曽我逸郎様
      from谷真一郎
お元気ですか。
 「あたりまえ般若経」もういちど通読させていただきました。今の時点で考えた事を書き送らせていただきます。

 10年以上前にハイデガーの「存在と時間」を読んだとき(最後の1/4は全く理解不能になってしまって読了できませんでしたが)、個々の存在者の背後にある「存在」そのものに触れるとはどういうことだろう、と漠然と考え続けました。ある時、山林の中を歩いていた時に、突然わかったような気がしました。この山林のような自然の景観を通して、「存在」は、「意味」という衣をまとった個々の「存在者」を経由することなく、直接に姿を顕わすのだろう、と。
 そして、ハイデガーの思索の場であったライン上流の南ドイツは都会的な所ではなく美しい自然を多く残す土地であったこと、彼自身もトートナウベルクという所にある山荘に好んで滞在する等、自然に親しむ人であった事に思い当たったのです。

 大自然を前にして心を開くことで、我々は、ありのままの、万物が縁起する、「空」なる世界の姿を直観することができます。「言葉−意味−執着」のかさぶたがはがれて、ありのままの世界そのものが見えるのです。曽我さんの般若経にもそのように書かれておりますし、おそらく曽我さん御自身も、そして私も、経験していることです。
 しかし、そこで感得された縁起の姿を、目を転じて他者との関係性の世界での縁起に重ねる事は、そうとう難しいのではないか、と思うのです。(註:これは間接的にはハイデガーへの批判です。特に彼の理論が「自然」の対極にある政治の世界で利用された時に異様な展開をしてしまった、という事を説明する仮説です。)両者は無関係ではありませんが、大自然を見ると日常の(他者との関係性における)喜怒哀楽が「ちっぽけに」見える、従ってそれへの執着も「減少」する、といった程度の関係ではないでしょうか。

 釈尊御自身の説であるかどうかはわかりませんが、仏教では「四苦」と「八苦」をたてます。生病老死の四苦は、我というものが実体として存在すると考えてその常住を願い無常を厭うものです。私自身の実感で言うと、「四苦」は大自然を前にして縁起を観ずることでそれなりに軽減できます。少なくとも、自分がすでに若くないこと、いずれ死を迎えねばならないこと、に対する強力な慰謝になります。
 しかし一方、「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」(「五蘊成苦」というのはよくわかりません)は他者との関係性のフィールドでの問題です。ここでは対象はすべて「意味」そのものであって、意味以前ということはあり得ません。我々が家庭生活・社会生活を送る上で出会う他者はすべて「意味」という顔を持った他者であって、「意味」には当然「執着」がつきまとうとすれば、これらの「苦」から逃れる方法はないわけです。
 たとえば、Aが恋人Bとの関係性において愛別離苦を苦しんでいるとして、第三者Cがそれを見て、男女の間はすべて縁起だ、無常だ、と観じることはできます。しかし、それをAに言い聞かせても、Bという存在に貼付している意味がAとCとでは全く異なるわけですから、Aにとっての救いにはなりません。また、AとBとの関係性に関しては達観していたCも、自分の恋人Dとの関係性においては、縁起どころではない、という心境になるでしょう。
 とすれば、「あたりまえ般若経」の前半で、風や泉・蝋燭で縁起を説明された村人も、その時はわかったつもりになっても、いざ自分にとって切実な問題で苦に陥った時、風や泉については理解し納得できた事が、目の前の切実な問題については納得できない、と苦しむことになると思われます。
 我々にせいぜいできることは、やみくもに苦しむのではなく、それを無常であると観じる視点を「もうひとつのもの」として持つことでしょう。それはあくまで「もうひとつのもの」であって、愛別離苦等々を苦しむ自分を消去して無常を知る自分をそれに置き換える、ということはできないのです。

 このことに関係して、私は唯識という学問に、中観とは別個の意義を認めたいと思う者です。ここから先は、これから勉強するつもりの事を先取りして、あて推量を含めて書くことを御容赦下さい。
 中観派は、前のたとえで言えば全くCの視点で通しており、Cの視点から見ればすべては空である、という事を解明しています。それに対して唯識はAの視点の中に入り込んで、虚妄なる認識としてのAの意識がどのように成立するか、を探求しているように思われます。(註:「あたりまえ般若経」に唯識を一種の唯心論として批判しているように読める箇所がありますが、唯識で扱う「識」とは、「見分」(認識主体)と「相分」(認識対象)の二つの契機を含んでいます。決して単純な外界否定ではありません。それにしても、認識主体と密接不可分にしか定立されない認識対象、とは「大自然」のようなものではなく、他者との関係性をフィールドとするもの、すなわち「愛別離苦」等々を生じるものであろうと想像できます。)

 私自身としても、人々が「愛別離苦」等々を持ち越したままで解脱へとにじりよっていく方法を、唯識の中から探ることができるのではないか、と考えているわけです。
 以上、色々書かせていただきました。また勉強したら書きます。お元気で。


谷さんへの返事(99年3月27日)

谷 真一郎様     1999、3、27 (珍しく週末関西に止まっている)曽我より

返事遅くなり申し訳ありません。
頂いたメールをきっかけに、あれこれ考えたことをまとめてみます。あくまで自問自答であって、谷さんにとっては会話にもなっておらず、とんちんかんかもしれませんが、ご容赦ください。

1)「存在そのもの」「ありのままの世界」に関して

頂いたメールを勝手に抜書きしてしまいます。
>個々の存在者の背後にある「存在」そのもの
>「存在」は、「意味」という衣をまとった個々の「存在者」を経由することなく、直接に姿を顕わす
>ありのままの世界そのもの

この抜書きを見たとたん、谷さんは、「駒大の松本史朗先生のdhatu-vada批判の受け売りをする気だな」と感づかれたことでしょう。
>曽我さんの般若経にもそのように書かれておりますし、、、、
とおっしゃるとおり、「あたりまえ」を書いたときは問題意識がなかったのですが、最近は、一回きりのひとつひとつの現象を捨象して、「存在そのもの」や「本源」を想定したり、「世界全体」や「真如」を想定することには、ある危険性がひそんでいると考えるようになりました。「この世のことはすべてよし」と全肯定し、自己に甘く、他者に無慈悲な態度を可能にする論理がここから生まれてくるのではないでしょうか?

諸法実相が、「もろもろの法(複数)の実相」であるうちはいいけれど、「The 諸法実相」といった単数のone wordになったら危ない。池田政信さん(「あたりまえ」のリンクページ参照)から「あたりまえ」の空は実体的な印象を受ける、とのご指摘がありましたが、まさしく「あたりまえ」の<空=エネルギー>論は、この危険を孕んでいると考え始めています。

佐倉哲さんの Website(リンクページ参照)で、以下のような初期経典の一節を見つけました。
「みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。」(Sanyutta-Nikaya 33.1.3 佐倉訳)(増谷文雄「根本仏教と大乗仏教」佼成出版社仏教文化選書、P81にももう少し硬い訳があります。)

佐倉さんは、無記を重視しておられ、この一節も釈尊の無記の表明のひとつと考えておられるようですが、私は、前後の文脈の流れも知らないままに、釈尊は、目や耳に触れる個々の現象を捨象して世界や存在そのものや真如や法界をでっちあげることを諌められたのだと思っています。
如来の知恵の光が法界を遍照するとか、如来の命が法界に遍満するとかといった言葉には気をつけねばなりません。

会社の後輩から「神は細部に宿る」という言葉を教わりました。キリスト教の言葉だそうですが、いい言葉です。布団の中で聞く夜の雨の音や、コーヒーから上る湯気や、満員電車で押しのけていったおじさんの背中とか、そんな細部にこそ神は宿る、仏教的に言えば、無我・縁起・空の喜びはあると思います。

一回きりの個々の現象を見つめ続けることによって、慈悲が生まれてくると考えます。

2)「四苦」「愛別離苦等」に関して

頂いたメールは「縁起や無常を理解することによって、生老病死の苦は軽減できるが、他者との関係における苦に対しては、中観より唯識のほうが有効ではないか」とのご意見と理解しました。

これに関しては、「第一の矢・第二の矢」の比喩を思い出しました。
要約すると「一般の人と釈尊の教えに従う者の違いに関して、両者とも楽しいとか苦しいといった感覚(第一の矢)をもつが、前者はそれを原因にして、それに執着したり、嫌悪したり、憂いたりして、さらに第二の矢にも射られる。釈尊に従うものは、第一の矢には射られても、第二の矢に苦しめられることはない。」というものです。(前掲「根本仏教と大乗仏教」P100参照)

私は、生老病死という生理的肉体的苦しみは、釈尊でさえ免れ得るものではなかったと思います。生理的肉体的苦(四苦)に対しては、無我も縁起も空も、無力です。しかし、無我・縁起・空(対象化された自己ではなく主客未分の自己の無我・縁起・空)を理解して執着を吹き消せれば、愛別離苦などの執着によるところの第二の矢の苦を、なくすことはできなくても、拡大することは避けられるのではないかと想像します。

もう一度我侭な抜書きをお許し下さい。
>喜怒哀楽が「ちっぽけに」見える、従ってそれへの執着も「減少」する、
>男女の間はすべて縁起だ、無常だ、と観じる
>それを無常であると観じる視点

ここでおっしゃっていることは、すべて対象の縁起・無常ではないでしょうか?
あらためて、法無我はまだたやすく、人無我は難しいと感じました。自分が見ている対象の無我・縁起・空は理解しやすいけれど、対象化された自己ではない自己・見ている自分、主客未分の自己の無我・縁起・空は、実に体感し難いと思いました。(こんな風に偉そうに書いている自分もけして体得しているわけではなく、ただ想定しているだけですが。)ホントの自己(=主客未分の自分)の無我・縁起・空(=中観?)とそれによる執着の吹き消しは、四苦(生理的肉体的苦)には無力だけれど、愛別離苦などの執着による苦にはきっとある程度有効だろうと思います。

こんな想像をしました。
私には、中2からこの春小学校入学まで3人の子供がいるのですが、誰かが、4歳くらいのかわいい盛りに病気が見つかり、まだ笑ったりはしゃいだりしているのに、医者から臓器移植をしなければ1、2年の命と宣告されていたとします。
無我・縁起・空を知らなければ、私は、子供に適合する誰かがどこかで脳死状態になることをひたすら祈り、世界中にそんな人を求め、子供への脳死臓器移植を許さない法律を呪うことでしょう。ひょっとすると、誰かから臓器を奪おうとしたかもしれません。
しかし、もし無我・縁起・空を知っていれば、涙を流しながら子供の手を握り、自分も子供も有限なる縁起の現象である事を納得しようと努力し、移植の可能性に心を乱しながら、他人の脳死を望むべきではないと考え、自分達の状況をけなげに生きようと努めると思います。
前者は苦(愛別離苦)をビッグバン直後の宇宙のごとくインフレーション的に拡大し、後者はミニマムにとどめると思います。

愛別離苦を全くなくしてしまうことは、きっとできません。私たちが縁起の現象である以上、おそらく最後まで四苦八苦と向き合って行かねばならないのでしょう。

3)唯識に関して

正直に申し上げますと、私は唯識をきちんと勉強したとは言えません。春秋社「講座大乗仏教」と角川の「仏教の思想」の唯識の巻、中央公論社「大乗仏典・世親論集」などは、ずいぶん昔に読み流しましたが、はっきり言って苦痛でした。あまりにも煩瑣で、精緻な分析というよりは、説明のつじつま合わせのためにいろいろな仕掛けをでっちあげ積み重ねたような印象を持ちました。Shojiro NOMURAさん(「あたりまえ」のリンクページ参照)からもご批判を受けましたが、多分これは、大乗仏教思想の二大潮流の一つとされているものに対するひどい偏見であるとは感じるものの、当面他に差し迫った問題意識があり、いずれ縁があればちゃんと勉強しようと後回しにしております。

また是非ご意見をお聞かせ下さい。
自分の中からだけで新しい発想のできない人を、ニーチェは「マッチのように人に擦ってもらわねば火花が出せない人間」と皮肉りましたが、メールで頂いたテーマをあれこれ自問自答することは、私という湿気たマッチには最高の刺激です。
谷さんにとっても僅かでも意味ある事であればいいのですが、、

ではまた。


谷さんからのメール(99年3月29日)

丁寧な御手紙ありがとうございます。
 貴兄の「存在そのもの・四苦八苦・唯識」については、大変重い問題ですので、腰を据えて御返事を書かせていただこうと思っております。最終的に貴兄との意見の一致が得られても得られなくても、仏教そのものに関する議論として、それなりのレベルのものになるのではないか、と思います。貴兄のニーチェからの引用そのままに、一人で考えていたのでは至らない深部にまで達することができるのではないか、と思っております。


谷さんからのメール(99年3月30日)

 お元気ですか。こちらの仕事(教員)が春休みに入ってやや時間がとれますので、鬼のいぬ間になんとやら、やや腰を据えて曽我さんへの返信をさせていただきたいと思います。

……1.「存在そのものの露呈」について……

(曽我さんからの引用)
最近は、一回きりのひとつひとつの現象を捨象して、「存在そのもの」や「本源」を想定したり、「世界全体」や「真如」を想定することには、ある危険性がひそんでいると考えるようになりました。「この世のことはすべてよし」と全肯定し、自己に甘く、他者に無慈悲な態度を可能にする論理がここから生まれてくるのではないでしょうか?
  諸法実相が、「もろもろの法(複数)の実相」であるうちはいいけれど、「The 諸法実相」といった単数のone wordになったら危ない。(引用終)

 おっしゃっているところの「危険性」、私もわかるつもりではあります。
 私は、「存在そのものが露呈する」(他の言い方もあるかもしれません)場所を、広い意味での自然景観の中にだけ認めたいと思います。広い意味というのは、いわゆる景色だけでなく、顕微鏡や天体望遠鏡を通じて見えるもの、あるいは宇宙飛行士が見る青い地球、時には一輪の花、といったものも、単なるオブジェクトではなく、そのオブジェクトの像を通じて、我々の生きている「世界」そのものを呈示している場合があるのではないか、と思われるからです。
 その考えは神秘主義だ、と言われそうです。そこで、呪文でアブナイものを呼び出しておいてすぐに蓋をして閉じこめるように、早速限定を付していきたいと思います。
 自分が世界の中で生きている、と言う時の「世界」は、二重の意味を持っています。
 ひとつは、他者たち(及び他者との関係で存在する事物)によって織りなされており、その社会の外部から、天候や自然災害、個人に対しては体調や病気といったかたちで「自然」が関与している、という通常の「世界」です。その中で自分は、家族・同僚・地域住民・有権者等々の、社会学で言う役割規定を担って、同じく何らかの役割規定を担った他者と交渉して生きているわけです。漠然と世間と呼ばれるのがこの世界であり、我々の日頃の喜怒哀楽の9割方はこの「世間世界」の中のことだと言えるでしょう。(後述しますが、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦はこのフィールドでの苦だと考えます。)
 もうひとつの「世界」の方は、日頃の興味関心の対象としては「世間世界」以外の残余のようなものですが、しかし私たちには、他者を介在させないで直接に(広義の)自然ないし宇宙と自己とが向かい合うというチャンスも与えられているのです。「本源の露呈」を感じた時、我々は、他者を介在させないで「世界」そのものと出会っているのではないでしょうか。
(話がややこしくなって恐縮ですが、非常に優れた芸術作品もまた、自然景観とは別の意味で「世界そのもの」に出会わせてくれるように思います。これについては考えがまとまっておりませんが。)
 我々の生活の中で、そのようなかたちで「この世界そのもの」に触れることはそれほどのレアケースではないと思います。「自然を愛する」姿勢、アウトドアを好む姿勢というものは、本人には自覚されていなくとも、「世間世界」ではない別の「世界」に触れたい、それによってリフレッシュしたい、という指向が背後にあると思われます。また、訪れた人の多くがそのような「本源の露呈」をとりわけ強く感じる場所があり、そこはいわゆる聖地として尊重されてきたのだと思います。
 隠遁や世捨ての道を選んだ昔の人たちは、このような姿を見せる世界こそが「真の世界」だと思って「世間世界」の方をバカにして山に籠ったのでしょう。しかし、いつの時代にも僕たちの生存のための衣食住は「世間世界」の再生産の中で保障されているわけですから、「世間世界」に関与せずに衣食住を得られる人は何らかの特権に支えられているわけであって、それは僕たちが一般的に目指すことができる生き方ではないと思います。一部の極端な苦行者は例外として尊敬しますが。
 以上、曽我さんの考えられる「危険性」について、私なりにお答えしました。ご理解いただけたでしょうか。曽我さんの御意見をお待ちします。

……2.四苦の解釈について……

 ここまではなんだかハイデガーを日本的に柔らかくして毒を抜いたような話で、肝心のテーマである仏教についてはまだほとんど語っておりません。
 私は、生病老死の四苦は生理的な苦ではなく、我(それもノエマ的な、誕生から現在までの連続性が想定される我)に執着することが原因となっている苦である、と解釈しております。これは「一切皆苦」ということについて考えた末の結論です。生理的な苦であれば「苦あれば楽あり」で相対的なものとなってしまい、「一切皆苦」にはならないのではないか、仏教の言うところは我々の日常感覚に合わないのではないか、というかなり素朴な疑問がありました。しかしこれは、仏教を初めて知る人が最初にひっかかるところではないかとも思います。そこで、これはどの本に書いてあったことでもありませんが、私としては四苦を、並列的なものでなく(シッダールタの四門出遊の順序の)「生→病→老→死」という流れとして理解しております。つまり、自分という存在がやがて滅してしまう、なくなってしまう、しかも一定年齢を過ぎると、その「なくなる」ことに向けての不可逆な歩みが自分の身体にしっかり刻まれていく、ということへの恐怖と不安が「四苦」なのだ、と理解しているわけです。
 いつか死が訪れるということは人たるものすべての運命ですけれども、その運命をどの程度日常的に差し迫ったものとして感じるかというと、今と昔とでは差があります。釈尊の生きておられた時代は人々の寿命も短く、ささいな病気やけがが原因で人が死ぬことも珍しくはなく、死の恐怖を「日常的」に感じていたと思われます。そこで「四苦」が先に、愛別離苦等がその後に来るわけですが、複雑な現代の社会に生きる我々にとっては、他者との関係性から生じる愛別離苦・恨憎会苦・求不得苦(このように並べるだけで具体的イメージが次々と涌いてきます)が大きなテーマです。愛別離苦・恨憎会苦・求不得苦が原因で健康を害して寿命を縮めたり、時には自ら命を絶ったり、ということもあります。私としては、愛別離苦等の元になっている執着を断ち切ることが、いずれ迎える「死」に対する準備にもなるのではないかと思い、いささか心がけている次第です。

……3.無我について……

 さて、曽我さんからのメールで、私が例に挙げているものは法無我に関するものばかりであり、人無我についてはどうなのか、という御指摘がありました。
このてんは、今の私の考えの至っていないてんとして、率直に認めます。人無我(以下、単に無我と書きます)という問題は、客体存在の縁起(法無我)にくらべて、私にとってはわかりづらいのです。ですから、以下の文章は首尾一貫したものではなく、「無我説をめぐる問題状況」のメモである、と思って下さい。
 もともと、無我説・縁起説ともども、そのようなテーゼのかたちでは仏説には含まれていなかったと思われます。
 まず、実体的なアートマンは、すでにウパニシャッドの段階で否定されております。
「この『非ず、非ず』という(標示句によって意味される)アートマンは、不可得である。」(ブリハッド=アーランヤカ=ウパニシャッド 中央公論『世界の名著1』p82)
 次に、原始仏典で無我説を説いている箇所では、「〜は我にあらず、〜は我所にあらず」という形式をくりかえして、「〜」の中に五蘊や十二支を次々に代入しております。両者には論理の形として共通性が見られるわけです。
 では、弟子の一人が「そもそもアートマンは『どこかに』『何らかのかたちで』、『存在する』のか、それとも『全く存在しない』のか。」とあらたまって問うたとすれば、釈尊はおそらく無記をもって答られたのではないか、と推測します。
 では仏説がそれ以前の教説から区別されるてんは何か、と言いますと……
 釈尊は、人を解脱から遠ざける「汚れ」は「外からやってきて人を汚す」(漏入)のではなく、「内から涌きだして世界を汚す」(漏出)と言われたのです。これはおそらく釈尊の悟りの中で史上初めて得られたものだと思います。(話の本筋からははずれますが、このことから、「漏入」を防ぐために外界遮断的な苦行をすることを否定することにもなるわけです。)
 このように言うためには、論理的にはその前提として、この「世界」が客観的なものではなく、自分の心によって(このメールの1で書きましたように「世間世界」として)描出されたものである、と言わねばなりません。執着の強い人は、固定的でどぎついコントラストを持った相互敵対的な意味体系の世界像を構築してしまいますから、その中で愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦を感じる度合いも強いのです(自分のことかな……)。
 しかし、釈尊は世界観から人生観を演繹された方ではなく、苦という現実からの解決を第一とされた方ですから、漏入ではなく漏出なのだ、という直観からすべてが始まったのだ、と私は考えます。瞑想の中で、自らの欲望の漏出によって描出された「世界」の中の(意味的存在としての)あれこれのオブジェクトを、「これは我ではない」「これは我が物ではない」と消去してゆくこと(コンピューターを使い終る時、開いていたウィンドウのひとつひとつを、右上のバツ印をクリックして次々に消していく時の、あのイメージです)が修行法だったのではないでしょうか。
 次の時代に、この「漏出」の各段階が体系化されて十二因縁になりました。十二段階のどこにも実体としてのアートマンは存在しない、というのが「人無我」です。十二段階を変転しつつ流れていく「もの」(と仮にしておきます)が、おそらく「行」(samskara)です。それはその時々の姿のみで実体はありませんから「諸行無常」です。
 さらに次の時代になって、苦の問題とは一応独立して、一種の自然観としての無常観(いわゆる縁起的世界観 大乗で言えば法無我)が出てきたと考えられます。縁起的変転の「主体」としての「法」(ダルマ)が存在するかしないかという論点は、さらにその先にあると考えられます。
 以上、整理しますと、人無我を(原始仏典にあるように)「非我」の意味にとった場合は、「漏入ではなく漏出である」という悟りに則って人無我と法無我とは結局同じ事である、あるいは法無我は人無我からの派生である、ということになります。言い換えれば、意味存在としての諸オブジェクトへの執着を減らしていくことがそのまま「無我」(非我)に至る道である、と私は考えております。
 しかし、ここまでの文章は、曽我さんがテーマにしていらっしゃる事をはずしてしまっているかもしれません。曽我さんは、ノエマ的な我のみならずノエシス的な「自覚されざる主語」としての我の否定をも「無我」の射程の中に含めていらっしゃるからです。

(曽我さんからの引用)
自分が見ている対象の無我・縁起・空は理解しやすいけれど、対象化された自己ではない自己・見ている自分、主客未分の自己の無我・縁起・空は、実に体感し難いと思いました。(引用終)

 ノエマ的「我」の非存在については、すべての仏教徒どころかウパニシャッドの論者までが承認していること、既述したとおりです。しかしノエシス的な「主客未分の自己」となると、これは主題として捕捉すること自体がなかなか難しいと言わざるをえません。否定の対象として捉えようとしたとたんにノエマとなってしまうわけですから。禅で言う「瓢箪で鯰を押さえる」というのはこういうことを言うのでしょうか。
 私は精神医学の方面ではいわゆる現象学派の人のものを数冊読んだだけの偏端な知識しかないのですが、それによりますと、ノエシス的な我の輪郭があやしくなり、我の内部に他者が侵入してくる恐怖に脅えるのが分裂病であり、ノエシス的な我が複数出現してしまってかわるがわる身体を支配するのが多重人格だといいます。ノエシス的な我とは人格の成立する最も基底にあるもののように思います。無我と言うときに、ノエシス的な我をも滅却すべき事をいうのかどうか、正直言って私にはまだわかりません。
 ただ、そこまで進まずとも、ノエマ的な自己の縁起を認めるだけでも相当のことではあるだろう、と思います。ノエシス的「主客未分の我」とは、ノエシス的ありかたのままでは(当然のことながら)対象化されず、随時ノエマ化して対象化したとき、その都度違った姿で現れます。それが自己なるものの縁起的姿であり、それは連続的かつ固定的な実体ではないから「無我」といえるのかもしれません。今の努力の結果を摘み取るのは別の「自分」であり、ある女性と恋愛関係にあった時とその女性の夫となっている今とは別々の「自分」、将来肉体的な死を経験するのも別の「自分」なのです。自分という「主体」に関してそれを認めるのは相当に苦痛であり、外界の縁起たる法無我と対比して内界の縁起として人無我を言うならば(前述の人無我にくらべて狭い意味になりますが)、無我ということの説明として、このあたりが適当かな、と思います。
 無我説に関してここで私が考えていることは「世俗諦」であって、別に(ノエシス的我をも否定するような)「勝義諦」があるのかもしれないな、とも思います。しかしそうであったとしても、「勝義諦」は言葉で表現できないものですし、出家者にのみ可能な修行によって獲得されるものです。また、「勝義諦」と「世俗諦」の関係は西洋の論理での「正」と「誤」の関係とは全く異なるものであって、「勝義諦」「世俗諦」ともども「正」なのですから、在家者である私は「世俗諦」に甘んじようと思っております。

 以上、非常に長々と書いてきてしまいました。これだけ書くために、以前読んだ本やメモ等をずいぶん動員しましたし、その場で考えて書いた部分もあります。仏教の勉強を再開したい、と思いつつあちこち読書の寄り道が続いていて踏み出せずにいたのですが、これで頭のチューニングができたようです。「法縁」ですね。縁起や無我について私がこのように考えていることの背後には、乏しいながら人生経験や見聞があるのですが、それらを書き出していてはきりがありませんので、拙いながら理論的なレベルのみで書かせていただきました。
 参考とした書物は簡略に挙げます。要求下されば詳しく示します。
  中村・三枝『バウッダ』p132〜
  三枝「無常・苦・無我」岩波『講座東洋思想』9所収
  荒牧典俊「ゴータマ・ブッダの根本思想」同講座8所収
  松本史朗『縁起と空』p200〜
  岩波文庫『真理のことば・感興のことば』の中村による訳註p73・p91
  中井久夫『最終講義 分裂病私見』みすず書房p53〜・p93

 ではお元気で。

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