曽我逸郎

「実義tattva」について

松本史朗先生の中論18章第9偈への見解に

(2002年12月)


 tom-halさんから、「禅思想の批判的研究」(松本史朗、大蔵出版)への反論メールを頂いた(2002,12,2,)。そのやりとりは意見交換のページで見て頂きたいが、おかげで、ひとつ忘れていた問題を思い出させて頂いた。
 中論の「実義tattva」をどう考えるか、という問題である。おそらく、意見交換でFukada Noriko さんと議論した「真如」に関する議論とも関連してくるだろう。

 松本先生の、「禅思想の批判的研究」25ページ、「縁起と空」(大蔵出版)351ページあたりの主張を総合すると、以下のような内容になろう。

 無分別知は、普通「分別のない知」「分析的でない知」というように理解されているが、本来はそうではなく、「無区別なるもの、すなわち単一の実在についての知」がそもそもの意味である。「単一の実在」とは、ウパニシャッド的一元論であり、非仏教的思想である。
 龍樹は中論で一度だけ、この「無分別」という言葉を「実義tattva」の形容として使っている。(18章第9偈)
 ここには、別の形容として "aparapratyaya"という言葉もある。これは、古来「他のものによって知られず(自分自身で知るべき)(自内証の)」と解釈されてきた。しかし、中論に40回ほど用いられる "pratyaya"はすべて「縁」という意味であるのに、この個所だけ「知」と解釈するのは不自然である。"aparapratyaya"は、「他の者を縁とせず」と解釈するのが正しい。
 すなわち「実義tattva」とは、「分けられない単一の、他を縁としない実在」のことである。勿論、龍樹がそんな実在を認めているはずはなく、龍樹は「実義tattva」を「それを想定すれば矛盾に陥ってしまう誤った概念」として提示しているのである。
 続く第10偈は、「あるものによりてあるものが生じる時、それは「実義tattva」ではない。」という意味である。すなわち、縁起すれば「実義tattva」ではない。縁起しないものはない。よって「実義tattva」は存在しない。そう理解してこそ第9偈とつながってくる。

 以上が、松本先生の主張である。(間違っていないか、原文でご確認お願いします。)

 確かに龍樹が「縁起しない単一の実在」などを認める筈はない。しかし、それと一緒に無分別知まで否定されねばならないのか?
 私の仏教理解の仮説では、分別知は重要だが、分別知だけではあるレベルを突破できず、分別知を超えた手立てが必要だと考えている。それは、分別知による学習と定の訓練を重ねた先に期待される「般若」であろう。般若とは、「修習さるべき、遍く知る、自我という支えを持たない無我の知」である。(この般若の説明は、「法と縁起 平川彰著作集 第1巻」P387〜「般若と識」からのやや恣意的な抽出である。)

 では中論18章第9偈をどのように読めば、「縁起しない単一の実在」を主張することなく、無分別知(般若)を否定しないですむのだろうか?

 文法的に解明する力がないので、以下はお話にならない間違いなのかもしれない。恥を恐れず見ていただいて、どなたか間違いを訂正して頂ければ幸甚である。

 最初に感じた疑問。「実義tattva」は、<実在>として外にモノとして立てねばならないのだろうか? 雲が流れ梢が揺れるこの現象世界とは別にモノとしての「実義tattva」がある筈はない。「実義tattva」とは、この現象世界の我々への「ある見え方」のことではないだろうか?
 「世界のありのままの姿」などと、意味ありげに見えて無内容なことを言うつもりはない。人間は、物理的生物的に感じ取れる刺激を感じ取れる範囲でしか感じられないのだから。

 ミツバチは5種類の異なった波長の光に反応する視細胞を持つという。(ヒトは3種類) 世界の見え方は、人間とミツバチとでは違うが、どちらかがありのままでどちらかは間違っているなどとは言えない。それぞれがそれぞれの仕方で見ているのであって、秘められた「唯一の真なるありのまま」はない。

 「実義tattva」とは、「対象化」「いつも化」「価値の固定化」によってゆがめられていない見え方のことではないだろうか?
 世界の実際のあり方は、部分の中に部分が無限の入れ子状態をなし、個物のない、移ろい行き揺らめきあう現象の広がり・縁起の連鎖であるのに、人は、動物としての進化の過程で身につけてきた「対象化」「いつも化」「価値の固定化」によって環境を見ている。自分の都合に合わせて部分を切り取り対象化し、本来はそのつど一回きりの現象を、いつも変わらぬ固定的な存在として捉え、自分にとっての好悪で価値を塗りつけ、歪んだ硬直した見方で環境を見ている。憎しみの対象を創り上げ、執着の対象を創り上げ、自分が「ある」と思って自分に執着する。こうして自分と他とに苦を生み出す。
 我々の普通の見方に内在するこのような傾向の停止した見え方、それが「実義tattva」ではないだろうか?

 平川先生によれば、般若とは、修習さるべき、遍く知る、自我という支えを持たない無我の知であった。私の考えを補ってこれを拡大解釈させて頂く。
 「修習さるべき」とは「分別知による学習だけでは不充分で、定による訓練が必要な」という意味であり、「遍く知る」とは「世界から特定の対象を切り出すことなく、縁起の連関の動き・流れを知る」という意味であり、「自我という支えを持たない無我の」とは「まず自分があって世界の外から対象を観察する通常の知とは異なり、自分も無我なる現象として世界の縁起の連関の流れの内である、そのような状態での知、見る自分が見られる対象を見るという指向性のない知」という意味である。すなわち、般若による世界の見え方が「実義tattva」ではないだろうか。上の文章から抜きだせば、「個物のない、移ろいゆき揺らめきあう現象の広がり・縁起の連鎖である」環境が、「実義tattva」ではないかと思う。(対象として捉えてはならないのだが)

 勿論我々は、このような見え方にずっと留まり続けることはできない。この状態では、生活を営む事ができない。釈尊の場合でも、最長で7日間であった。経典によれば、その7日間の間にも解脱の喜びを味わいつつ様々に分析しておられるから、「実義tattva」に居られたのは、もっと短かった筈である。
 このように、さほど長くない時間の後、日常のあり方に戻るのであるが、その時は、「対象化」と「いつも化」は復活してくる(さもなければ会話も不可能である)。しかし、自分で創り上げた価値の固定化に自分で束縛される事はなくなっており、執着もなくなり、自分が他の一切の現象とともに縁起する無我なる現象であることが承知されていると想像する。

 ところで、龍樹による実義tattvaの形容は、ふたつだけではない。松本先生による中論18章第9偈の訳を引用しておこう。(「縁起と空」P352、「禅思想の批判的研究」P28)

 他のものを縁とせず(a)、寂滅で(b)、戯論によって戯論されず(c)、無分別で(d)、別異な対象ではないもの(e)、これが実義の定義である。

 松本説「実義とはそれを想定すれば矛盾に陥る否定すべき概念である」では、(b)(c)にそぐわないように感じる。(b)(c)には中論冒頭の帰敬偈を思い起こさせるポジティブなトーンがあり、龍樹はやはり「実義tattva」を肯定的に考えているのではないだろうか?

 では「実義tattva」が先に述べたような「見え方」だとすると、これら五つの形容は矛盾なく読めるのだろうか? 

 問題となっている(a)はとりあえず置いておくと、その他はすべて、私の「実義tattva」の解釈、すなわち《「対象化」「いつも化」「価値の固定化」によってゆがめられていない環境の見え方》に非常にぴったりとくるのではないだろうか?
 (b)については、「実義tattva」はvividではつらつとしていているようなイメージを個人的には持っているが、一般的には「寂滅」で皆が頷くだろう。
 (c)については、言葉は本質的に「見る自分が世界から対象を切り出す」という構造をもっており、そのような言葉によっては「実義tattva」は決して表現できない、ということであり、まさにそのとおりである。(「お前がここで言葉で説明しているじゃないか」というアゲアシトリは勘弁下さい。説明できないと知りつつ、なんとか無理くり核心の周辺を行きつ戻りつほじくり返しているのですから。それが証拠に、何が言いたいのかほとんど分からないでしょう?)
 (d)は、松本先生の主張のとおり、「区別のない(内に区別の構造のない)」と解釈して全く問題ない。
 (e)は、「自分とは別に認識の対象として外に立てられたものではない」ということであり、まさにそのとおりである。

 残るは問題の(a)である。
 これまでの全ての注釈者達(「縁起と空」P352)の解釈に従って「他のものによって知られず」(自分自身で知るべき)と読んでしまえば簡単ではある。「実義tattva」を実在とは考えず、見え方(=知られ方)だとしたのだから、この伝統的解釈とは親和性がありそうだ。
 あるいは、おなじくpratyayaを知と読むにしても、「縁起と空」P369の注(45)にあるように「他者を認識(知)しないもの」という解釈であれば、「他者を対象としてたてない、自⇒対象という指向性のない世界の見え方」という私の実義の理解に合致する。

 しかし、pratyaya(縁)というような仏教における最重要キイワードに、ここだけ別の読み方(知)をするのは確かに変だ。
 「他のものを縁とせず」と読んで、なんとか筋を通せないか?

 ひとつの解釈は、<「実義tattva」は縁起する現象のつらなりの全体なのだから、他を持たず、他に依存しない>というものだ。
 「縁起と空」P353に松本先生は、(a)が、apratyaya(縁を持たない)とか、apratItyasamutpanna(縁起したものでない)といった表現でなく、aparapratyaya(他者を縁とせず)と敢えて「他者」という言葉が加えられている点について意見を述べておられる。この部分も「敢えて他者を否定する事で実義tattvaが他者を持たないこと、実義tattvaの全体性を述べている」と解釈する事も可能かもしれない。

 しかし、これにも抵抗を感じる。私達は、目の届くところ、耳の聞こえるところ、感覚の及ぶ範囲のことしか知り得ない。遠くの事件や昔の出来事を知っているのも、実際は本や映像や話をこの目、この耳で感受したのだ。であるのに、この「全体としての実義」は、聞いたこともないどこかの誰かや宇宙の果てや遠い過去や未来までふくめて、世界の全体を想定し、それを般若で一挙に知るというような発想の芽を孕んでいないだろうか?

 サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3 に以下のような釈尊の言葉がある。(佐倉哲さんのHPからの借用。http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism35.html)

 比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
 誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。

 仏教本来のこのような節度を守る姿勢に対して、世界の全体を構想することは釈尊の説かれた「一切」の範囲を逸脱することのように思える。

 確かに実義に「他」はない。しかし、実義の全体を見通すことも不可能だ。実義の中のある一ヶ所を「私」は流れていく。般若によっても「私」には周囲しか見えない。見えない先の遠くから縁は連なり流れ来たり、見えない果てへと去っていく。
 しかし、般若を誤解して、あたかも自分が神の如く縁起の外に立って、縁起の全体を見たかのような錯覚に陥る人がいる。彼は、世界の全体を構想し、一人一人の有情が生きるこの現象世界を等閑視し、現象世界を超えた真実世界を構想する。彼は、自分の無我=縁起を知らず我執を離れず自分を特別扱いしているから、このような立場でいることができる。「般若によって世界の全体を一挙に知る」というような考えは、「全体世界」を構想し、そればかりに心を奪われ、自分を縁起の外に置き、自分の欲望を肯定し、身の回りの有情の苦を無視する事になっていく。

 龍樹は「全体世界」を説いたりはしていない。ただ、般若によって<知られる>「実義tattva」は、他を縁としないといっているにすぎない。この差は微妙であるが重要だ。この差が仏教と反仏教を分ける分水嶺である。その稜線はナイフのごとく鋭い。安直に般若を理解すれば、仏教を踏み外し、たちまち調和的な「全体世界」と我執の肯定に転落してしまう。この危険性は、般若や実義が本性的に内包するものであろう。松本先生が般若や実義を過剰に警戒するのも理解できる。

 しかし、般若は、成道にむけてやはり渡らねばならない岩稜だと思う。そうであるなら、危険を十二分に認識しながら通過する他はない。
 般若で知るべきは、「世界の実相」などではなく、あくまで「自分の無我=縁起」なのだ。

 釈尊が「無記」において、「世界の時間的・空間的果ては知ることはできない、問うてはならない」と釘を刺されたのは、このような意図だったのかもしれない。

 Fukada Noriko さんと議論した真如については、ここに述べた「実義tattva」と同じ意図、同じ意味内容で、同じ危険を認識するなら、認めたいと思う。

 ただし、「実義」にせよ、「真如」にせよ、あるいは「空」にせよ、安易に解釈すれば、たやすく対象化の罠に陥る。それらを外に対象として実体視すれば、自分の無我=縁起を知らぬまま、安直に全体世界の調和・完全性を賞賛し、自分の欲望を肯定し、有情の苦を座視して無感覚でいることになる。そういう危険性を十二分に警戒せねばならない。

 自問自答が暴走してしまった。
 まとめると、以下のとおりである。

 龍樹は「実義tattva」をやはり肯定的に使っているのではないか。
 「実義tattva」とは、「対象化」「いつも化」「価値の固定化」によってゆがめられていない縁起の見え方である。
 とはいえ、「実義tattva」は、危険な言葉であり、安易に外に対象化して捉えれば、調和的全体世界を構想し、それを無批判に肯定し、自分の欲望も肯定し、有情の苦を等閑視することにつながりかねない。
 その危険を十二分に認識しつつ、環境と自分の無我=縁起を観察せねばならない。

 私としては、「実義」という言葉は、真如や空と同様に対象化・実体化されやすい危険な言葉なので、今後もできる限り使わないようにしたいと思う。

 尻切れとんぼになってしまった。肝心の(a)「他のものを縁とせず」の解釈が、「他(と全体)」についてはある程度突っ込めたと思うが、「縁」については正直にいって龍樹の意図が掴みきれていない。これについては、課題として懐で温めつづけ、縁を得て解決できる日を待とう。

 どなたか、ヒントを下さい。

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