私は22歳の学生です。
早速ですが質問してもよろしいでしょうか?
般若心経には空というのがありますが、これはこだわらないという意味でわたしは解釈しています。
もし、仏道修行をすることも空だといってしまえば、仏道修行などしないで自分の好きなように、欲望のおもむくまま、生きることが肯定されると思います。これでは、釈尊の説いた教え自身が無意味(空?)となってしまうと思います。
わたしは、空という観念がいまひとつわかりません。
灯明となるようメールをまってます。
よろしくお願いします。

        柿生のデーバディタ


デーバディタさんへの返事(99年5月18日)

柿生のデーバディタ様   1999、5、18、 曽我逸郎

 「空とは何か」という大きな質問を頂きました。偉い先生が何冊も本を書いておられるくらいの大きなテーマで、私ごときが、しかもメールでとは無謀の極みですが、恐れずに今の私の考えをかいつまんで書いてみます。
 まず、デーバディタさんは、空を「こだわらない」という意味で解釈しておられるとのこと。「こだわらない」とは、どういう意味でしょうか?

解釈1)「なにもかもどうでもいい、なんでもいい」という意味
 の筈はありませんね。戦争も環境破壊も差別も執着も、すべてよしとする似非仏教がありますが、まちがいです。

解釈2)「努力しないでなりゆきにまかせる」という意味
 釈尊の最後の言葉は、「怠ることなく精進せよ」でしたから、わたしは仏教は本流としては努力を説くと考えます。
 一方、大乗仏教の新しい発展の一つには「他力」という努力否定の思想があります。しかし、わたしはほとんど他力の考えを学んでいないので、きちんとしたことを述べることができません。
 先日会社の同僚から田原亮演という方の「行に生きる」(東方出版)という本をもらいました。真言密教の荒行を何度も成満した記録です。私は、密教についても全然勉強しないまま否定的な見解を抱いてしまっており、田原師の三昧至上主義ともいえるような考えもそのまま受け入れることはできないのですが、はじめのうち師が努力して努力してわずかに定に入ることができ、それを何度も繰り返していくうち、遂には「三昧は自分の力によって入るのではない」と他力的立場に至ったのは興味深い話でした。
 田原師のように自力を徹底した上で突き抜けたわけでもなく、親鸞のように、自分の弱さ、無力さに絶望してすべてのはからいを捨て切っているわけでもなく、いやらしくもまだ自分をどこかで頼みとしている部分のあるわたしとしては、まだ他力を語る資格はなく、当分は仏教は努力を説いたと考え、怠りつつも精進していきたいと思っています。

解釈3)「執着しない」という意味
 この解釈は、空のある一面を捉えていると思います。
 生理的以外のあらゆる我々の苦は、執着を原因とします。我々は、努力して執着を吹き消さねば、執着に追い立てられ、欲望の赴くままに生き、ますます苦を拡大再生産することになります。執着を吹き消し、苦をなくす正しい努力の道が仏教です。仏教とは、無我・縁起の教えであり、空はその正しい大乗の展開です。私の言葉で言えば、自分も他も、永遠の存在ではなく自性のない時間的現象であると知り、あらゆる他の現象と平等に縁起しあっているのだという教えが仏教=無我・縁起・空です。
 執着は、現象を固定化し永遠の存在として捉えることによって成立します。最も強固な執着の対象は自分です。自分が無我にして空なる縁起の現象だと知るには修行が必要です。
 空は、欲望の赴くままに生きることを肯定して苦しみを拡大するのではなく、執着を吹き消し苦をなくすために修行努力することを教えているのです。


 ところで、頂いたメールに「灯明となるようメールを待つ」とありますが、先に引用した釈尊の遺言の一つ前の部分も引用させて下さい。こんな内容です。
「自分と法をよりどころとして、他人をよりどころとするな」
 わたしとのメールのやり取りは、あくまで意見交換です。その時点での見解を更に深めるためですから、今の意見は、仮のものだし、間違っているかも知れません。どうかわたしのこの手短すぎる乱暴な見解を批判的に検討して頂いて、他の様々な意見とも比べ、御自身の見解を練り上げて下さい。そして是非それを教えて下さい。

 またメールをお送り下さい。お待ちしています。

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