曽我逸郎

《友人の通夜の帰りに》


 先日、以前の仕事仲間の通夜に行った。私より年下の親しい人を見送るのは、これで二度目になる。
 私が社会人になって数年の頃、私の会社といわば仲間同志のような会社に彼は新入社員としてやってきた。いつも汗をかきながら困ったような照れたような微笑みを浮かべて、太った大きな体を小さく丸めていた。どちらかというと口先の要領のよさが幅を利かす業界に、彼の生来の誠実さが適応しようとしながらできない、その居心地の悪さがあの微笑みに現れていたのだろうと今になって思う。大きな体に似合わずビリヤードが上手で、酒に強く、宴席では勧められる酒をすべて律義に飲み干していた。
 私が異動し彼も転勤して十数年会わないままでいたら、突然電話で彼の死を知らされた。イベントを終え、戻ろうとした駅の切符売場で倒れたのだという。その夜日付が変わってまもなく、出張先の病院で息を引き取った。
 葬儀会館の通夜に赴いて、木の箱に収められ花に埋もれた彼に久しぶりに向き合った。死化粧をほどこされた彼の頬は平たくこわばり、硬く口を結んで、いつもそこにあった筈の微笑みはもはやない。そのときやっと彼の死を思い知って、私はたじろいだ。
 これは、もはや彼ではない。何か大切なものが無くなってしまった。彼だったものが、むきだしの「物自体」となって、箱の中にごろりと横たわっている。
 この亡失感を説明するのに魂という存在を考えるのは、確かにとても自然な感覚だとは思う。魂が去って、置き去りにされた遺骸、、、

 しかし、本当にそうだろうか? 何が本当に失われたのか? 夜の電車で揺られながら考えた。
 それは、彼独特の困ったような笑みであり、額の汗を拭く手つきであり、優しく実直な眼差しであり、大きな背中であり、柔らかく冗談めかして自分の考えを伝えてくる声の調子であり、その他すべての「彼らしさ」ではないだろうか? 私の中で彼を作ってきた彼らしさのひとつひとつ。魂というような「もの」ではない、彼らしさという「こと」。彼の肉体という場所で起こっていた彼らしい反応のパターン、様式。それがなくなってしまった。失われたのは「存在」ではなく「現象」なのだ。
 様々な「その人らしさ」のすべてが同時に失われてしまうという受け入れ難い出来事を、最もシンプルに解釈し納得するために構想された概念・言葉、それが「魂」だと思う。魂とは、現実の現象の多様性を捨象し抽象化する我々の無自覚な思考の産物なのだ。

 時々、まるで我々は地雷原をばらばらに歩む旅人のようだと思う。靴の紐がほどけたり、鳥の声に気を取られたり、ほんの些細な事で歩調は乱れ、結果地雷を踏んだり踏まなかったりする。たまたま私はまだ踏んでいないが、何度か地雷を跨いだ事があったかもしれない。生まれる時がかなり危ない難産だったそうだし、幼い頃の事故、オートバイに乗り始めてから繰り返した転倒・接触、どれをとっても一つ間違えば、、という内容だった。時々遠くで、近くで本当に地雷を踏んでしまう人がいる。この一瞬この一瞬の今、自分に何が起こっても不思議ではない。
 仮に運良く踏まずに過ごせたとしても、誰でも数十年の内に必ず死ぬ。私自身も、命の反応が止まって、苦しみも悲しみもなく、喜ぶ事も安らぐ事もなく、ただの物として横たわる時が確実にくる。反応を終えたむくろは焼かれて煙と灰になり、世界に散り、風になり土になり草になり虫になるだろう。
 自分の死はまだしも、親しい人の死を想像する事はつらい。時々の様々な表情の眼差しや声の調子、しぐさ、かけてくれた思いやり、体の微妙な形、、。それらが失われることを思うととてもつらい。しかし、我々は、そんな事が起こっても、悲しみ嘆きながらそれを胸の真正面で受け入れる他はない。
 愛するものの変化を受け入れる事、それは、無我・縁起を学び、考え、正しく突き詰める事によってのみ可能になると思う。
 人生は苦に満ちている。悲しみや嘆き、許し難い理不尽さ。無我・縁起を知ったとて、それらが消えるわけではなかろう。悲しむ事も嘆く事もなく、理不尽さに怒る事もない人間になろうとは思わない。悲しみも嘆きも怒りもごまかさず正面から受け止めて正しく悲しみ嘆き怒る事のできる人でありたい。そして、無我・縁起を知った時、悲しみや嘆きや怒りだけでなく、世界に充ちる輝き・喜びにも我々は開かれると信じたい。
 世界は完璧ではない。多くの欠陥、理不尽さに充ちている。しかし、だからといって世界を恨み拒絶するのではなく、欠陥や理不尽さ含む世界を悲しみ嘆き怒りながら、不完全な世界と和解し世界の不完全さを許し、世界の喜びをともに喜ぶことも可能な筈だと思う。そして、それを可能にしてくれるのが、釈尊の残して下さった無我・縁起だと信じたい。

 U君という現象は止まり無くなってしまった。私という現象は、その事に直面したじろぐ。突然に死を迎えた彼の驚き、怒り、無念さ、失望、諦め、、、、様々に彼の気持ちを想像し、私はつらくなる。同じ事は、私という現象にも必ず起こる。私の身近な、私の愛する現象にも起こる。なにもかも乾いた砂のごとく指の間からこぼれおちていく。しかし、それでもなお、私は、変化する世界を愛せる自分でありたいと思う。

           2000年6月

曽我逸郎

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