曽我逸郎
 お元気ですか。こちらの仕事(教員)が春休みに入ってやや時間がとれますので、鬼のいぬ間になんとやら、やや腰を据えて曽我さんへの返信をさせていただきたいと思います。

……1.「存在そのものの露呈」について……

(曽我さんからの引用)
最近は、一回きりのひとつひとつの現象を捨象して、「存在そのもの」や「本源」を想定したり、「世界全体」や「真如」を想定することには、ある危険性がひそんでいると考えるようになりました。「この世のことはすべてよし」と全肯定し、自己に甘く、他者に無慈悲な態度を可能にする論理がここから生まれてくるのではないでしょうか? 
諸法実相が、「もろもろの法(複数)の実相」であるうちはいいけれど、「The 諸法実相」といった単数のone wordになったら危ない。(引用終)

 おっしゃっているところの「危険性」、私もわかるつもりではあります。
 私は、「存在そのものが露呈する」(他の言い方もあるかもしれません)場所を、広い意味での自然景観の中にだけ認めたいと思います。広い意味というのは、いわゆる景色だけでなく、顕微鏡や天体望遠鏡を通じて見えるもの、あるいは宇宙飛行士が見る青い地球、時には一輪の花、といったものも、単なるオブジェクトではなく、そのオブジェクトの像を通じて、我々の生きている「世界」そのものを呈示している場合があるのではないか、と思われるからです。
 その考えは神秘主義だ、と言われそうです。そこで、呪文でアブナイものを呼び出しておいてすぐに蓋をして閉じこめるように、早速限定を付していきたいと思います。
 自分が世界の中で生きている、と言う時の「世界」は、二重の意味を持っています。
 ひとつは、他者たち(及び他者との関係で存在する事物)によって織りなされており、その社会の外部から、天候や自然災害、個人に対しては体調や病気といったかたちで「自然」が関与している、という通常の「世界」です。その中で自分は、家族・同僚・地域住民・有権者等々の、社会学で言う役割規定を担って、同じく何らかの役割規定を担った他者と交渉して生きているわけです。漠然と世間と呼ばれるのがこの世界であり、我々の日頃の喜怒哀楽の9割方はこの「世間世界」の中のことだと言えるでしょう。(後述しますが、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦はこのフィールドでの苦だと考えます。)
 もうひとつの「世界」の方は、日頃の興味関心の対象としては「世間世界」以外の残余のようなものですが、しかし私たちには、他者を介在させないで直接に(広義の)自然ないし宇宙と自己とが向かい合うというチャンスも与えられているのです。「本源の露呈」を感じた時、我々は、他者を介在させないで「世界」そのものと出会っているのではないでしょうか。(話がややこしくなって恐縮ですが、非常に優れた芸術作品もまた、自然景観とは別の意味で「世界そのもの」に出会わせてくれるように思います。これについては考えがまとまっておりませんが。)
 我々の生活の中で、そのようなかたちで「この世界そのもの」に触れることはそれほどのレアケースではないと思います。「自然を愛する」姿勢、アウトドアを好む姿勢というものは、本人には自覚されていなくとも、「世間世界」ではない別の「世界」に触れたい、それによってリフレッシュしたい、という指向が背後にあると思われます。また、訪れた人の多くがそのような「本源の露呈」をとりわけ強く感じる場所があり、そこはいわゆる聖地として尊重されてきたのだと思います。
 隠遁や世捨ての道を選んだ昔の人たちは、このような姿を見せる世界こそが「真の世界」だと思って「世間世界」の方をバカにして山に籠ったのでしょう。しかし、いつの時代にも僕たちの生存のための衣食住は「世間世界」の再生産の中で保障されているわけですから、「世間世界」に関与せずに衣食住を得られる人は何らかの特権に支えられているわけであって、それは僕たちが一般的に目指すことができる生き方ではないと思います。一部の極端な苦行者は例外として尊敬しますが。
 以上、曽我さんの考えられる「危険性」について、私なりにお答えしました。ご理解いただけたでしょうか。曽我さんの御意見をお待ちします。

……2.四苦の解釈について……

 ここまではなんだかハイデガーを日本的に柔らかくして毒を抜いたような話で、肝心のテーマである仏教についてはまだほとんど語っておりません。
 私は、生病老死の四苦は生理的な苦ではなく、我(それもノエマ的な、誕生から現在までの連続性が想定される我)に執着することが原因となっている苦である、と解釈しております。これは「一切皆苦」ということについて考えた末の結論です。生理的な苦であれば「苦あれば楽あり」で相対的なものとなってしまい、「一切皆苦」にはならないのではないか、仏教の言うところは我々の日常感覚に合わないのではないか、というかなり素朴な疑問がありました。しかしこれは、仏教を初めて知る人が最初にひっかかるところではないかとも思います。そこで、これはどの本に書いてあったことでもありませんが、私としては四苦を、並列的なものでなく(シッダールタの四門出遊の順序の)「生→病→老→死」という流れとして理解しております。つまり、自分という存在がやがて滅してしまう、なくなってしまう、しかも一定年齢を過ぎると、その「なくなる」ことに向けての不可逆な歩みが自分の身体にしっかり刻まれていく、ということへの恐怖と不安が「四苦」なのだ、と理解しているわけです。
 いつか死が訪れるということは人たるものすべての運命ですけれども、その運命をどの程度日常的に差し迫ったものとして感じるかというと、今と昔とでは差があります。釈尊の生きておられた時代は人々の寿命も短く、ささいな病気やけがが原因で人が死ぬことも珍しくはなく、死の恐怖を「日常的」に感じていたと思われます。そこで「四苦」が先に、愛別離苦等がその後に来るわけですが、複雑な現代の社会に生きる我々にとっては、他者との関係性から生じる愛別離苦・恨憎会苦・求不得苦(このように並べるだけで具体的イメージが次々と涌いてきます)が大きなテーマです。愛別離苦・恨憎会苦・求不得苦が原因で健康を害して寿命を縮めたり、時には自ら命を絶ったり、ということもあります。私としては、愛別離苦等の元になっている執着を断ち切ることが、いずれ迎える「死」に対する準備にもなるのではないかと思い、いささか心がけている次第です。

……3.無我について……

 さて、曽我さんからのメールで、私が例に挙げているものは法無我に関するものばかりであり、人無我についてはどうなのか、という御指摘がありました。
このてんは、今の私の考えの至っていないてんとして、率直に認めます。人無我(以下、単に無我と書きます)という問題は、客体存在の縁起(法無我)にくらべて、私にとってはわかりづらいのです。ですから、以下の文章は首尾一貫したものではなく、「無我説をめぐる問題状況」のメモである、と思って下さい。
 もともと、無我説・縁起説ともども、そのようなテーゼのかたちでは仏説には含まれていなかったと思われます。
 まず、実体的なアートマンは、すでにウパニシャッドの段階で否定されております。
「この『非ず、非ず』という(標示句によって意味される)アートマンは、不可得である。」(ブリハッド=アーランヤカ=ウパニシャッド 中央公論『世界の名著1』p82)
 次に、原始仏典で無我説を説いている箇所では、「〜は我にあらず、〜は我所にあらず」という形式をくりかえして、「〜」の中に五蘊や十二支を次々に代入しております。両者には論理の形として共通性が見られるわけです。
 では、弟子の一人が「そもそもアートマンは『どこかに』『何らかのかたちで』、『存在する』のか、それとも『全く存在しない』のか。」とあらたまって問うたとすれば、釈尊はおそらく無記をもって答られたのではないか、と推測します。
 では仏説がそれ以前の教説から区別されるてんは何か、と言いますと……
 釈尊は、人を解脱から遠ざける「汚れ」は「外からやってきて人を汚す」(漏入)のではなく、「内から涌きだして世界を汚す」(漏出)と言われたのです。これはおそらく釈尊の悟りの中で史上初めて得られたものだと思います。(話の本筋からははずれますが、このことから、「漏入」を防ぐために外界遮断的な苦行をすることを否定することにもなるわけです。)
 このように言うためには、論理的にはその前提として、この「世界」が客観的なものではなく、自分の心によって(このメールの1で書きましたように「世間世界」として)描出されたものである、と言わねばなりません。執着の強い人は、固定的でどぎついコントラストを持った相互敵対的な意味体系の世界像を構築してしまいますから、その中で愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦を感じる度合いも強いのです(自分のことかな……)。
 しかし、釈尊は世界観から人生観を演繹された方ではなく、苦という現実からの解決を第一とされた方ですから、漏入ではなく漏出なのだ、という直観からすべてが始まったのだ、と私は考えます。瞑想の中で、自らの欲望の漏出によって描出された「世界」の中の(意味的存在としての)あれこれのオブジェクトを、「これは我ではない」「これは我が物ではない」と消去してゆくこと(コンピューターを使い終る時、開いていたウィンドウのひとつひとつを、右上のバツ印をクリックして次々に消していく時の、あのイメージです)が修行法だったのではないでしょうか。
 次の時代に、この「漏出」の各段階が体系化されて十二因縁になりました。十二段階のどこにも実体としてのアートマンは存在しない、というのが「人無我」です。十二段階を変転しつつ流れていく「もの」(と仮にしておきます)が、おそらく「行」(samskara)です。それはその時々の姿のみで実体はありませんから「諸行無常」です。
 さらに次の時代になって、苦の問題とは一応独立して、一種の自然観としての無常観(いわゆる縁起的世界観 大乗で言えば法無我)が出てきたと考えられます。縁起的変転の「主体」としての「法」(ダルマ)が存在するかしないかという論点は、さらにその先にあると考えられます。
 以上、整理しますと、人無我を(原始仏典にあるように)「非我」の意味にとった場合は、「漏入ではなく漏出である」という悟りに則って人無我と法無我とは結局同じ事である、あるいは法無我は人無我からの派生である、ということになります。言い換えれば、意味存在としての諸オブジェクトへの執着を減らしていくことがそのまま「無我」(非我)に至る道である、と私は考えております。
 しかし、ここまでの文章は、曽我さんがテーマにしていらっしゃる事をはずしてしまっているかもしれません。曽我さんは、ノエマ的な我のみならずノエシス的な「自覚されざる主語」としての我の否定をも「無我」の射程の中に含めていらっしゃるからです。

(曽我さんからの引用)
自分が見ている対象の無我・縁起・空は理解しやすいけれど、対象化された自己ではない自己・見ている自分、主客未分の自己の無我・縁起・空は、実に体感し難いと思いました。(引用終)

 ノエマ的「我」の非存在については、すべての仏教徒どころかウパニシャッドの論者までが承認していること、既述したとおりです。しかしノエシス的な「主客未分の自己」となると、これは主題として捕捉すること自体がなかなか難しいと言わざるをえません。否定の対象として捉えようとしたとたんにノエマとなってしまうわけですから。禅で言う「瓢箪で鯰を押さえる」というのはこういうことを言うのでしょうか。
 私は精神医学の方面ではいわゆる現象学派の人のものを数冊読んだだけの偏端な知識しかないのですが、それによりますと、ノエシス的な我の輪郭があやしくなり、我の内部に他者が侵入してくる恐怖に脅えるのが分裂病であり、ノエシス的な我が複数出現してしまってかわるがわる身体を支配するのが多重人格だといいます。ノエシス的な我とは人格の成立する最も基底にあるもののように思います。無我と言うときに、ノエシス的な我をも滅却すべき事をいうのかどうか、正直言って私にはまだわかりません。
 ただ、そこまで進まずとも、ノエマ的な自己の縁起を認めるだけでも相当のことではあるだろう、と思います。ノエシス的「主客未分の我」とは、ノエシス的ありかたのままでは(当然のことながら)対象化されず、随時ノエマ化して対象化したとき、その都度違った姿で現れます。それが自己なるものの縁起的姿であり、それは連続的かつ固定的な実体ではないから「無我」といえるのかもしれません。今の努力の結果を摘み取るのは別の「自分」であり、ある女性と恋愛関係にあった時とその女性の夫となっている今とは別々の「自分」、将来肉体的な死を経験するのも別の「自分」なのです。自分という「主体」に関してそれを認めるのは相当に苦痛であり、外界の縁起たる法無我と対比して内界の縁起として人無我を言うならば(前述の人無我にくらべて狭い意味になりますが)、無我ということの説明として、このあたりが適当かな、と思います。
 無我説に関してここで私が考えていることは「世俗諦」であって、別に(ノエシス的我をも否定するような)「勝義諦」があるのかもしれないな、とも思います。しかしそうであったとしても、「勝義諦」は言葉で表現できないものですし、出家者にのみ可能な修行によって獲得されるものです。また、「勝義諦」と「世俗諦」の関係は西洋の論理での「正」と「誤」の関係とは全く異なるものであって、「勝義諦」「世俗諦」ともども「正」なのですから、在家者である私は「世俗諦」に甘んじようと思っております。

 以上、非常に長々と書いてきてしまいました。これだけ書くために、以前読んだ本やメモ等をずいぶん動員しましたし、その場で考えて書いた部分もあります。仏教の勉強を再開したい、と思いつつあちこち読書の寄り道が続いていて踏み出せずにいたのですが、これで頭のチューニングができたようです。「法縁」ですね。縁起や無我について私がこのように考えていることの背後には、乏しいながら人生経験や見聞があるのですが、それらを書き出していてはきりがありませんので、拙いながら理論的なレベルのみで書かせていただきました。
 参考とした書物は簡略に挙げます。要求下されば詳しく示します。
  中村・三枝『バウッダ』p132〜
  三枝「無常・苦・無我」岩波『講座東洋思想』9所収
  荒牧典俊「ゴータマ・ブッダの根本思想」同講座8所収
  松本史朗『縁起と空』p200〜
  岩波文庫『真理のことば・感興のことば』の中村による訳註p73・p91
  中井久夫『最終講義 分裂病私見』みすず書房p53〜・p93

 ではお元気で。


谷さんへの返事(99年4月14日)

谷様   1999、4、14、 曽我逸郎

 お返事遅くなり申し訳ありません。もう春休みも終わって、お忙しい日々が始まってしまったことと存じます。

1)まずは「<全体世界>の危険性」について

 おっしゃっている「広い意味の自然景観や芸術作品に存在そのものが露呈する」というご意見は、私も全く同感です。人から聞いた言葉(神は細部に宿る)で私が言おうとしたことと、おそらくぴったり一致していると思います。個々の現象、一瞬一瞬の現象にこそ、存在そのものは露呈する。微妙な違いは、谷さんが「存在そのもの」と呼ばれているものを、私は「無我・縁起・空」と呼ぶことだけです。 かつてナマケモノのテツガクトであった私は、「存在と時間」を日本語訳(「有と時」)で10ページほど読んで挫折したのですが、谷さんのお便りをいただいて「死へ向かう現存在が日常性に埋没して忘却している存在そのもの」としてハイデガーが言い表わそうとしたものは、おそらく主体の自己の無我・縁起・空ではないかと、勘だけで想像したりしました。正しいところを是非教えて下さい。

 で、肝心の危険性についてですが、おっしゃている「存在の露呈」が危険だとは私も思いません。
 危険なのは、個々・一瞬一瞬の現象を捨象し、自分自身が無我・縁起・空なる現象として個々・一瞬一瞬の現象と縁起し合っているということを忘れて、ただ単に理屈・論理として、なにか本源的なるものを想定し、それが世界全体を通貫しているとか、世界全体を満たしているとか、世界となるとか主張し、その結果、自己の欲望・執着を「大いなるものの自然な発露、良きかな良きかな」と肯定し、苦しんでいる有情にたいしては、「それが定め」と無慈悲でおられるようになることです。
 個々の・一瞬一瞬の現象を捨象し、自分が個々の・一瞬一瞬の現象と縁起し合う無我にして空なる現象だということを忘れて、ひとからげに全体世界をでっちあげ、それを満たすものをでっち上げ、世界はのっぺりとすばらしいと考えることがあぶないのです。なぜなら、自己の欲望・執着を肯定し、他者の不幸を無視する論理となるから。
「この世界はすみずみまですばらしい」と主張する人がいて、その人は自制心に富み、慈悲にあふれた人であったとしても、その人の言葉が一人歩きして、世俗世界で浅薄な欲望肯定と無慈悲容認の論理にされてしまう事を恐れます。

このところ考えさせられている問題の一つは、以下のようなものです。
 「言葉による価値付けを取り払ってありのままに縁起の現象を見れば、すべては美しいはずだ。しかし、だからといって、すべてをありのままに肯定し、野放しにしていいのか? 自分の欲望も、有情の悲惨なありかたも、、、?」
 解決の糸口として一縷の望みをかけているのが、個々の・一瞬一瞬の現象を見つめ続けることで、慈悲が可能になるのかも、という発想です。慈しむという形で肯定しつつ、今の状態を変革しようという形で否定的・批判的であることが可能になれば、、、。

2) 四苦、愛別離苦などについて

 ごめんなさい。わたしのメールがほとんど自問自答だったため、言葉足らずだったようです。四苦という言葉で表そうとする内容が、谷さんと私とで食い違っています。
 「四苦」だけをあげたときは、わたしも谷さん同様に、生理的苦のみならず、死すべき存在としての苦、老いるべき存在でありながら若さの驕慢に浸り、老人を厭う自分を嫌悪する苦などの、いわば実存的苦、執着に基づく苦も含めて考えますし、むしろそちらを中心に考えています。
 しかし、四苦と愛別離苦ほかをならべて考えた時に、経典論書での愛別離苦などの意味を知らぬまま、文字面だけから想像したのですが、四苦のうちの、生や若さや健康を失うことを恐れ、病や老いや死を嫌悪することも、愛別離苦などの一種としてそちらに入れて考えてしまったのでした。そのため、先のメールでは四苦の意味内容が生理的苦だけになってしまったのです。
 ただ、(愛別離苦などが伝統的にどういう意味で使われてきたかを調べた上でいった方がいいのでしょうが)自然な、あるいは一般的な苦と、他者との関係における社会的な苦を分けて考えねばならない必要性が、私にはあまりよく理解できません。
 生理的な苦は、どうしたってなくすことはできませんし、一方執着による苦は、他者との関係におけるものであれ、そうでないものであれ、執着という原因によるものであることを注意深く観察することによって、なくせるか、なくせないまでも軽減できると思います。
 他者との関係の場における苦であれ、それ以外の苦であれ、執着の観察分析・執着の克服が大切であろうと考えます。

3) 無我について

 言わずもがなですが、主客未分の無我は、私も経験していません。

 主客未分の無我は、もちろん仏教書から学んだのですが、同時に私自身の要請でもあるのです。

 大学時代、自分にふさわしい<なすべきこと>はなにか、ずいぶん考えました。天命というか、擦り減るまで自分を使ってくれる価値を探したのです。当たり前のことですが、そんなものをいくら理屈で求めても見つかるわけはありません。
 もっとあからさまに言うと、大学院にいって研究者になるのも、就職してサラリーマンになるのも、どちらもつまらなく思えたのです。学生運動も自分を捧げるに値するとは思えなかったし、いろいろな遊びも、唯の暇つぶしでしかなく、楽しめなかった。簡単に言うとしらけていた訳です。
 大学生とかサラリーマンとか世間的に実現された自己を、すべて本当の自分ではない、と否定し、本当の自分は違うのだ、本当の俺は何か別の未だ実現されていない何者かなのだ、と考えていらいらしているのは、不満ばかりが募るあり方でした。

 で、そこから抜け出すために最初に考えたのが、「為すに値する価値などない、あらゆる価値は虚妄だ、無価値な生を創造的に遊びとして生きるのだ」というニーチェ的ニヒリズムであったのですが、やせ我慢して胸を張っても、無価値な遊びは創造的でも楽しくもありませんでした。

 そして、その次に行き着いたのが「無我」でした。
 「なにものでもない自分があって、それはAでも、Bでもない。世間的には、学生であったり、サラリーマンであったりするかもしれないが、それは本当の自分ではない。そうした無価値なものを超えたところに真実の自分がある」こういった考えがそもそも間違っていたと気づいたのです。ですから、本当の自分、谷さんのおっしゃるノエシス的な自己が残っている限りは、私の価値の問題は克服されないのです。

 無我はまだ体験していないけれど、今の私にとっては要請である、と先に述べたのは、以上のような意味です。

 なんだかまた、支離滅裂なメールになってしまいました。書いているうちにいろいろなことが浮かんできて、取り止めがつかなくなってしまいます。ご容赦ください。

 ではまた。

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