曽我逸郎
曽我兄

簡単に自己紹介させていただきます。
谷 真一郎  年齢45歳 職業 高校教員(社会)です。
本日(1/12)、貴兄のHPを初めて拝見した者です。
仏教という巨大な対象に対するアプローチのかたちが、私自身の今までのそれと重なっているてんが多くあり、興味をもってとりあえず全頁を卒読させていただきました。
貴兄の思索の上で参考とされた書物も(貴兄の方がたくさん読んでおられると思いますが)、たまたま私も読んでいたものが多くあり、同感を禁じ得ない所も多く、一方ではやや異論をさしはさみたい部分もあります。
 思う事が余りに多く、何から書いてよいかわからないのですが、これからも何時でもメールをお送りすることはできますので、今日は、まず自分と仏教とのかかわりを書かせていただき、次に、貴兄の「釈尊成道の過程」に対応するものとして、私なりの勉強のまとめをコピーしてお送りしたいと思います。

 貴兄と同じく私も、大学の在学中から仏教に関心をもっておりました。専攻は社会学だったのですが、国立大文学部のこじんまりした構成が幸いして西洋哲学・インド哲学・国文学の研究室にも出入りし、特に、当時助教授だった立川武蔵先生の講義によって、インド哲学とインド仏教への入り口に導いていただきました。今にして思えば、インド哲学の講義で知った原始仏教も平家物語や徒然草等の国文学を通して知った日本仏教もムード的にひとつになっており、はなはだあやふやな理解でした。
 大学を卒業後に愛知県の高校教員となりました。就職後も、社会科学・哲学・国文学(中世以前)方面でかなりの本を読んできました。読書が道楽であり、至福の楽しみでもあったのですが、しだいに年齢を加えるにつれて、優れた本を何もかも読み尽くすことはできない、しかも読書して蓄えたものも、自分の死と同時にディスクをフォーマットするように消えてゆく、ということに思い当たり(つまり、読書という事自体への執着に気づき)、5年前、自分の読書の基本を仏教に置くことに決めました。原始仏教から始めて少しずつ、自分に一応納得する理解が得られたら次の時代に進むこととし、他の分野に脱線をくりかえしながらも、一昨年に唯識にとりつくところまで来ました。いうまでもなくアカデミズムのレベルにはほど遠く、現代日本語に訳された経典の一部と、大きな書店へ行けば手に入る程度の入門書・解説書の類を読んでいるだけです。
 一昨年、父の死という出来事があり、その前後からなんとなく仏教書から遠ざかってしまって現在に至りました。新年を迎えるにあたってもう一度、過去のノート(あるいはファイル)を読み直し、唯識の勉強から再開したいと思っていた矢先、貴兄のHPに出会ったわけです。
 あれもこれも書き出したらきりがありませんのでこの話題には深入りしませんが、高校時代が全共闘運動と重なり、自己形成はその中でされました。それで、全共闘あれは何だったのか、全共闘運動の納得のいく総括をしたい、それができれば現在を生きることに対しても一定の指針が得られるはずだ、という思いを保ってなんとか生きているうちに25年以上もたってしまいました。そういうわけで先日、サーチエンジンで「全共闘」を探すと池田政信さんのHPに出会い、そこからのリンクで貴兄のHPへ行き着いたわけです。これは必然とも言えず偶然とも言えず、「縁」と言うべきものでしょう。

 さて、数年前の私の読書のまとめとして作ったファイルに貴兄の「釈尊成道の過程」に対応する内容のものがありますので、参考までにそれをお送りいたします。材料となった本は貴兄も読まれた中村元の『ゴータマ=ブッダ』、中村・三枝『バウッダ』(この本自体の姿勢には私は批判的です)、それから岩波講座「東洋思想」の関係巻の関係諸論文です。(要求下されば詳しく示します。)
 その前に少し自分の立場を説明させていただきます。
「歴史的」というスタンスをとるのが、貴兄に較べての私の違いかと思います。
 四諦や縁起説、それどころかアートマンの否定という形で定式化された無我説も、原始仏典の最古層であるスッタニパータ「八つの詩句の章」前半部には見られません。一方、原始仏典と原始ジャイナ教文献の両者を含んで「沙門文学」というジャンルが存在し、そこには正統バラモンやウパニシャッドに対する批判的姿勢の取り方や生活面で共通点が見られます。
 その痕跡として「沙門文学」を残したムーヴメントは、以下の三者、すなわち
1.体制的バラモン教
2.それに対して批判的ポーズを見せつつも、王侯貴族の前での公開討論パフォーマンスに堕してしまったウパニシャッド論者たち
3.非アーリア的な宗教実践家としておそらくウパニシャッド以前から存在した「苦行者」たち(後のサーンキヤ派に連なるもの)
の三者のどれに対しても距離を採って、自発的なグループや師弟関係を形成し、あるいは全く孤独で、瞑想を中心とした修行を行なっていたと思われます。ゴータマ=ブッダも、出家してそのような中に身を投じたのです。
 次に、「沙門」層の中で釈尊の開いた境地のユニークなところは、「悟り」を妨げる要素(比喩的に「汚れ」等と言われるもの)が、通常は「外から付着する」と考えられていたのに対して、釈尊は、「人の内側にある(起きる)何物かが人を悟りから遠ざける」と考えたことだと思われます。くりかえしになりますが、この主張は「沙門」層全体の中でもユニークなものであったらしく、原始仏典の中には、通常の見解にひきずられて「外から付着する」と書いてしまっている箇所もあったと記憶します。
 以下、私の以前のファイルをそのまま引用します。ひとに読んでもらう事を念頭に置いていない文章なので、読みづらいてんは御容赦下さい。
 あまりに批評的であるように思われるかもしれませんが、私はこれで、自分は仏教に帰依している、と自覚しております。


   原初の「仏説」は何だったか?

1.人生は苦だとする、経験をもとにした深い感慨があった。

2.苦の原因を瞑想の中で辿るうち、外界そのものに苦が宿っているのではなく、「かくあれかし」「かくあるのは不当」といった渇愛・怒り(両者とも最初期の仏典から登場)が苦の原因であることに気付いた。この渇愛・怒りは無意識レベルから意識の中に送り出されてくるものであり、後に「行」と命名される。人間の心理を分析すれば悔やみ・心配・疑い等もこれに含まれる。一方、「かくあれかし」という意識の側から見た「かくはならぬ」世界の姿が「無常」である(ただし「無常」の語そのものは原始仏典にはほとんど出てこない)。
 世界の「苦」的性格の根拠を内面に求めるこのスタンスにより、唯物論的・自然哲学的傾向を持つ他の沙門諸セクト(六師外道)とはっきり袂を分かつこととなった。

3.以前からのウパニシャッド的常識として、執着が輪廻(苦)の原因であり、執着の対象はnama-rupa(本来の意味は名称・形態。漢訳「名色」)であるとされていた。仏陀が自分の発見にこれを結び付けるとすれば、nama-rupaとは実は自身の意識が外界に投射された像であり、単純な意味での外界は存在しない、ということになる。しかし仏陀自身はそこまでつきつめず、外界・内界のどちらの意味にも用いて「nama-rupaへの執着を絶つべし」とした。

4.仏陀が当初から持っていたスタンスとして、形而上学の拒否ということがある。ニルヴァーナ(涅槃)に到るための実践的指針と関係ない事柄は、正誤に関して無記である。従ってnama-rupaが外界か内界かという問題も、仏陀自身にとっては無記であったろう。

5.意識現象におけるこの発見(2)の後、ここから脱却するための方法論が思索的・論理的に探究された。その結果、渇愛・怒りの生ずる根拠は、(普段の意識の中にそれが自覚的に現象しているかどうかは別として)nama-rupaに対する「わがもの」という思いであることが発見された。

6.ここで「われ」すなわちアートマンが問題となるわけだが、一部のウパニシャッドが言うような、心臓の内奥に存する実体としてのアートマンなどは、沙門諸セクト一般によつてすでに否定されていた。ここで仏陀によって否定されたのは、そのようなノエマ的なものではなく、外的対象を志向する意識一般に付属して、その意識が「自分の」意識であることを保証するところの、ノエシス的な自己である。この「自己」意識は普段は気付かれず、反省によってのみノエマ化され、析出される。

7.そこで、現象しているところの渇愛・怒りを抑え、漸減させ、ついには消滅させるために、反省的に自覚して「これは我がものではない」という思いをくりかえし起こすことが修行法とされた。それは原始仏典にあっては「気をつける」という表現で頻出する。常に自覚的であること、比喩的にも現実にも「目醒めて」あることが、仏陀の勧めるところとなる。

8.このような「自己」を滅却する修行のプロセスに於いては、「これは我がものではない」と思う主体、「気をつける」主体というものは、むしろ常人以上に強烈な自己意識を伴っている。これは一種のパラドックスであり、後に大乗で問題とされることでもあるが、常に自己に対して否定的対象化をくりかえし、自己調節・自己制御・最終的には自己滅却を行なっていくという綱渡り的「自己」が要請されているわけである。この限りでは、原初の仏説には(日本仏教に見られるような)「自然法爾」的要素は全く無く、むしろその反対の厳しい人工的・反自然的・自律的要素が強かったと言える。

9.後にまとめられた四諦では、集諦(苦の原因)と滅諦(苦の消滅)がそれぞれ2と7に相当する。滅諦は一見、集諦の因果関係を逆から言っているだけで新しいことは言っていないようだが、実は2と7にはレベルの違いがあった。2が意識現象そのものの対象化(内観)であるのに対して、7は思索の結果得られたものであり、悟りのための「戦略」なのである。2と7はもともと別々に説かれており、四諦がまとめられた時にそれぞれ一項を成したのであろう。

10.2の発見は、苦の原因が外部から付着するというジャイナ教的考え方との対立を生むが、仏陀はまだそれを十分には自覚せず、原初期の仏典には苦(煩悩)が外部から付着するかの如き表現も見られる。後世に整備された教義では、「漏」(煩悩の別名)を「漏入」ではなく「漏出」とすることで、ジャイナ教的見解とはっきり絶縁する。

11.2と並んで、原始仏説のもうひとつの柱は「中道」論である。この二つの柱は論理的に関係づけられないわけではないが、仏陀自身の中では、それぞれ別々の体験を源泉に持っていたと考えられる。

12.仏陀の主張する「中道」は、互いに相手を負かそうとして言い募る二つの意見のどちらにもくみしない、という意味での中道である。これは、はなやかな討論万能のウパニシャッドの風潮への批判であり、相手に勝たんとする利己的な動機に支配されることへの批判である。最も原初の仏典とされるスッタニパータ4章では、苦・渇愛とならんで、この意味での中道の主張がされており、陳述内容の形で真理を語ることはできないと言っている。
 一方、仏伝に出てくる「中道」は、苦行と享楽との間の中道であり、仏陀は中道の真理を悟って苦行を停止した後に悟りを得たことになっている。おそらくこの種の「中道」は、仏教が教団として成立して、苦行を重視する他の沙門諸セクトとの差違を強調する必要から主張されるようになったものであろう。

     1994年6月にノートに書いたものに加筆・訂正
         1996.5.11

 お暇な時に御意見や感想をいただけると幸いです。こちらからまた何か書いて送らせていただくかもしれません。特に袴谷憲昭・松本史朗両氏の諸説については、私の考えを述べたメモがありますので、いずれ送らせていただくつもりです。あまりに長くなりますので、今日はこれで失礼します。
  1999.1.12.
             谷真一郎


谷さんからの追伸

曽我兄

 昨日に引き続いてお便りをいたします。
 貴兄にとって、輪廻説と仏教との関係が非常に大きな問題となっておられるようですので、それについての愚考を紹介させていただきたいと思います。
 まず、釈尊御自身は輪廻ということを認めていらっしゃったのかどうか、という問題ですが、これについては以下の順序で考えております。
 釈尊以前、ウパニシャッドの二道説(チャンドーギヤ=ウパニシャッド)以来、輪廻説はインド思想全体の全体というかベースとなって現在に至っています。輪廻説を否定する考えも出ましたが、それらはいずれも、異端的立場である事を自ら十分自覚してそれを宣明してきました。釈尊の時代の六師外道の中のアジタは輪廻を否定しましたが、輪廻否定というその事自体が彼の説教の主題だったようです(中央公論『世界の名著1』p512)。しかるに原始仏典を見ますと、まず、輪廻説を前提とした説教はあちこちに見られます。これらを後世に成立したものと仮定しても、釈尊による輪廻説の積極的否定の言は見られません。
 つまり、当時にあって輪廻説は一種の常識であって、眼前の生老病死の延長線上に自然に想定されており、それを敢えて否定するのであれば、輪廻説の否定ということ自体がテーマとして語られなければならないところ、原始仏典にはそれは見られないわけですから、釈尊御自身も、(その事が釈尊の教説の中で重要な位置を占めるのかどうかは別として)漠然と輪廻説を認めていらっしゃった、と考えて大過無いものと考える次第です。
 私の思考の進み方はこのように歴史的というか実証的ですので、御不満があるかもしれませんが、今しばらくおつきあい下さい。
 釈尊御自身の教説の中で輪廻説が承認されていると仮定しますと、20世紀末の時代にあって及ばずながらも釈尊に帰依する我々にとってはすぐさま、大きな問いの刃が向けられてまいります。その問題については、数年前にメモしたものを下に引用しますので、(他の人に読んでもらうことを考えずに書いた文章ですので読みづらいかと思いますが)読んでいただけたらと思います。
(註:以下の文章では釈尊が輪廻説を承認していなかったという学説に賛同しておりますが、今はもっと素直に、上に書いたように考えております)

 〈宿命通と輪廻〉
 輪廻を共同的な他界として捉えるのもひとつの方法であるが、ここでは、個人の「悟り」にとっての輪廻的世界観(過去世・来世)の意味を考えてみる。
 テーリーガーター(長老尼偈)433以下に、出家した女性が宿命通を得て自分の過去世を語る部分がある。それは出家してからわずか7日目のことで、修行の成果ではなく、むしろ一種の入信儀礼ないしは精神的な自己治療のように思われる。そこで語られる彼女の過去世の連続は、現世における彼女の境遇や性癖の不幸を説明する「物語」となっている。悲惨な現実の根拠を説明する「物語」を獲得することで、彼女は現実にうちひしがれずに再起できるわけである。
 自分の過去世を知る(宿命通)というと、かなりの修行の結果として獲得される超能力のように我々は思ってしまうが、そうではなく、テーラガーター(長老偈)やテーリーガーターの他の箇所を見ても、いずれも出家直後にそれが得られたように書いてある。宿命通とは一般に、この女性の場合のように自分の不幸の根拠を物語として獲得することで総括し、これから前を向いて進んで行けるようにすることであった、その意味で一種の精神治療であった、従って、出家者としての修行一般に先立つ通過儀礼的なものであった、と考えられる。
 このような過去世物語の内容は、かなりの部分は自分の(自覚的な記憶より以前の幼児体験の変形であり、他の部分は、精神にとって全く外部からやってきた不幸(病気・不具等)を説明するために、不幸の原因を具体的な他者(=前世の自分)として示す、というものであったと考えられる。これらのうちの前者(幼児体験の変形)は、フロイトの言う「悲哀の仕事」、すなわち冷静かつ十分に時間をかけて思いだし、真理的に追体験することでその経験の呪縛(「行」)から卒業し、逃れる、ということなのである。
 これらのことから、逆に仏教における過去世とか輪廻というものの本来の意味も照射されてくるのではなかろうか。
 原始経典も中期以後のものになると、過去世・来世は現世と同様に実在するものとなり、一世を越えた因果応報の理を説いて人を脅迫するようになってしまう。しかし、仏陀自身は当時の無用無根拠な形而上学的議論を退けて、「悟り」という結果に向けての実践的プラグマティズムを主張した人であるから、過去世・来世の実在性については無関心であったと考えられる(『東洋思想8』p15)。あくまで現世が、そして現世での「悟り」が枢要なのであって、過去世や来世は、現世を「悟り」の方向に進むための「物語」として必要であった、と言えるのではないか。

 二日続けて長いものをお送りしてしまいましたが、あまりお気遣いされませぬよう。お互い身過ぎ世過ぎの仕事もあること、できることなら、細く長いおつきあいを願います。
 99.1.13.谷 真一郎


谷さんへの返事(99年1月20日)

 お返事遅れてすみません。

 私も自己紹介させていただくと、私のほうが年下で43歳です。ポスト全共闘といえばいいのか、大学入学のころは赤いブント系のヘルメットがそこら中にあったのに、卒業のころは、ヘルメットをかぶる活動家はいなくなっていました。友人にはその系統が多かったのですが、私自身は臆病の故か、わあわあ言いながら少し距離を置いていました。
 今は、大阪で広告会社に勤めています。
 名古屋といえば、実は、将来の田舎暮らしを目指して4月に家族(妻、中2と6歳の娘、小6の息子)を伊那谷に引っ越させました。以来、たいていの週末は、新幹線で名古屋に出て、名鉄バスセンターから飯田行き最終に乗っています。仕事もこのところ波がいくつか重なって、しかも二重生活で、一番やりたい仏教のことが後回しにならざるを得ない状況です。そんな事情もあって、一年ほど前から名古屋転勤の希望を出しているので、ひょっとすると春ころからご近所に引っ越すことになるかもしれません。

 仏教は、谷さんのように系統だって勉強しているわけではなく、本屋で面白そうなのを探しては、脈絡なく読んでいるに過ぎません。インド大乗仏教関連の本が中心で、初期仏教の本は最近になって数冊読んだだけなので、教えていただけると大いに助かります。

 輪廻については、最近は、釈尊は積極的に否定してはおられず、当時の常識を(悪く言えば無批判に)受け入れておられたのかもしれない、とも思い始めています。しかし、それでも「無我にして無常なる縁起の現象」として自己とすべてを見ることが釈尊の教えの核心であったと考えているので、この教えを正しく発展させれば、必然的に輪廻の否定に行きつかざるを得ないと考えています。
あるいは、釈尊は自分の胸の内では輪廻を否定しておられたが、輪廻を常識としながら自己の無我・縁起をしらない人にその結論のみを説いても害こそあれ益することはないので、輪廻の否定は敢えて公にせず、ひたすら無我・縁起を体得する方法のみを説き給うた、と考えたいと思っています。釈尊の説かれた道に従って進み、無我と縁起を知れば、輪廻といわれているあり方が、言葉の妄想に過ぎないことは自明である筈だからです。

 無記というのも、釈尊自身が判断停止しておられたのではなく、自身では明快な答えを持ちながらも、無我・縁起を知らぬものにそのまま説くことはいらぬ誤解・過ちを生むが故に、また、無我・縁起を知れば自ずと答えは明らかになるが故に、無我・縁起を見る術を説くことに集中されて、敢えて明言を避けられたのだと考えます。

 とは言うものの、無我について、初期仏教の諸研究のなかにさまざまな説があるらしいことは聞いています。(無我ではなくて、非我だとか。)初期仏教における無我についても、教えていただければ幸いです。

 谷さんは、仏教の核心の教えは何だとお考えですか? 私は「無我・縁起」だと考えています。異なる仏教理解でまとまりのある系統だったものに、自分の理解の仮説をぶつけて、鍛え上げたいと思っています。

 今後もよろしくご教授ください。

             曽我逸郎

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