曽我逸郎
はじめまして。
僕は栃木に住んでいる。
25才、無職の男です。
僕は今まで25年生きてきて、いろいろな
物や状況を見てきました。
たかだか25年ですが、、、
僕がいつも思う事は、
何故こんなに広い宇宙で、この地球に
いるのかな?って事です。
答えなど見つかる訳がありません。。。
運命か、何か使命があるのか、、、
何ひとつ、答えは、見つからないのです。
ネットで、答えをさがそうとしても無理な事だ。と言う事は
わかっているのに、こんなメールをいつも書いてしまいます。
最近ではインドのアガスティアなどに興味があります。
ぜひ意見などを聞かせてもらえたら嬉しいです。


XXさんへの返事(99年2月20日)

バルタン星人に生まれずに地球人に生まれてしまったXX様

メールありがとうございます。

わたしも、「なんでオーストラリアのサーファーに生まれなかったのだろう」とか「ジンギスカンの部下のせめて小隊長くらいに生まれて、草原をヨーロッパまで駆け抜けたかったのに」と思った時期があります。

でも、この考え方は違うのです。

「私」が先にあって世界があるのではなく、世界という場所があって、そこに「私」が生まれてきたのです。まず「私」があって、それがどこかに生まれるのではなく、我々はみんな縁起の現象であり、他の条件によって生まれ、変わり、他を変え、終わる現象なのです。

武田鉄也の歌で「あの時とうちゃんが酒飲んで帰ってこんかったら、あんたんごたる馬鹿息子は生まれてこんかった」という台詞がありましたが、それに輪をかけていえば、「その夕方、お父さんが会社の悪友と帰りがけのエレベーターでいっしょにならなければ、ほんの数十秒席を立つ時間が違えば、あんたは生まれてこなかった」のです。

些細な偶然の積み重ねが我々を生みました。けして、立派な「私」が先にあって、それが世界に出てきた出口が、たまたま我々の母親であって、ウルトラの母ではなかったという訳ではではありません。

あたりまえのことをいうなと腹を立てておられるかもしれません。でも、あたりまえのことを当たり前に見せないくらい我々の我執は強いのです。

運命や使命について。

大学生の頃、革命や人民や日本国や天皇や人類や学問や出世や様々な価値が周囲にありましたが、合理的客観的に検討すればどれもつまらないものに思え、「自分はあらゆる価値から自由だ」と書いたことがあります。しかしそれは、宇宙のボイド(宇宙の大構造を説明する言葉で、銀河団は泡の膜のような形で集中分布しており、泡の中の部分=ボイドにはほとんどまったく天体が存在しない)のど真ん中にひとりぽつんと浮かんでいるようなもの。どこにも光のカケラさえ見えず、重力もなく、上下前後の区別もない。どちらの方向へ何十万光年進もうとも、何一つ変わらない。そもそもなにものもない空間において、移動ということ自体が成り立つのか? 「絶対の自由」の中で、動物園の熊のように同じところをぐるぐる回ってどちらへも踏み出せない時期がありました。
>>>直接関係のない思い出話しですが、、。私のこの見解は、学生運動をやっている親友から鼻で笑われました。
「それはおまえが無害などうでもいい存在やからや。ちょっとでもお上に逆らうことをすれば許されない。ビラを撒いただけで道路交通法違反。絶対の自由? なにがいったい自由や!」と。

運命や使命や価値といわれるようなものは、勝義では、ありません。個々の現象にも、それら現象の総体にも意味はありません。われわれは、世界のさまざまな現象と縁起し合い、はじけあい、変化しあう現象です。意味も目的もなく、縁起しあっているのです。

これは根暗な見解でしょうか? 執着のある人には、暗いと映るでしょう。でも執着をなくせば、はじけ合い、生成変化することは喜びで、なにもかもの変化が美しく映ると思います。

(根源的一者を前提としているかのように受け取られる危険がありますが)比喩的イメージで言えば、初夏の快晴の日の公園の噴水です。吹き上げられ、風に流され、そこに虹がかかる。我々という現象は、その一つ一つの水滴のように、他の現象とともに吹き上げられているのです。

執着が我々を苦しめています。運命や使命を問う苦しみも執着から起こっています。自分という「存在」に意味を与えようとするのが我執です。執着をなくすには、無我・縁起・空を知ることです。そうすれば、自分もあらゆる出来事も、(自分の病気でさえ!? <−−−これには今の私には少し自信がない)美しく喜ばしく楽しめる。同時に、縁起し合う他の有情への慈悲も生まれると思います。執着による苦しみから離れさせ、縁起の喜びを知ってもらおうと考える。(ここでいわばひとつの使命が発生します。しかしこれは、与えられた使命ではなく、我々のうちから発生する感情です。)

まとめていえば、、、
あらかじめ用意された運命も使命も価値も目的もない。
苦を離れたければ、無我・縁起・空を知りなさい。
そうすれば、他とともに縁起する現象として、楽しむことができる。
同時に他の有情への慈悲が起こり、
他の有情も執着を離れ、縁起を喜べるようになるよう努力することになる。

是非またメールを下さい。
それからインドのアガスティアという人?は、残念ながら存じ上げておりませんので、ご紹介ください。

頂いたメールとその返事のコーナーをHPに設けようかと考えています。今回頂いたメールそこにのっけていいですか?まずければ、ご連絡ください。

では。

(メール転載について、どちらのお返事も頂いていないので、失礼で勝手ながら、匿名で掲載させてもらいました。)

                 曽我逸郎

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