曽我逸郎

《『骨太の方針』 vs. 『経済成長神話からの脱却』》


2007年8月3日

 先々月『 経済財政改革の基本方針2007 〜「美しい国」へのシナリオ〜 』(いわゆる『骨太の方針』)が発表された。
 一読して違和感を覚えた。経済成長が、なんの検討も説明もなく当然のこととされている。いきなり冒頭から「人口減少下で経済成長を持続させることが最も重要な課題」と言われると、成長ということに強迫観念があるのではないか、とさえ勘ぐってしまう。ひとりひとりが満ち足りた生活のできる状況を目指すなら、人口減少下でなぜ経済成長が無条件に最重要課題にされねばならないのだろう。

 こんな感想を抱いたのは、村の将来を考えるとき、村の財政や経済よりも、村の人たちが日々心豊かに暮らせることこそが、本当の目的である筈だ、と最近改めて考えているためだ。とりあえずQOL (Quality of Life) という言葉を使っているが、QOLが目的であって、財政や経済はそのための手段・条件のひとつに過ぎない。手段のために目的を損なっては本末転倒だ。
 「一人当たり時間当たりの生産性伸び率が5割増に高まることを目指す」とか、「自由化」、「競争」、「効率」、「福祉から雇用へ」といった言葉を目にすると、経済成長よりも国民の幸福こそが重要であることが十分に認識されているのか、手段のために目的が損なわれようとしていないか、いささか不安を感じる。

 経済成長は、絶対の前提条件なのだろうか? 気になって探してみると、『経済成長神話からの脱却』という本があった。(クライブ・ハミルトン著 嶋田洋一訳 アスペクト発行)
 おもしろかった。実現にはずいぶん時間がかかりそうだし、そもそも実現できるかどうかも分からないが、経済成長絶対の思い込みの害を提示し、別の道を提案している。経済成長は、人々を幸せにすることはできず、逆に人々の幸せに必要な大切なものを破壊している、と著者は言う。

 正確とはいえないが、私なりの読みを以下に要約してみる。

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 左翼は、いまだに生産における労働の搾取を問題にし、所得の増大ばかりを要求している。しかし、先進国では、一部貧困層は実在するものの、大方の人にとって所得はかつてほど切実な問題ではない。
 現代の先進国におけるより深刻な問題は、生産における搾取ではなく、消費における搾取である。

 現代経済学は、経済活動をする個人は、独立した賢明な主体であって、それぞれの考えで合理的な決断をする、と前提している。それぞれの自由な判断・行動が尊重されねばならないと考え、規制することは悪だと考える。それゆえ、機会の平等さえ確保されれば、結果の平等については自己責任だと切り捨てる。消費についても、より多くの商品・サービスが提供され、選択の自由が広がり、自由競争が拡大することがよいとされる。

 しかし、実際に起こっていることはどうか? マーケティング・広告によって欲望が加速・操作され、消費は搾取されている。大方の消費者は、独立した賢明な主体などではなく、操られる存在だ。

 少し前、古い自然な共同体が生きていた頃は、人々は、共同体の中にそれぞれの居場所と役割を持ち、共同体に認知され、そのことによってアイデンティティが確立していた。しかし、共同体が解体した今、人々はばらばらになり、細切れの時間を生きるようにになり、アイデンティティも脆弱になってしまっている。それを補うために、人は、何を消費し何に金を使うかによって自分のライフスタイルを演出し、周囲に認めさせ、なんとかアイデンティティを維持している。
 アスファルトの上しか走らないのにオフロード車に乗る人は、例えば、自分を管理された都市の枠には収まりきらない野性的な人間なのだと主張したいのである。そのためのオフロード車なのだ。アイデンティティは、そのようにして市場経済システムの中で金で買われる。

 それぞれの商品は、使用価値に差はないのに、イメージの目先を若干変えることでブランドとしての価値を高められ、価格も大幅につり上げられる。そのイメージの差を買うことで、人はアイデンティティを買っているのだ。著者は、これをフェティシズム(物神崇拝)と言っている。

 しかし、そのようにして身にまとうアイデンティティは、いうまでもなく内側からのものではない。広告によってどこか外部で作り上げられたものだ。新たな消費(経済成長)のため、イメージの目先はしょっちゅう切り替えられ、使用価値に差はないものが、次々と提示され、買い換えられる。満たされない心の隙間は、埋めたかと思えばすぐにまた押し広げられ、いつまでも満たされることはない。消費によっては、けしてアイデンティティは達成できない。

 また、環境のことを考えても、自然破壊、資源の浪費、温暖化、汚染など、負の側面は先送りできない事態であり、経済成長優先政策が再考を要することは明らかだ。

 「金で幸せは買えない。」昔から言われてきたことだ。実際に調査をしても、先進国の国民が途上国の国民より幸福感が高いという結果は得られない。先進国の内部でも富裕層の方が貧困層より幸福だと言うデータは見出せない。
 では、なにによって人は幸せになるのか。

 ひとつには、人と人のつながりの中で、一定の役割を果たし、貢献すること。
 家族のための仕事や、地域活動、福祉ボランティアなどが相当する。
 (この視点からすれば、競争原理や自己責任論は、人々を分断することであり、幸福の機会をこわすことである。)

 もうひとつの幸福の条件は、自分の課題に取り組み、克服していくこと。
 言い換えれば、自己実現である。趣味や芸術、学問、研究、スポーツなどが相当する。
 (生産性向上のための職業訓練のような浅薄な教育ではなく、無批判に受け入れるだけの知識詰め込み教育でもなく、自ら疑問をもって探求していく力を養う教育が求められる。)
 (これは、盲従せず疑問をもち批判的に考える能力を持つ人を増やすことであり、権力の側にとっては煙たいことだ。)

 格差の少ない社会、異質な者に寛容な社会も、統計的にいって幸福度が高いそうだ。

 著者は、他にも多くの政策提言をしている。いくつか挙げれば、◎労働時間の短縮 ◎広告の制限(内容・掲載場所・放送時間など) ◎適正な富の再配分をもたらす税制 ◎環境の重視などである。

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 以上が私の印象に残った概略である。

 この本では、日本の豊かさの空虚さが、世界においても特徴的な事例として、なんどか分析されている。2003年の著作とのことだが、そこからさらに数年が過ぎて、今ではさらに事態は進んでいるように思える。

 著者は、「先進国では、所得はもはや大きな問題ではない」と言うが、今ではワーキング・プアに見られるごとく、再び労働の搾取が行われるようになっているのではないだろうか。米軍の「志願」兵の場合は、生命さえもが搾取されている。それらは自己責任という言葉を免罪符にして大手を振って行われているのであるが、自己責任論を主張する場合の必須の前提である「機会の平等」は、果たして確保されているのだろうか? 2世・3世議員、2世3世大臣があふれている状況を見ると、調査統計するまでもないように思われる。

 著者の考えを発展させれば、今の日本には、三種類の人間がいることになる。
 第一に、一定の富の配分には与っているものの、広告に操られ、消費を搾取されて幸福感をもてない物神の奴隷。金持ちを含む大抵の人がこの中に含まれる。
 次に、機会の平等を奪われ、再び生産の場において労働を搾取されているワーキング・プアの人たち。この本では見過ごされている。
 第三に、物神の呪縛を逃れ、自ら所得を下げることを厭わない「シフトダウン」する人々。

 中川村を考えてみると、伝統的な共同体の中で役割を持ちアイデンティティを保持している要素もまだ残っている。シフトダウンして村にやってきたユニークでアイデンティティのくっきりした人たちも少なくない。また、農業は、課題を発見し、探求し、克服していくという性格が強く、一部サービス業や製造業に見られるような単純作業ではないので、アイデンティティに悩み物神崇拝に取り込まれる傾向は低い。つまり、村の生活は、一般的にいって幸福度が高いということができそうだ。
 一方、都会では所得は高くても幸福度は低い。ワーキング・プアの人も、物神の虜も多いだろう。アイデンティティの希薄化も深刻だ。そんなところで著者の言うように労働時間を短縮し、人々を暇に直面させたら、かえってアイデンティティや目的・価値の疑問に苦悩し、新興宗教に走る人が増えるのではないかといらぬ心配もしてしまう。

 もっとも、この本のテーマは、大衆のあり方ではなく政策論だ。

 「成長を最大化するための経済構造や政策は、貧しい人々の生活を改善するための手段を犠牲にする」(同書P52)
 つまり、著者は、経済成長優先政策は格差を助長する、と言っている。競争原理の導入や自己責任論は、目の前にニンジンをぶら下げ、後ろから恐怖で追い立てるやり方であり、短期的には成長を促したとしても、人を幸せにしないことは、明らかだ。ここ数年の日本を見ても、このことははっきりしているのではないだろうか?

 しかし、参院選に敗北した安部首相は、相変わらず「経済成長なくして、格差の是正はできない」と言っておられるようだ。その思い込みをもう一度疑ってみるべきだと思う。

 競争や自己責任ではなく、助け合うこと。GDPに反映されなくても、家族や地域のために働くことを評価すること。自らテーマを持ち試行錯誤しつつ自己実現を目指す楽しみを教えること。機会の平等を確保すること。結果の平等にもある程度の配慮をし、格差を減らすこと。異質な人や多様な生き方に寛容な社会にすること。

 経済成長よりも、人が幸せに生きることのできる社会を目指すべきだと思う。

 ・・・ご意見お聞かせ下されば幸甚です。

2007,8,3,  曽我逸郎

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