99/03/22

「仏陀の半眼について」

はじめまして。egoboyといいます。

「多くの人からご教授ご批判をいただいて、この仮説を解体し、深めたいと願います。」とあったので少し甘えてみようかなと思います。このHPに対してじゃなくて、あっちこっちで「仏陀の考え」の解釈には少し不満があるのでここにぶっつけてしまえ、と思ったのです。

1、仏陀の半眼は深く考えているからで、半眼にすれば深く考えられるというものじゃないと思います。誰でも考え事をしている時は半眼になってると思います。坊さんが無理に半眼にするのは何故だろうと思ってます。

2、輪廻転生は、生まれ変わると言う事でしょうけれども、一人が死んで一人が生まれると言う事はその人やあの人が生まれ変わるのではなくて、誰でもいい誰かではないでしょうか。蟻が餌を運んで巣に帰るのは、誰でもいい誰かだし、誰が途中で死んでも要は餌が巣に運ばれれば良 い訳で、Aが死ねばBだし、Bが死ねばCが運ぶのだと思います。
 ですからAやBやCが大事なのではなくて、一つの命が次ぎの命へと繋がっていってこの世が常に満たされていることを輪廻転生と言ったのではないでしょうか。

3、仏陀の言葉の方が僕には理解しやすいと思いましたけど、難しいのは哲学が絡んだからでしょうか。仏陀の考えは哲学じゃないと思ってるんです。

取りあえずこんな感じです。すいません。
《釈尊成道の過程》は凄く面白かったです。


egoboyさんへの返事(99年4月27日発信)

egoboy様     1999、4、27、  「あたりまえ、、」の曽我逸郎

返事、とても遅くなりました。ごめんなさい。

さっそく、私見を述べます。

まず(1)何故半眼にするか

 深く考える(=定に入る?)のは難しいけれど、なんとかそうするためだと思います。
京都の某臨済宗大本山で雲水さんに混じって座らせてもらっていたときの経験ですが、集中しようとしてもなかなか集中することはできません。膝の痛み、蚊が飛んできたり、暑さ寒さ、妄想を呼び覚ます街からのざわめき、後どれくらいで経行だろうか、、、。そういう状況で、半眼にし、足を組み、背を伸ばし、形を整え、息を整えることによって、ようやく少しずつ集中できるようになります。
 面白いと思ったのは、数息観です。ゆっくりした大きな息を十ずつ数える。これは個人的意見でどこまで正解か分かりませんが、呼吸は、普段は無意識の不随意運動だけれど、意識すれば随意運動にもできる、それを利用して、意識と無意識の架け橋になると感じました。意識して大きくゆっくりとした息を数えていると、それがリズムになり、やがて無意識を整えることができるように思いました。
 ある日参禅(老師のところへ問答に行くこと)の順番を待って、廊下で座っていたときのこと(ネクスト バッターズ サークルみたいなものです)、取材が入っていて、私の目の前でカメラが構えられました。私は集中することができず、なんとか息を数えようと努力しました。と、突然カシャと大きな音がして、はっと気がつくと目の前にカメラマンがいてシャッターを切っていました。後でもらった写真には、自分でも驚くくらいすっきりと座っている自分が写っていました。(勿論半眼で)
 参禅の順番を待つ時間は、そう長くありません。(3〜4分)その時間の中で目の前にカメラを構えられながら、定に入ることができたと知って、ずいぶんうれしく思いました。
 足を組み、背筋を伸ばし、半眼にし、息を数え、形を整えることによって、初心の人でも少しずつ深く考えることができるようになるのです。

【 04年5月11日加筆 】
 禅宗では、目を閉じてはいかん、と厳しく指導するが、流行の南方上座部のヴィパッサナー瞑想では、目を閉じた方がやりやすいと言っている。呼吸についても、数えるのではなく、自然な呼吸のままで、鼻の下や鼻腔を通る空気の感覚に集中することから始めよと教えている。

(2)輪廻転生について

 すみません。おっしゃっていることを正確に理解しているか自信がありません。親から子へと命が受け継がれていく事が輪廻だとお考えなのでしょうか?大谷大学の小川一乗氏はそのような見解を述べておられます。先祖代代の遺伝子の受け継ぎがあって、今我々はここにいる。そして、我々の遺伝子も子から孫へと引き継がれていく。しかし、そのひとりひとりの個人の生存はこの世限りで、次の世に転生することは有り得ないと。(法蔵館「大乗仏教の根本思想」P373あたり)
 しかしながら、経典のあちこちに個人の輪廻転生が述べられているのも事実です。今、大蔵出版の「パーリ仏典中部根本五十経篇1」を少しずつ読んでいますが、根本法門の章、第4 恐怖経に、林の中で恐怖と戦いながら修行した釈尊が、自分自身の無数の過去生の名前や寿命や食べ物を思い出す明智と、生けるものたちが業と行いによって死に変わり生まれ変わるのを見る明智を得た、とあります。
 この経のことは、津田眞一「アーラヤ的世界とその神」(大蔵出版)で知っていたのですが、内容がわたしにとっては突拍子もないものなので無視していたら、根本五十経の根本法門10経の4番目という重要な位置に置かれていることを知って、さてどうしたものか、と困惑しているところです。

(3)「仏陀の言葉の方が理解しやすい」

 すみません。現代人に理解しやすいお経をめざしたつもりでしたが、方便力の不足です。なさけない。

 釈尊の考えが、哲学かどうかについては、まず哲学の定義が必要のように思います。それが違えばコミュニケイションになりませんから。で、答えになっているのか分かりませんが、私は、釈尊の教えは、宗教(何かを絶対的なものを立てて信仰すること)というより、いうなれば世界観(世界と自分をどう見るか)だと思っています。世界を、自分も含めてあらゆる無我なる現象が縁起しあっている姿としてとらえる教えであると。偉大な点は、単に世界観に終わらず、苦を滅し、真に人を解放し、大きな喜びを与える点です。救済する力のある合理的世界観だと思っています。

 また是非ご意見御批判を下さい。

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る