たかはしさん 釈迦という人は後ろ向きな性格? 2005,6,21,
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たかはし、と申します。
ヒンズー教について検索していたら、このHPにたどり着きました。
仏教を中心にインド哲学全般に興味を持っています。
このHPが膨大で、全部読むのは体力的につらいものがありますので、質問することで理解できたらと思いメールしました。
まず、釈迦という人はどんな人間だと考えておられますか。私はずいぶんと後ろ向きな性格だったんじゃないか、そう思ってます。
王子で、結婚して子供にも恵まれて、でも若くして出家。あまりに恵まれすぎていたため、そこに憂いや苦しみを感じて、そんなものとは無縁の世界を求めて出家したと言っている人もいるようですが、私もそんな気がしています。
常に最高のものが与えられている、でも永遠には生きられない。毎日が祭りのようで楽しくても、祭りの後の寂しさからは逃れられない。でも、そういう環境にあったら、とにかく今を楽しもうと考える人もいますよね。
でも釈迦は出家した。人々の苦しむ様を見て、それを救おうと出家したとされる伝説はちょっと信用できない感じでいます。
どう思われますか。
曽我から たかはしさんへ 2005,7,3,
拝啓
返事遅くなり、申し訳ありません。
その時しばしの快を求めて、かえって苦を深めることを「前向き」と定義するならば、釈尊を「後ろ向き」と評価することが可能かもしれません。(小論「一切皆苦は快を含む。凡夫は執着依存症」、参照ください。)
しかし、私としては、釈尊は、「世俗の快は一時的なものに過ぎず、かえって目をくらませるものである」と、鋭く察知する感受性の鋭い方だったと思います。
釈尊の出家の動機については、私も、「一切衆生を救おう」というようなものというより、もっと実存的な、自分自身の問題に向き合った結果だったのではないかと想像しています。(小論「釈尊成道の過程」参照ください。今ではずいぶん考えが変わっていますが、出家にいたる釈尊の思いについては、今も同じ考えです。)
敬具
たかはし様
2005,7,3, 曽我逸郎
たかはしさんから 2005,7,3,
たかはしです。
ご返事ありがとうございました。
私もスッタニパータを愛読しています。
「欲望の対象には憂いがある、サイのツノのように独り歩め」が好きです。
それから、「体からは常に汚れたものが流れ出ている、目やに、耳垢、汗・・・・・」とか「糞尿が詰まっている、けっして清らかなものではない、だから執着に値しない」というような記述もありましたよね、うろ覚えなので正確ではないと思いますが。
絶世の美女を前にしても、こういう感覚を持つ、というかそこに着目するというのは、世俗の言葉では、やはり後ろ向きですよね。ちょっとしつこいですね。
私が後ろ向きな性格なので、釈迦もそうじゃないか、そうであってほしいという願望かも知れません。
スッタニパータを読むと妙に安心できるのです。たった一度の人生だけど、世間で言うところの失敗、負け犬でもいい、なんでもいい、そんな気持ちになれるのです。
ところで、無我についてですが、ヒンズー教やヨーガでは「真我」を求めますよね。日常の「私」、喜怒哀楽の主体たる「私」ではない、その奥に隠されている本当の我、真我。本来、何ものにも汚されることのない素晴らしい存在。その真我を認識できたときが悟りで、輪廻転生から解脱する。
釈迦は、真我については明確に答えを出していないような気がしています。真我はあるのか、ないのか。
ヨーガの本を読んでいたら、その著者は、仏教は無我ではない、非我だと言っていました。
通常感じている「私」は我ではない、とは言っているようですが、とすると我は、真我は別にあるのでしょうか。真我もないのでしょうか。
真我を求めることも執着ということで、探す必要がない、ということかなあ、と現時点では考えていますが、どう思われますか。