無宗ださん 縁起は因果関係ではない! 2005,6,19,

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はじめまして。無宗だと申します。
まだ、仏教に興味を持ちはじめて、まだ1年くらいの初心者です。

DNAと無明を関連付けるという発想には大変刺激を受けました。
修和さんとのやり取りを大変興味深く拝見させていただきました。

■十二支縁起と相互依存関係

さて、無謀とは知りつつ、意見させていただきます。
その中に、

 無明→行→識→名色→六処→接触→感受→渇愛→取著→生存→生まれ→老死
 (各支の訳語は片山一良訳に合わせた。)
 私としては、5節にあるように「眼や耳といった六処が(対象となった色に)接触し感受が起こり、それによって識が生起する」と考える方が、釈尊の無我=縁起の教えに適うと考える。十二支縁起として確立された各支の順序には、縁起説でありながら、「先に識があって感受する」という我論への転落の傾向が、既に見られるように思う。
との記述がありましたが、縁起において各支の順序にはあまり意味が無いと私は現在考えております。

最初、十二支縁起に関して
>(阿含経典による)仏教の根本聖典 増谷文雄 大蔵出版
>『分別縁起』 p77-80
>南伝 相応部経典 12,2 分別
>漢訳 雑阿含経 12、16
を読んで理解しようとしたのですが、
生によって老死があるとか、「六処-触-受-愛-取」は何となくわかるのですが、
「名色」と「有」が、特によくわかりませんでした。
「名色」と「有」以外は、個人のことを言っているのに対して、
「名色」と「有」は環境というか世界全体を指しているような印象を持ったのです。

縁起を因果関係として考えると、「名色」を滅する、「有」を滅するということが理解できなかったのです。
すなわち、「名色」を滅することで六処はたしかに無くなるかも知れないが、
六処だけではなく全てが滅してしまい、先が続かないと思ったのです。
たとえば、心臓の病気を治すには、病気の心臓を切りとってしまえばいい(そうしたら病気はなくなるけど、死んでしまいますよね?)といった乱暴な行為に思え、理解を超えてしまっていたのです。

ところが最近
>佐倉哲エッセイ集
>http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html
>第三章 縁起と因果
をじっくり読む機会に恵まれ、縁起を「相互依存関係」と解釈することができるということを知りました。

縁起を「相依関係」としてとらえれば、
>悪い行いがなければ、善い行ないもない。悪い行いを滅すれば、善い行いも滅する
というのは正しい。そしてこれは、
「悪い行いはせずに、善い行いをしましょう」というスローガンと全く矛盾しない。

「悪い行いを滅する」というのは、
「殺生や悪口にそれは悪い行為であるというレッテルを張ることを止める」
ということである。その行為自体が無くなってしまうわけではない。
どんな行為が悪い行為であるかの定義付けをやめれば、
何が善い行為かもわからなくなるので、
それを「善い行いも滅する」と表現しているに過ぎない。
という発想もできるようになりました。

そしてこれにより、私にとって懸案だった十二支縁起における名色の謎が解けたわけです。
すなわち、脳の中に外界のモデルを構築し、これを把握することが認識であり、
「外界」と「脳の中のモデル」には当然、「相互依存関係」があるわけです。

また、無明を四諦に関連付けて、
・苦における無知
・苦の因における無知
・苦の滅における無知
・苦の滅にいたる道においての無知
と解説してあったのですが、どうも納得いきませんでした。
今回、DNAと無明を関連付けるという発想に触れ、
無明を、DNAすなわち生命活動の根源が持つ「自己保存」、「自己複製」衝動と考えると非常にすっきりしました。

そして、十二支縁起は、因果の一本道ではなく、
「相依関係」の寄せ集めだと考えます。
(1)無明→行→識→愛→取→有(輪廻的迷いの生存?)
(2)無明→生(受精)→老死
(3)「識」の中身を詳細に見ると(名色→六処→触→受)となる

有(生存)をどこに位置付け、苦とどういう関連を付けるかに関し、
まだ不満はありますが、これで十一支までは納得することができました。
(1)における「識」が第一の矢であり、
「渇愛、取著」が第二の矢といえるでしょう。
(2)における老死を物理的に滅することはできませんが、
老死は無明を縁とした現象であることはわかります。

十二支縁起は、因果関係では説明しきれないと考えます。

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■優しい嘘

増谷文雄氏の「仏教の根本聖典」pp29-31における梵天勧請のくだりでは、
>いまわれ甘露の門をひらく。
>耳あるものは聞け。ふるき信を去れ。
>梵天よ、われは思い惑うことありて、
>この微妙の法を説かなかったのである。
となっていたのですが、
悪魔との対話 (岩波文庫 サンユッタ・ニカーヤ2)中村 元訳ですと、
>耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
>(おのが)信仰を捨てよ。
>梵天よ。人々を害するであろうかと思って、
>わたくしはいみじくも絶妙な真理を人々には説かなかったのだ。
となっており、説法躊躇から教えを説くことを決断に至るまでの詳しさが
大きく違っていました。

「仏教の根本聖典」を読んだ際に、
悟りを開いたはずの世尊が「思い惑う」、そして、
「疲労困憊を厭い説法せんと欲しなかった」というのは
納得いかなかったのですが、
「悪魔との対話」の方では、「思い惑う」ではなく
「人々を害するであろうか」であり、その経緯を読むことで
そのニュアンスがわかりました。
例えは悪いですが、
何も知らない奥さんに、旦那さんが浮気をしていることを、教えてあげたら、
その奥さんが傷つくのではないか心配するようなものですね(笑)
世の中の人間は冷徹な真理より、優しい嘘を欲するものなのかもしれません。

アートマンを信じ、天界往生で欲楽の世界に来世生まれることを夢見ている人に、
諸法無我を説き、その夢を否定することは、
そのような人々を害するのではないかと世尊は心配したわけです。

> なにごとにも価値はないのであれば、別に自殺してもいいのではないか?
> 死ねば一切の苦はなくなるのだから、それがもっとも手っ取り早く、
>根本的な苦の解決法であることになる。
といった意見を読むと、その心配が杞憂ではなかったというのがわかります。

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■お釈迦様の手のひらの上

人間が五感からの刺激を脳で処理して、筋肉を動かす動物に過ぎないとすれば、
個人の営みは最終的に脳の電気信号に還元できます。
だとすれば、 『自分が五体満足な人間であるのか?
どこかの培養液の中の電極付きの脳なのか?』判別は不可能ともいえるでしょう。
そうであれば、自分がどちらなのか悩むのは意味のあることなのか?
意味は無いと思います。

同様に、世の中が決定論だったとしても、
実際に自分が経験・観察できる世界においては自由意思があり、
努力に強く依存した結果が得られます。
誰かの思惑にのせられるのであれば、後で気づけば悔しいですが、
物理現象にのせられるのであれば、どっちでもいいかなという気がします。


 (無宗ださんからは、さらにこの後7月17,18日に一通ずつメールを頂戴し、一括してお返事をお送りしました。下の「続きのメールへ」をクリックしてください。)

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