曽我逸郎
人のために
何をすべきか。
何を求められているのか?
神はなぜ私をつくられたのか。
何が偽善なのか?
自分が行っていることに打算はないのか?
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年を取って思ったのです。
死して何が残るのかは知れないけれど・・・
人のために行えばいいのです。
但し、行ってやる価値のある人に、行いなさい。
神が与えた物は時間です。
死すまで時間を己の中で生かしなさい。
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そうこのごろ思うのですがどうでしょうか?


Mas Wakabayashiさんへの返事(99年5月24日)

メールありがとうございます。

おそらく、私より年上の方だろうと存じます。様々な経験を積んでこられた方に、私のような苦労らしい苦労もなく生きてきた人間がもっともらしいことを言うのはためらいを感じますが、、、

まず、私なりに頂いたメールを言い換えてみます。間違っていたらご指摘ください。

「人のために何をすべきか? 私は何を求められているのか? 神は何故私を創ったのか? 私は外聞のいいことを言い、外見のいいことをしているが、それは偽善ではないか? 打算による行いではないか?
 これまでずっとこんな事を考え続けてきたけれど、今は以下のような考えに至った。
 死後何が残るかは問わず、ただ人のために、但し価値ある人のために働け。時間を無駄にすることなく。」

 「あたりまえ、、」の「自己紹介と意図」の欄に書いたように、私もかつて「何をすべきか?」の問いに苦しみました。この問いは不毛な問いです。客観的に目的を吟味しても、目的を殺すばかり、否定のみで、なにひとつポジティブなものを生み出さない問いです。何のために生きるかではなく、如何に生きるかをこそ問うべきです。

 偽善については、私もある時期過敏になっていました。偽善的であることを否定するあまり、露悪的になり、当時の日記は、自分の心の動きを度を超えてこれでもかこれでもかと意地悪く分析していました。そして、そうする裏の心には、露悪的であるほうが偽善的であるより善的に見えようという計算がありました。私の露悪は一枚上手の偽善だったのです。それにまた、露悪を装うことによって「こんなに正直な自分を評価してほしい」というずるい甘えもありました。(当時の文体が少し復活してきましたね。)
 今は偽善も善のうちと考えています。偽善の寄付でも人は助かる。偽善も繰り返すうちに習慣になってだんだん「偽」がとれてくる。
 わたしのような酒好きの怠け者が、ネット上でサイバー仏弟子を装い、実体とかけ離れた偉そうなことを書いているのも、サイバー世界で演じている自分に少しは近づこうという気になるからです。
 露悪は、自分と周囲の人を不愉快にするばかりで、なにひとつポジティブな点がありません。

 ここまでの部分は私自身と共通すると感じたのですが、「行ってやる価値のある人に(のみ)行え」というご意見にはやや共感しかねます。価値のある人とない人をどう見分けるのでしょうか? 普段はどうしようもないはみ出し者と思われていた人がいざという時恐れずきちんと筋を通し、ふだん立派なことを言っていた人が、いざと言う時強い者におもねてその先棒を担ぐ、というのはよくある事です。また、恐れず筋を通した人が社会の敵として扱われることも。なにより、ぐうたらな実像の私が「行ってやる価値のある人」に分類して頂けるか、はなはだ心もとない。
 「**しなさい」という無条件な定言命法は、現代ではもはや成り立ち得ないような気がします。我々は、すぐ「何故?」と反問する癖がついているから。しかし、反面同時に、ばかげた定言命令に盲従したいという願望もあるのかも知れません。伝統的定言命法(道徳とか)が力を失い、カルト的定言命法があちこちで流行する時代です。定言命法は、もはや無力か危険かどちらかでしょう。
 命令を受けるのではなく、有情への気持ちが先にあって、そこから自然と何かをしようと言う気持ちがおこってくるようになりたいと思います。無我・縁起・空が本当に分かった時、本当の共感があり、慈悲が発動すると信じたい。その時は価値ある人と価値なき人を区別しようとはしないでしょう。
 電車の中で、仕事で、ムッとすることの多い私ですが、法華経の常不軽菩薩のように、どんな人にも「発心さえすれば菩薩」として分け隔てなくおのずからの慈悲の心で敬意をもって接することのできる人になれたらいいなと思います。

 実生活を省みず、偽善的に仮想仏弟子を装った内容ですみません。でも露悪より偽善がマシと信じて、当面バーチャル仏弟子を演じ続けようと思います。

 是非是非、またご意見を下さい。

                 曽我逸郎

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