曽我逸郎

靖国神社に関する「週刊ポスト」笹幸恵さんのご意見に


2010年10月11日

 ある人から週刊誌の記事のコピーをもらって、「感想を聞かせてくれ」と言われていたのに、鞄に入れたままにしていた。
 『週刊ポスト』8月20、27日合併号、笹幸恵さん(ジャーナリスト)の『戦後65年目の夏 女ひとり、静かすぎる靖国を歩く』という4ページの読み物である。
 再度読み返して、再度違和感を覚えたので、随分日が経ってしまったが、感じたところを書いておきたい。

 笹さんは言う。

 「もとより私は、首相の靖国神社参拝が政治の俎上に上がること自体、違和感を覚える一人だ。靖国神社は国内における唯一の戦没者慰霊顕彰施設であり、本来、政治問題とはなんら関係がない。」
 まず、「靖国神社は戦没者慰霊顕彰施設として国内唯一」と仰るのは、勘違いであろう。靖国神社と同様の背景を持ち、関係も深い護国神社がほぼ各県にひとつずつあるし、村や部隊といった単位での忠魂碑はさらに数多く存在する。
 さらに「顕彰」という言葉をはずせば、戦争の犠牲になった方々を慰霊追悼する施設は、沖縄、広島、長崎はじめ、かなりある。千鳥ケ淵戦没者墓苑に参拝する人もおられる。にも拘らず、笹さんは、「靖国神社は国内唯一」と強調される。その理由は、「顕彰施設」という点にあるのだろう。「顕彰」はキイワードだ。そのことは、後で考えてみたい。

 また、笹さんは、小泉首相靖国参拝を俎上に載せることだけを政治的と捉えておられるようだ。しかし、小泉首相の靖国参拝そのものが、既に政治的なものではなかったか。敢えて内外に物議を醸そうとする政治的パフォーマンスだったのではないか、と思う。
 笹さんは、靖国問題が最近話題になっていないと感じ、そのことをどうやら残念に思っておられるようだ。確かに記事の、笹さんが厚手のジャケットを着て写っておられる扉写真背景の靖国神社は静かそうだ。だが、今年も8月15日には、靖国神社周辺ではデモがあり、機動隊をはさんで、待ち受けるウヨクとけして静かとは言えないやりとりがあったのだが…。

 ともあれ、一読して、私がもっとも違和感を覚えたのは、「靖国神社は…本来、政治問題とは何ら関係がない」と仰る点だ。

 靖国神社に限らず、そもそも宗教というものは、表向き聖と俗とを峻別し俗を見下して見せつつ、実際は極めて世俗的・政治的な働きをしてきた。そのことは、世界史の教科書で例えばヨーロッパの歴史をざっとなぞるだけでも分かるだろう。日本の歴史でも同様だ。「仏教」も、政治、世俗とかかわりあい、互に強く影響しあってきた。神道においても、天武・持統の古事記・日本書紀の編纂、そこにおける最重要神のタカミムスヒから皇祖神アマテラスへの入れ替え、朱子学の影響を受けカルト化して尊王倒幕運動の精神的支柱となった平田国学、欧米列強に伍して富国強兵を図るためキリスト教との対抗上作り上げられた廃仏毀釈運動と国家神道、等々、その時々の世俗の政治的欲求と絡み合いながら、神道は変遷してきた。その過程で、かつて日本の山河、人里に息づいていたであろう本来自然の素朴な神々のあり方は、無残に破壊されてしまった。

 その中でも、靖国神社は、特に際立って政治的だ。いや、政治的どころか、軍事的と言うべきだろう。
 そもそも、創立の母体となった招魂社は、クーデター明治維新の薩長側の犠牲者だけを政治的に選別して祀るものだった。その後、敗戦まで陸海軍の管轄下にあって、スムーズな徴兵のために、臣民たちの間に兵隊となって国体のために死ぬことを受けいれざるを得ない「空気」を作る働きをした。国体のために死んで靖国神社で神として祀られ現人神である天皇に拝されることは、この上ない名誉、喜びという宣伝がなされた。この、国体のために死ぬことをを当然とする思想が、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」や、兵站を軽視し兵士の命を軽視した数々のいいかげんな作戦立案の背景にあったと思う。自軍の兵の命の軽視は、当然の結果として、他国の民間人の殺戮をも容易にした。

 笹幸恵さんは、靖国神社を「唯一の慰霊顕彰施設」と書いておられる。単に慰霊し追悼するだけではなく、顕彰する施設であるから、靖国神社は特別なのだ。では「顕彰」とはなんだろう。褒め称え、見習うべき手本として広く世に示す事である。「顕彰」と言い続ける限り、靖国神社は、国体のために死ぬことを賞賛し、見習わせようとしていることになる。つまり、靖国神社は、今でも敗戦迄の政治的任務を手放していない。

 靖国神社の歴史を知らず、ただ通りかかって境内を歩いただけなら、このような政治性は感じないかもしれない。かつても戦争の陰がまだ国内に差さない内は、サーカスや競馬も行われる賑やかな観光・行楽地でもあったらしい。
 しかし、現代でも遊就館に入れば、靖国神社の政治性は赤裸々に展示されている。そこで主張されているのは、日本は、亜細亜解放のために、又は、追い詰められて自衛のために仕方なく戦争を始めたのであり、戦場においても日本軍は行い正しく、誰一人罪を問われるべき者はおらず、自己犠牲の精神で崇高に振舞った、という主張だ。遊就館は、日本を美化し、覆い隠せない悪は、すべて欧米列強や反日運動といった他人のせいにしている。
 私とて、欧米列強にも多くの罪があったと思う。しかし、他国に攻め込んで、奪い、殺し、犯し、破壊しておいて、責任も罪もない、などということはできない。遊就館の展示に、占領され奪われ殺され犯され破壊された現地の人々への誠実な言及はあるのだろうか。少なくとも私には、そういう展示を見た記憶はない。まず自らきちんと振り返り、反省すべき点を徹底して反省しなければならない。その上ではじめて他者を論じることが可能になる。

 遊就館の展示、すなわちそれは、靖国神社の考えの表明であるが、そこに違和感を感じる点は、戦争責任に関してだけではない。死んだ兵たちの思いに寄り添っているとは思えないのだ。
 各々の作戦についての説明文は、どれも同じトーンのステレオタイプで兵士たちの勇敢さと崇高な自己犠牲の精神を賞賛している。ニューギニアもインパールも、美談にされている。例えば、ニューギニアの記述はこうだ。

 「南海支隊のポートモレスビー陸路攻略作戦に始まるニューギニア作戦は、後に新設された安達二十三中将率いる第18軍が、人間の限界をこえた苦闘に耐えて、アイタペで終戦を迎えるまで戦い抜いた作戦である。この間に発揮された崇高な人間性は、ブナの玉砕、ダンピールの悲劇、サラワケット山系の縦断などに多くの逸話を残した。」
 兵たちに起ったことは、こんな美談だったのか。貨物船にすし詰めにされてニューギニアに向かい、満足な援護もない船は沈められた。なんとか陸に漂着しても武器・食料・医薬品の大半は失われており、クモやムカデを食べ泥水を飲んで、ただ食料の期待できる自軍基地に合流するためにジャングルの湿地帯を数百キロ歩かねばならなかった。標高4000mのサラワケット山脈では転落死や疲労凍死が続出した。飢え、アメーバ赤痢やマラリヤに苦しみ、やがて木の根元にへたり込んで蛆を湧かせながら、兵たちは息を引き取った。例えば、ホランディアから敗走した兵たちは300キロ離れたサルミの陣地をを目指して1ヶ月半泥のジャングルを「転進」し、ようやくその直前のトル河まで辿りついたが、そこに立っていたのは、「渡河する者は銃殺する」とのサルミ師団長の布告だった。既にサルミも戦闘状態にあり、食料も無かったのだ。トル河河畔では、仲間を襲って食うことまで起ったという。その中にあった第6飛行師団だけでも昭和19年6月のわずか一ヶ月で1388名が「戦病死」していると言う。(『地獄の日本兵』飯田進、新潮選書)

 私は、敬老のお祝いでお年寄りを訪問した際など、機会を見つけて戦争体験をお聞きしてきた。太平洋の環礁の基地で時々は敵機の襲来もあったが芋作りに明け暮れていたという人。仏印(ベトナム)の港に工兵として駐屯していて戦闘経験はないという人。内地で通信兵の養成をしていたという人。二等兵だったが内地で隊長付きだったので兵舎にも入らず民家で結構優雅に暮らしたという人。初めての子供が生まれる直前に夫の戦死公報が届いたという未亡人。片足を失った傷痍軍人と結婚した婦人…。戦争体験は実に様々だ。懐かしがることのできる体験をした恵まれた人は気軽に話してくれるが、つらい経験や良心の呵責はなかなか口にのぼらない。まして、死んだ人たちからは、一言も聞くことはできない。
 ニューギニアの数少ない生き残りの一人、奥崎元上等兵は、昭和44年の一般参賀で死んだ部下の名を呼び、「ヤマザキ、天皇を撃て!」と叫んで昭和天皇にパチンコ玉を発射した。ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて神軍』の主人公でもある奥崎元上等兵は、かなり複雑な人物だったようだが、その胸中には何があったのか。おそらく、ニューギニアでの経験を色濃く引きずっていたであろう。蛆を湧かせた戦友の亡骸を前に、自分も動けなくなった兵たちの胸の内と、共有するものもあったに違いない。その兵たちは、遊就館の記述をどう思うだろうか。

 補給もないままジャングルに放り込んで、ついには仲間さえ襲って食べるところまで兵たちを追い詰めた一連の作戦を、遊就館は、「崇高な人間性」「逸話」と形容している。兵たちの無念、憤りを、遊就館・靖国神社はどう捉えているのか。靖国神社は、飢え、風土病の高熱にあえぎ、蚊やハエやヒルに苛まれながらそれを払う力もなく、野垂れ死んでいった兵たちの思いを本気で共有しようとしているのか。

 靖国神社は、自己犠牲を賞賛するばかりで、自己犠牲に追い込んだ側の責任には、一言も触れることはない。兵たちの無念に真摯に思いを致さないまま、その死を御国のための死として顕彰し続けている。これは、慰霊でも追悼でもない。兵たちの死を利用しているだけではないのか。

 笹幸恵さんは、遊就館の展示について、若いカップルの「切なくなっちゃうよね」という言葉を引き、「最近の若者も捨てたものではない」と書いておられる。また、特攻隊員の手紙について、「顔で笑って心で泣いてという心情」「敬うべき崇高な志」と述べておられる。
 これでは遊就館と同じだ。自己犠牲を賞賛するばかりで、自己犠牲を強いた者への言及はない。ニューギニアなど激戦地も訪れておられるそうだが、その戦いをどのように感じておられるのだろうか。やっぱり美談なのか。崇高なのか。
 特攻隊の自己犠牲を美化するよりも、例えば、バンザイで見送られ出撃したものの機体整備不良で不時着して生きて戻った隊員が、罪人のごとく扱われ幽閉されたことの方が、軍の本質を示すのではないか。あるいは、合理性に欠けるコンセプトのせいで連合軍に Baka Bomb(馬鹿爆弾)と呼ばれた特攻専用機「桜花」はどうか。重すぎる荷をぶら下げてやっと飛べる状態の母機もろとも、米戦闘機の絶好の餌食にされた。第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊では、一式陸攻18機、ぶら下げられた桜花15機すべてが目的地はるか手前で撃墜された。一式陸攻には7〜8名、桜花には1名が搭乗している。皆死んでしまった。十分な護衛機をつけられなかったにもかかわらず、司令長官が、「必死必殺を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」という、自分の「部下思い」に陶酔した情緒的判断を下した結果である。危険な訓練を必死に克服した桜花操縦士たちが、母機に繋がれたまま何もできずコックピットに座して撃墜されていくとき、不合理に憤らなかった筈があろうか。どれだけのエネルギーをつぎ込んでどれだけの命を空しく浪費したか。笹さんは、ジャーナリストを自称しておられるようだが、ジャーナリストとして史実を深く掘り下げるのではなく、浅く都合よくつまみ食いした部分を繋ぎ合わせて、一部の人々の気に入るように書いておられるのではないかと感じる。

 靖国神社に話を戻そう。
 靖国神社にも同情の余地はある。今、東京ドームでプロ野球がある日は、各地からの観戦ツアーバスが境内にずらりと並ぶそうだ。また、かつて深夜、暗闇の中、死んだ兵たちの魂を厳かに招き下ろしたという招魂斎庭は、今では月極めの駐車場として貸し出され、近隣の住民や会社のネーム・プレートと車が並んでいる。つまり、靖国神社の財政は苦しいのだ。なんとか生き残ろうと懸命の努力を続けている。
 今の靖国神社は、横井さんや小野田さんが敗戦後も長らくジャングルに潜伏し続けたのに似ている。戦争末期、米軍の圧倒的攻撃で部隊の崩壊に直面して、一部の指揮官は、指揮を放棄し、兵士達に、おのおのの判断でゲリラ戦を継続せよ、と命じたそうだ。そんな命令があったかどうかは分からないが、靖国神社は、補給も支援も切れたまままま、単独で、かつての任務、「戦死を美化、顕彰して、若者を国体護持のために死ねる兵にすること」を律儀に継続しようとしているように思える。

 では、靖国神社が今も守ろうとしている国体は、敗戦後どうなったのか。
 敗戦のすぐ翌月、昭和天皇はマッカーサーを訪問している。その後も頻繁に訪問する中で、東条らにすべての責任を「しょっかぶせ」、マッカーサーの、スムーズな占領体制確立のために天皇を利用したい思惑とも重なりあり、昭和天皇は東京裁判出廷を回避することに成功する。その直後、昭和天皇は、今度は共産主義に怯え、駐留米軍によって国体(天皇制)を守ることを画策した。一方、米国側は、「日本に望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」(ダレスの弁)を狙っており、昭和天皇は「日本側からの基地の自発的オファ」という形でダレスの狙いを実現させるよう導いた。その結果が日米安全保障条約であり、今の沖縄の有り様である。(『昭和天皇・マッカーサー会見』豊下楢彦、岩波現代文庫)
 数多くの兵士がそのために命を捧げさせられたところの国体が、鬼畜の敵であったはずの駐留米軍に今や預けられている。米軍はどういうつもりでいるのか分からないが、少なくとも昭和天皇は、国体を守る役割りを米軍に預けた。昭和天皇は、敗戦後すぐさま帝国陸海軍から米軍に乗り換えたのだ。こんな状況になるなら、最初からそうしておけばよかった。兵たちは何のために戦い死んだのか。死ぬ必要はあったのか。昭和天皇および敗戦国日本は、兵たちに強要した自己犠牲を、結局は無にしたのではないか。戦死した兵たちを裏切ったのではないのか。
 切り捨てられたのは、兵ばかりではない。靖国神社も、いつまでも戦争中の任務を握り締め、せっかく「罪をしょっかぶせた」東条らを神にしてしまい、「欧米列強に嵌められて戦争に追い込まれた」などと主張し続けている。駐留米軍に乗り換えた昭和天皇にとって、靖国神社はもはや困った存在になっていたのではないだろうか。富田メモに残された言葉もその発露ではないかと想像する。

 そして、敗戦後、米軍に乗り換えたのは、昭和天皇ばかりではなかった。ほとんど前線を訪れることもなく、兵站を軽視し、兵の命を軽視した無謀でいいかげんな作戦立案を積み重ねその貫徹を無理強いした参謀たちの多くも、朝鮮戦争が始まり、米軍の要求・指導の下、再軍備がスタートすると、そこに馳せ参じた。原子爆弾の人体への影響調査や中国での生体実験のデータなどを米軍に献上した軍医もいたそうだ。このように旧軍で内地の恵まれた場所にいて指導的立場にあった人たちの少なからぬ人数が、敗戦後、寝返って行った。多くの兵や民間人を死に追いやった連中が、その責任を負うどころか、「鬼畜」の傘下へと走ったのだ。のみならず、この人たちの中には、自分の裏切りを糊塗するためか、右翼的な言辞を表明する人も多い。欧米列強を非難し太平洋戦争を植民地支配から東亜を解放する聖戦だったと主張する靖国神社の周囲に、今、米国に揉み手をする人たちが寄り集うという奇妙な状況になっている。

 靖国神社の周辺には、少なくとも三種類の人たちがいるのだ。
 まず、国体のために「敵を殺せ、死ね」と言われて、死んだ兵とその親族。この中には、戦死を崇高で誇るべきものと思いたい人もいるし、一方には、朝鮮半島や台湾出身者、また日本人の中にも、父や兄らの合祀を取り消してくれ、と要求する人たちもいる。
 次に、敗戦まで兵とその家族に、国体のために死ぬのは名誉・当然だと刷り込み、そのように振舞わせ、敗戦後も 兵たちの死を利用し続けながら、補給なきままひとり律儀に同じ任務を果たそうとしている靖国神社。
 そして、敗戦後米国に寝返りツイショウしながら、それを糊塗するため、靖国神社周辺で、一見「愛国」的言辞を振りまく売国者たち。米国に魂を売った者たちが、靖国神社を隠れ蓑として利用しているのだ。
 相矛盾するばらばらの立場が、靖国神社の上で絡み合いとぐろを巻いている。

 笹さんは、記事の締めくくりで、「国は、こうして(海外の戦場の)各地に散らばる慰霊碑について、維持管理の手立てを早急に講じるべきだろう。その上で、たとえば、かつての敵国と戦場となった国、そして日本とで合同慰霊祭を行っていけば、それこそまさに平和外交である」と提案しておられる。
 この提案の背景には、「相手国が靖国神社参拝問題を外交の切り札に使っている」のに対して、それを「いかに政治的利用価値のないものにするか」という狙いがあるようで、慰霊を政治・外交の道具に利用しようとする思惑が気にかかるところだ。
 しかし、確かに、日本は、戦後一貫して遺骨の収集にさえ真面目に取り組んでこなかった。兵の命を粗末に扱った伝統が、まだ続いているのかもしれない。ともあれ、海外の戦地で現地の方々と共に、敵味方の別なく、兵士民間人の別なく、犠牲になった人々を追悼することは、余計な思惑はなしにして、意味深いことだと私も思う。

 それに加えて、私は、靖国神社自身がそれを靖国神社において行ってくれれば、とも期待する。
 つまり、敗戦後も律儀にしがみついている任務<兵たちの死を利用して自己犠牲を賞賛し国のために死ぬことを顕彰すること>を止め、兵たちの思いに真摯に心を寄せ、それを共有し、悲しみ、追悼してもらえれば、と願う。いうなれば、靖国神社自体が、脱政治化、脱軍事化して、純粋に追悼の場となるのである。ニューギニアの泥河に蛆を湧かせて浮かんだ兵たちや、目的地のはるか手前で母機に吊り下げられたまま狭い席でなにひとつできないまま撃墜されていく桜花のパイロットたちに思いをはせれば、誰しも、その愚かさ、悲惨さに戦争を厭う気持ちにならざるを得ない。そして、愚かな戦争に惨たらしく犠牲にされた点では、敵兵も民間人も変わりない。敵兵も民間人も合祀せよ、などと言うつもりはさらさらないが、天皇の側で戦った者だけではなく、日本兵が殺した敵兵も現地の人々も隔てなく悼み、戦争遂行の一翼を担った過去を悔やんで欲しい。靖国神社がそうなれば、遊就館の展示は、顕彰ではなくなるだろう。美談でもなくなる筈だ。逆に、戦争に加担してきた自らの過去の歴史を展示して欲しい。つまり、広島平和記念公園のような、今までとは正反対の反戦の神社になってくれることを願う。

 先に、靖国神社の周辺には三種類の人たちがいる、と書いた。靖国神社は、これまでのあり方を捨て、第一の人たち、すなわち亡くなった兵たちと遺族に誠実に寄り添ってほしいのだ。合祀をやめて欲しい、父の魂を返して欲しいと願う遺族には、応えるべきだと思う。逆に、靖国神社で多くの人に追悼して欲しいという遺族の思いも叶えることができるだろう。かつて戦った国の人も、かつて侵略した相手国の人も、戦争遂行神社から反戦神社に変った靖国神社に共感する筈だ。政教分離の問題は残るにせよ、首相参拝が問題になる度合いはぐんと下がり、笹さんの仰る「外交の切り札」としての意味も自然に消滅する。天皇の参拝さえ復活されるかもしれない。世界中の良識ある人々から支援されるようになるだろう。今のあり方を逆転することで、靖国神社は、新たな発展の可能性を開くことができると思う。財政的にも状況は好転するのではないだろうか。

 絶対にありえない荒唐無稽な思い付きであろうか。靖国神社を利用したい売国者たちにとっては面白くないかもしれないが、それ以外の誰にとってもいいことだと思う。靖国神社にとっても、様々な考えの遺族にとっても、世界中の戦争を憎む人たちにとっても。そして誰より、戦争によって夢も家族との暮らしも命も奪われた人たちの気持ちに適うことだと思う。
 靖国神社におかれては、どうか柔軟な気持ちで検討していただけるとありがたい。

ご意見お聞かせください。
2010年10月11日 曽我逸郎

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