではありません。いわば一種の思考実験として、脳死臓器移植が常に問題があるという訳ではない反例として、命への執着がなく、しかも、人々を救うという理想的(すばらしいという意味ではなく、現実世界の複雑な要素を捨象し問題を単純化して考えるという意味)な場合を仮定しているだけです。

2)公開に当たって読み返してみると、「そうまでして生きたいか」とは、なんと冷酷な言い草でしょう。様々に悩み苦しみ考えている患者とその家族の人に、そしてその人たちのために働く多くの人々に対して。
 どのような医療であれ、あらゆる人を救うことに100%力を尽くした上で、それでも力及ばずに失われる命を他の命に振り向けること自体は、よいことだと思います。
 おそらく私は、治療法について口を差し挟むべきではなかったのでしょう。余計なことにかかわらず、無我・縁起・空を考えてもらうように努力し、よく生き、よく死へ向かうことをともに考えることが、仏教を学ぶものの仕事でした。執着を吹き消す術を伝えず、執着に基づく行いのみを攻撃しても、害こそあれ何一つよいことはないでしょう。反省します。
 

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