曽我逸郎

『ゴータマ・ブッダ考』を読んで。私とはそのつどの煩悩


2005年大晦日

 薦められて『ゴータマ・ブッダ考』(並川孝儀、大蔵出版)を読んだ。なかなかおもしろかった。
 神話化された釈尊像の向こうに、歴史上の釈尊ゴータマ・ブッダを捉えなおそうとする試みである。

 手がかりとすべき残された経典は、釈尊の死後、仏弟子達の追慕の念や置かれた状況による必要など、さまざまな影響を受けて、歴史上の釈尊そのままの記録ではなくなっている。他ならぬ釈尊の入滅自体が、仏弟子達にとって大きな衝撃・乗り越えなければならない試練であり、釈尊亡きままにどう歩んでいけばいいのかという困難に彼らは直面させられた。そのことが、第一結集にも影を落としている。

 つまり、厳密に考えれば第一結集からすでに釈尊の教えそのままではないということだ。であるなら、どのようにして歴史上のゴータマ・ブッタを捉えることができるのか?

 著者の方法はこうだ。最古層の韻文資料と古層の韻文資料を比較し、内容の変化を調べる。その変化を逆方向に遡れば、歴史上のゴータマ・ブッタをおぼろげながらでも推定できるのではないか。
 そして、最古層としては『スッタ・ニパータ』の第4章「アッタカ・ヴァッガ」、第5章「バーラーヤナ・ヴァッガ」を、古層として『サムユッタ・ニカーヤ』の第1章「デーヴァター・サムユッタ」、第4章「マーラ・サムユッタ」、『ダンマパダ』の「タンハー・ヴァッガ」、「ブラーフマナ・ヴァッガ」などを想定している。

 例えば、輪廻思想に関して、最古層と古層に現れる用語や主張の変化を調べると、次のようなことが見えてくる。

 「両者には断層と言ってよいほどの差異が認められる。…来世に対する表現が最古層の資料では否定的であったのに対し、古層資料では肯定的であったり…最古層には見られなかった「輪廻(saMsAra)」という語が古層資料では多く用いられる…古層の中でも比較的成立が遅いと見られる資料には、「最後身」や「三明」のように仏教そのものの思想に輪廻の考え方が組み込まれている例が見られた。…業報に関しては、最古層では説かれていなかったが、古層資料では輪廻と結びついて説かれている。」
 そして、歴史上のゴータマ・ブッダの考えをどう推定するのか、章末にこう総括されている。
 「最古層の資料に見られるような輪廻観、もしくは(輪廻思想に対して)さらに消極的なものであったればこそ、ゴータマ・ブッダが自ら主張した無我という考えと矛盾なく整合性をもって教えを人々に説き示すことができたのではないかと思われる。」
 「仏教」における輪廻転生についての私自身の考え(たとえば、佐藤哲朗さんとの2005,2,21,の意見交換参照)を文献学的に補強して下さったようで、大変心強く感じた。

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 しかし、私にとって一番の刺激になったのは、「涅槃」の意味、「煩悩の滅」の意味に関する考察だった。(以下は、その部分の曽我による要約)

 涅槃について、形容したり説明したりする用例を調べると、最古層、古層の間に相違はあまりなく、3種類に分類できる。
 1、作用の抑止 (静まる、覆う、滅ぼす、壊す、遮断する、など)
 2、取り除くことや分離 (追い払う、取り除く、捨て去る、分離する、など)
 3、渡ること

 涅槃の原語、nibbAna や nibbuta の語根について、「覆いをとる」という説と「吹き消す」という説が有力だったが、nibbAna については、「消える」という意味で捉えるべきであり、上記の1に最もよく関連する。
 nibbuta の語根については、「覆いをとる」という説が一般には有力であるが、用例にあたると、その意味で解釈できる例は見当たらず、接頭辞 nir- を離反の意味ではなく、逆に強調と解して、これまでとは正反対の「しっかり覆う」という意味に理解すべきではないか。だとすると上記1によく適合する。ただし、2の「取り除く」「分離する」といった意味の用語と関連している用例もあり、単純には片付けられない。

 視点を変えて、「涅槃」と表裏だと考えられる「煩悩の滅」について、その条件や状態を示す表現・用語を分類すると、このようになる。

 1、煩悩の抑止・制御・遮断
 2、煩悩の分離
 3、煩悩から離れたり、超越すること

 これら三つのタイプの現れ方についても、最古層・古層に違いはほとんどなく、涅槃の場合とよく一致している。

 一歩踏み込んで考えると、1では、煩悩は個体の内部にあると考えられているのに対し、2,3では、煩悩は個体に外から付着したものとして捉えられている。
 さらに言えば、煩悩は覆われる(べき)ものか、覆うものか、という問題にいきつく。この問題は、仏教の基本的構造に大きな影響を与えるものであり、仏教思想展開の原点とも言い得るものである。 …以上、曽我による要約。

 釈尊が煩悩を内において捉えておられたか外であったか、著者は明確にしていない。最古層と古層の間に違いがない以上、冒頭に述べた著者の方法では、歴史上のゴータマ・ブッダを推察できないから、これは仕方のないことだろう。

 私自身の問題意識に絡めて実証性のない発言をすると、煩悩を外部にあるものとして捉え、それを取り除いたり、そこから離脱したりすべきと考えるのは、<客塵>とか、般若心経の<心無ゲー礙>のように、内側に汚れのないピュアなアートマンを想定しており、梵我一如型の思想だと思う。釈尊のお考えではない。
 梵我一如型の思想については、04,6,24, の和バアさんとの意見交換を参照。

 それに対して、煩悩を内に捉え、しっかりと覆いをして制御すべきものと考えることは、<戒>や<いつも気をつけておれ>という教えに直結する。無常=無我=縁起こそが釈尊の教えと考えて、それをいつもの私の言葉で言い換えると、「自分とは縁によるところのそのつどの反応である」ということになる。それをこの小論の問題意識に則って言い換えれば、「私という凡夫は、縁によって引き起こされるそのつどの煩悩である」ということだ。
 私とは、そのつどの煩悩なのだ。私の内側に煩悩があるのではなく、そのつどの煩悩の連続こそが私なのだ。煩悩の反応が、苦をなくしたいと高度な「煩悩」を起こし、自分に覆いをして自分を制御しようとする。これが仏教だと思う。

 「あなたの貪りは寂静である。あたかも釜の中で煎られて乾燥している菜のようである。」(同書P89、テーリーガーター冒頭の句)

 これまで私は、涅槃の語義について、「吹き消す」からの派生だとする定説で固まっているのかと思っていたが、そうでもないようだ。確かに考えてみれば、消されるべきものが執着であれば、執着はロウソクの火のように簡単に吹き消せるものだろうか? 執着は、下手に吹けばかえって燃え上がるような勢いのある火だと思う。しかし、もし「しっかりと覆いする」という意味であれば、執着は覆いの下で熾きとしてくすぶり続けていることになる。仏において、執着は滅尽しているのか、あるいはしっかりとコントロールされているだけなのか? 後者であれば、仏までの距離はずいぶん近くなるように感じるが、同時に凡夫との違いが不明瞭になってしまう気もする。もう少し考え続けたい。

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 ご意見お聞かせ下されば幸甚です。

2005年大晦日 曽我逸郎

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