曽我逸郎
曾我様

HPの記述を読んでいて「空」が何であるかがわかりません。
「空」が何かの実体のような印象を持ちました。

あくまで印象なので、誤った受け取り方をしているかもしれません。
もう少し読み返してみて、ゆっくり考えてみます。

1999年元旦 23:36 池田政信


池田さんへの返事(99年1月4日)

痛いところを突かれました。

おっしゃるとおり、「あたりまえ」の空は実体化への由々しき逸脱である、という気がしています。

本来の空は、何もかもが、自性を持たない事、永遠に自分自身である事があり得ないこと、自分自身を原因として生まれることがあり得ないこと、他の条件によって生まれ変化し終わる現象であること、だと考えます。

おそらく、空は、絶対に名詞化してはいけないのです。常に述語でなければならない。「*は空である。すべては空である」という様に。せいぜい名詞化が許されるとしても、上記のような、動名詞(***であること)までで、それも十分に注意をした上でないと、すぐに実体化されてしまう危険がある。

「あたりまえ」を書いたのは4年ほど前で、当時の私の仏教理解は、踊り場というか、その時なりのまとまった形になっていました。無我=縁起=空が、「煩悩・執着を吹き消して苦を滅する」という消極的なものに留まるのではなく、もっとポジティブな大きな喜びであるはずだと考えていました。(実は今でもそうです) それで、世界のすべてとともに一瞬一瞬生成する喜びがそれであると考え、そのことを端的簡単に言い表すために使ったのが、空=エネルギー(力)という説明の仕方(方便)でした。

当時は、「エネルギーは存在(もの)ではないから、実体化のおそれは、ぎりぎりセーフ」と思っていましたが、少し考えてみれば、「空=エネルギー」も、駒沢大批判仏教グループが反仏教とする「真如」も、名前を変えただけで、中身はいっしょです。
真如も、「あるようにある事」といっていれば動名詞ですが、「真如」といった途端に名詞化して、どこかに真如という真実世界があるかのように実体化されてしまいます。

「世界を生み出すエネルギー」みたいな事を言わずに、単純に世界とともに縁起し生成し変化し終息する喜びといった方が、危険な誤解を避けるためによかったと思います。

私の仏教理解は、当分(多分永久に)仮説です。今年最初の更新に書いたように、「釈尊もしくは初期仏教における自然」、また、「仏教を時間に関する教えとして解釈してみる」という2点が、最新の課題です。特に前者は、ひょっとすると、今の仮説を大幅に組み替える羽目になるかもしれません。

今の仮説を根本からひっくり返すような鋭い御指摘を、また是非お願い致します。

         曽我逸郎


池田さんへの返事・追加(99年1月23日)

先日頂いたメールをきっかけにいろいろ考えていて、それを以下のような形で「あたりまえ」の「注10」に加筆しようと思います。
前半は先日お送りしたメールと同内容ですが、後半は未整理ながら、空と慈悲など新しいとっかかりに触れています。池田さんのメールがきっかけになっていますので、冗長ですみませんが、お暇なおり目を通していただければ幸いです。
(以下、「注10」加筆部分と同文)

         曽我逸郎

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