曽我逸郎
(私が以下のような脳死臓器移植についての意見をHP上に掲出したの関して、長田康人さんから、ご意見をもらいました。まず、私の文章から)

1999年2月25日。
 高知県のドナーカードを持った女性が脳死状態になった、いや、もうすぐ、とテレビで騒いでいる。なんだかおかしいと感じるので、柄にもなく時事的な問題を考えてみたい。
 脳死が死であれ、心臓停止が死であれ、それはどちらでもいい。ただ、いやしくも一人の人が生死の境にあるのに、その人の回復を祈らず、その死を今か今かと待つような雰囲気は異様だ。
 人は、静かに厳粛に自分の死を向かえる権利があると思う。そして、家族を始め周囲の人は、静かに厳粛にその死を見送る権利があると思う。
 今まで脳死移植の是非を深く考えたことはなかったが、今日の世間のはしゃぎぶりを見て、これは間違っていると感じた。
 経典には自分の肉体を喜捨する話が沢山ある。しかし、それは、自分の肉体に執着しないことを教えている筈だ。
 脳死臓器移植を推進しようとする人は、明らかに臓器をもらう側の立場で考えている。それは、自分の命に執着する立場ではないか? 他者の命を粗末にする立場ではないか?
 自分の身に起こるあらゆる変化・現象を縁起として認め肯定し、それを喜び、一切有情がその生を楽しむことを願いつつ精一杯生きるのが仏教者の生き方ではないだろうか?
 命に執着する人に身体を喜捨することよりも、執着を解き、あらゆる変化を喜ぶことを伝えることこそが真の慈悲だと思う。
 酔っ払った一時の感情で書きました。(半分酔いが覚めましたが。)一面的な見方でしょうか? ご意見お待ちしています。


長田さんからのご意見(99年3月6日)

ホームページでのご意見、私も同感です。 マスコミはこれで日本も外国に追いついた、かのように報道してますが、この状態は30年ほど前の心臓移植の時と同じです。 流行に乗り遅れまいとしているあせりの気持ちが感じられます。

  外国にはそれなりの宗教感があり、臓器に対する考えは私たちと違うはずです。
大義名分をふりかざして(人のためだ、お前の臓器を提供しろ)と強制されるような気がします。

病気治療の臓器移植は、角膜、腎臓(生きている人の) ぐらいにとどめ,その他は早急に人工代用品(あるいは動物)の開発をすすめるべきです。

人の臓器は其の人だけが天から与えられたものだと思います。自分がしっかり考えての上で行動する人に反対するつもりはありませんが。


長田さんへの返事(99年3月16日発信)

長田様

脳死臓器移植に関するメール、ありがとうございます。
臓器移植に反対する方のメールでほっとしました。
たとえば、子供に臓器移植を受けさせようとして、適合するドナーの出現をひたすら待っているような方から激しい調子のメールを頂いたら、どうしようかと心配しています。はたして私は、そのようなメールを正面から誠心誠意受け止めることができるのでしょうか?

さて、頂いたメールについて若干思うところを書きます。
「脳死臓器移植は最低限にとどめ、人工代用品や動物からの移植技術の開発を推進するべきだ」と書かれていますが、この点については、正直なところ判断しかねます。

私が脳死臓器移植に反対するのは、それが人間からの移植であるからだけではなく、移植を受けようとする側に、生への執着があるからです。脳死臓器移植は、提供する側でも、される側でも、変な言い方ですが、すこやかで健康的な死、あるいは自然な死を損なっているように感じます。
何かの記事で、究極の移植手術は、自分の細胞で自分のクローンを作っておいて臓器の貯蔵庫とし、拒絶反応の心配をすることなく悪くなったパーツを次々交換することだ、と読みました。これに対して長田さんはどう考えますか? 私は、異様なことだと感じます。
私は、死ぬべき時には死にたいと思います。自分ばかりではなく、私の子供の場合でも、涙を流し、手を握りながら、見取る他はないし、それ以上の行為は、結局死を汚すものでしかないと思います。
経典に記された釈尊の比喩に、第一の矢、第二の矢というのがありました。正確に覚えてはいませんが、「釈尊の教えに従うものにも、苦楽の感覚は起こる(第一の矢)。 しかし、釈尊の教えを聞かぬものは、第一の矢をきっかけにして、執着や嫌悪を生じ、長くそれに苦しめられる(第二の矢)。」 脳死からであれ、動物からであれ、自分のクローンからであれ、移植してまで生き長らえようとするのは、第二の矢の最たる例だと思います。
これもうろ覚えですが、「雨ニモ負ケズ」には、「死にそうな人がいれば行って恐がらなくてもいいと言い」という一節がありました。もし宮沢賢治が外科医だったら、臓器移植をしようとしたでしょうか?

人は健康に生きようとする権利と義務があると思います。同時に、人は、生に執着することによって、生と死を汚し、新たな苦しみを生み出すことを止めるべきです。しかし、どこまでが健康に生きようとすることで、どこからが生に執着することでしょうか? その境を明確にすることは非常に難しい。このメールのはじめのほうで、人工臓器や動物からの移植に対する判断ができないと書いたのは、こういう意味です。
しかしながら、脳死臓器移植は、あきらかに生への執着です。自分が生きるために、人の死を期待しているからです。

またご意見・ご批判を下さい。

1999年3月15日   曽我逸郎

(実は、この後さらに長田さんからご意見を頂いているが、別のコンピュータで受けていて、今は手元にありません。次回更新時にupします。ごめんなさい。)

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