2004年5月10日
<背景説明>・・・・・・・・・・
この小論は、もともとは、木村清一さんという方の「アートマンとブラフマンは一致する」(04,4,9,)という御意見についてのやりとりに、後から加筆した部分だった。今、松本史朗「仏教思想論 上」を読んでいるのだが、その一部を要約して付加したいと思うので、この際、小論集に移すことにした。
以下の思考錯誤の発端は、木村さんへのメールで、私が岩波文庫「ブッダの言葉」から無我を説いていると思われる部分を抜き出したことから始まっている。
【 2004,4,22, 加筆 】 <まずいものを再発見>
超越的本源を想定し、我々は皆それを分有しているという考え(その本家本元が「梵我一如」)は仏教ではない、という小論を書こうと思い、松本史朗「縁起と空」大蔵出版を読み返していたら、まずいものを再発見してしまった。「第五章 解脱と涅槃−この非仏教的なるもの」である。
この論文において、松本先生は、「解脱や涅槃という考えは、アートマンが覆いから解放され離脱すると考える我論であり、反仏教思想である」と主張しておられる。(ニルバーナを、「吹く」という語根にもとづき「火の吹き消された状態」と解釈するのではなく、「覆いをとりのぞく」という語根から解釈する。)
その証明の為に、スッタニパータをはじめとする初期経典から多数の用例を引いて、いかにアートマンが積極的に説かれているか示しておられる。しかも、中村元博士はじめ、これまでのほとんどの仏典編纂者・翻訳者・研究者は、赤裸々な我論をこのままではまずいと(無意識的に)包み隠すような操作を続けてきたという。(ということは、岩波文庫からの先の私の抜書きは、原文にあたらぬ限り論拠にならないということになる。)
極めつけは、この一文だ。
「現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、ブラフマンとなったアートマンによって住する」(「縁起と空」P201参照)
木村さんの喜ばれる顔が見えるようだ。(木村さんの顔は存じ上げないが、、)
松本先生の考えは、「縁起説こそが仏教であり、そこから無我も必然的に導き出される。初期経典の我論は、ジャイナ教などからの混入である」というもの。つまり、明白にするため言いかえると、「縁起、無我が仏教であるが、スッタニパータなどの初期経典も外道の我論に毒された反仏教経典である」ということになる。
私とて、初期経典がそのまま釈尊の教えだとは思っていない。しかし、混ざりものを注意深く取り除いていけば、おぼろげでも釈尊の姿が浮かび上がってくるだろうと思っていた。なのに、最古の経典でさえ、反仏教的要素(の方)が強い(しかも核心の部分で)と言われると、何を「拠り所」にしていいのか。ここまで戦線を拡大されると、私の手に負えない。イラク占領軍の司令官のような心境である。
初期経典までがアートマンを前提としているとすれば、その状況において、如何にして「仏教とは、無常=無我=縁起を見て執着と苦を滅することを説く教えである」と主張できるのか?
大きな大きな、そして根本的な問題である。できるところから、一歩ずつ考えて行くしかない。しばらく時間を下さい。
【 2004,5,9, 加筆 】 <スッタニパータ等、韻文経典の問題点>
松本史朗「仏教思想論 上」大蔵出版を読んでいる。以下のような主張があるので、紹介したい。
・・・・・・・(以下、曽我によるあまり忠実でない要約)
中村元博士は、「原始仏教の思想」等の著作で「仏教には特定の教義はない」と主張しておられる。その根拠は、「散文の部分より韻文の部分のほうが古い」と考えられて、韻文経典を重視されたからである。
(中村元選集(決定版)11巻ゴータマ・ブッダT(春秋社)P417には、「釈尊の悟り自体が不安定・曖昧模糊たるものであった」という文章まである。曽我)
韻文経典とは、スッタニパータ、ダンマパダ(法句経)、長老偈、長老尼偈など。(岩波文庫のタイトルでは、それぞれ、「ブッダのことば」、「真理の言葉」、「仏弟子の告白」、「尼僧の告白」。曽我補筆) 対して、散文経典とは、漢訳四阿含、それに対応するパーリ仏典の長部・中部・相応部・増支部の散文部分。確かに、韻文経典では、十二支縁起説は説かれておらず、無我ではなく非我が説かれ、アートマンが積極的に承認されている。
韻文経典は、パーリ仏典では第五部である小部に含まれるが、漢訳四阿含には無いそうだ。当時は、韻文経典は重視されていなかったのだろうか? 韻文経典は、記憶に便利というだけではなく、儀式・儀礼における読経にも欠かせないものだ。サンガが、当初の、釈尊の教えに学ぼうとする修行者個々人の純粋な集まりから、次第に性格を変え、組織として発展し、形式的な儀礼が発達する過程において、韻文経典の使用頻度・重要度が増したという側面もおそらくあったのではないかと思う。儀礼にはしばしば在家の人も大勢参加したであろうから、常識に反する無我=縁起よりも、アートマンを前提とする言い回しの方が、大衆受けしたであろう。(曽我の非文献学的想像)ともかく、韻文経典も散文経典も、釈尊の時代から隔たっており、ともに直説そのままとは考えられない。なおかつ、内容は、相互に矛盾する。これにどう対処すればいいのだろうか。P24から引用する。
…いかに原始仏典の古層といえども、そこから「仏陀の言葉」そのもの(いわゆる「金口の直説」)を抽出することは、不可能である。従って、われわれは、「仏陀の言葉」そのものというよりも、むしろ「仏陀の説」あるいは「仏陀の思想」を推理しうるのみなのである。それ故、われわれはここで、「仏陀の言葉」そのものを最古層の仏典より直接抽出しようとする"文献学的方法"を捨てて、「仏陀の思想」を論理的に推理し再構築しようとする"思想史的方法"によらざるをえないであろう。 (文献学を無視する、という意味ではまったくない。文献学の成果を「基体」にして、それをもとに思想の展開を考える、という意味である。正直な感想を言わせてもらえば、この本は、辟易するほどに文献学的である。曽我)釈尊の時代のインドの一般的思想傾向はなんであったか? それは、アートマンを想定する我論であった。
では、その"思想史的方法"とは何か。それは様々な仏教思想史の流れを正確に理解し、その独自性を把握する方法である。…<略>…雑多ななかにも、極めて一貫した特異な思想の流れが認められる。この"仏教"と呼ばれる思想の特異さ、奇妙さ、独自性にとりわけ注目しなければならない。それは素朴実在論とはまったくかけ離れた、ある意味では極めてシニカルで屈折した実に奇妙な考え方なのである。例えば"仏教"が主張する"無我"ほど常識に反した奇妙な考え方もないであろう。…
ではその"仏教"の特異性とは何なのか。それは欲望の止滅でも、解脱でも、涅槃でも、心の平静でも、何でもない。それらはすべて、"仏教"以前のジャイナ教やウパニシャッドという我説(アートマン論)にも認められる。ただ縁起説というまったく未曾有の、信じられないほど革命的で深刻な教えだけが、"仏教"を"非仏教"から区別できるのである。
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私(曽我)としては、上記はまったく納得のできる主張だと思う。仏教独自の教えが釈尊の教えであり、それに矛盾する教えは釈尊のものではない。「仏教」内の矛盾する教えが外にもひろく見られるものなら、それは外からの侵入だ。(輪廻(転生)にもこれは当てはまると思う。)
ただ、ひとつ見解を異にする点がある。禅(dhyAna, jhAna)に関してである。
見解への執着を否定する考えから禅の思想が生まれた、禅とは思考の停止である、と松本先生はおっしゃる。つまり、禅は仏教的ではないと否定しておられる。
「禅思想の批判的研究」(大蔵出版) P4には、このような文章も書いておられる。
「釈尊その人が、"思考の停止"を意味する禅を仏教の修道論のわくぐみの中に取り入れたとき、仏教は、知慧を否定することによって、その知慧の対象である仏教そのものを本質的に否定する契機を、仏教の中に取り込んでしまった」
しかし、私は、禅(≒定)とは「集中すること」だと思う。結果的に禅定中は通常の思考が停止するが、それが目的なのではない。変質し「梵我一如」化した「仏教」においては、思考(はからい)の停止が目的として主張されたが、釈尊の本来の意図は、「集中すること」だった筈だ。
勿論、集中する前に、その前提として、教えの学習やそれについての考察がなければならない。しかし、学習や通常の思考だけでは、教え(無常=無我=縁起)を自分のこととして分かることは不可能だ。戯論、一般的な理解に留まる。ちょうど、誰もが皆死ぬことを一般論としては理解しながら、自分が死ぬことは実感できないように、、。
自分が無常=無我=縁起だと腑に落ちて納得するためには、「ああだからこうだ、ああだとこうなる」という戯論はしばらく置いておいて、実感によってもっぱらにつぶさにひたすら生々しく自分を観察する必要がある。そして、それまでの学習・考察と自己観察とが、禅定において一体化し極まった時に、それまでの「守り育てるべき自分がいる、いろいろなものがある」という見方が愚かな思い込みであったことにパァッと気づく。「なぁんだ、そうだったのか、バカみたいだったんだ。オレなんていないじゃん。なにもかにもそうだ。オレだって、パッパパッパ、縁で起こっているだけなんだ」と。
学習+考察(=戯論・分別)を前提に、集中的自己観察がその上で極まった時、「集中的思考」(=般若≠戯論・分別)が無明を打破する。どれも欠くことはできないと思う。
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ご意見お聞かせ下されば幸甚です。
2004年5月10日 曽我逸郎