曽我逸郎

戦争を起こさないために。私たちが頑張れること

カトリック正義と平和全国集会で話したこと

2009年11月15日

 『第35回 カトリック正義と平和 全国集会』(主催:カトリックさいたま教区、共催:日本カトリック正義と平和協議会、2009年10月)でお話をする機会を頂いた。ところが、未消化な内容を詰め込みすぎてしまったために、持ち時間一時間30分の中では上手な説明ができなかった。ここで再整理を試みておきたい。

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「戦争を起こさないために。私たちが頑張れること」

◆1 挨拶と中川村の紹介
 (省略)

◆2 自己紹介 背景にある考え方

 私は、釈尊の教えについて勉強をしてきた。いわゆる仏教であるが、現代の仏教は釈尊の教えからはるかに拡大し、矛盾するものも多く含んでいると考えるので、拘って仏教とは呼ばず、「釈尊の教え」と言っている。そもそもの釈尊の教えはどういうものであったのか、考えている。
 釈尊の教えとは何か。カトリックの信仰を持っている皆さんには喧嘩を売るようで申し訳ないが、いうなれば無神教であって、神を必要としない教えである。釈尊は、極めて優れた人であったが、人間であって神ではない。また霊魂も否定しておられる。従って、輪廻転生も説いておられない。

 釈尊の教えの核心は、無常=無我=縁起である。すなわち、我々は、自ら思うままに働き出す主体ではない。魂と言われるような本体的な自分はない。我々とは、そのつどそのつどの縁(刺激)によって起こされる一貫性のない自動的反応の断続である。
 我々凡夫(仏でない普通の人間)においては、反応は執着のパターンに染まっており、縁を受けて反応する度に、苦を作り、苦を振りまき、自分自身と周囲の人々を苦しめている。
 従って、我々凡夫は、自分と言う反応が苦を生むことのないように、慎みあり慈しみあるものであるように、いつもできる限り気をつけていなければならない。

 釈尊の教えを今日の話に必要な範囲で要約すれば、以上のようになる。
 特に、多くの人が一斉に同じ執着に走った場合、生み出される苦は、乗じ合って甚だしいものになる。その中でも戦争は最悪だ。戦争は、それ自体が苦であるだけではなく、我々凡夫の執着の反応パターンを一層根深く凶悪なものにする。戦争は、苦の爆発的拡大再生産である。

 別の見方をすれば、戦争とは、勝ち組が、大衆の肉体と生命を使って、自らの執着を満足させようとすることだ。しかし、我々大衆が戦争を望まないでいられれば、勝ち組がいくら足掻いても、戦争は起こらない。だが現実には、我々凡夫の執着は火がつきやすく、怒りや恐怖に燃えてすぐに攻撃を要求し始める。
 従って、戦争という集団的執着反応に陥らないために、我々は、普段からいつも自分という反応に気をつけていなければならない。我々凡夫の多くが戦争を渇望したときに戦争は起こる。逆に、我々がしっかりと望まないでいられれば、誰かが操ろうとしても戦争は起きない。
 今日の話のタイトルを「戦争を起こさないために」として「起こさせないために」とはしなかった。それは、我々自身のあり方こそが問題であり、そのことを呼びかけたかったからである。

◆3 ここで話をするにいたった経緯

 昨年の秋、長野県戦没者遺族大会・県戦没者追悼式に参列した際の感想を、中川村のHP「村長からのメッセージ」に掲載した。http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/intro/v_chief/033_20081106.html
 その内容は、以下の三点である。

*1 慰霊の言葉は場の空気に合わせて耳障りがよいが、深く考えていない。

 「戦争で亡くなった方々の尊い犠牲があって、現在日本の平和と繁栄があることを、私たちは一瞬たりとも忘れてはならない。」
 何度も耳にするこの言葉は、さらりと聞き流せば、戦争の犠牲には意味があった、無駄ではなかったと思わせ、聞く人を慰める。しかし、いつもどこかに違和感を感じてきた。

 現在の「平和と繁栄」には、戦争の犠牲が必要だったのか。もしも戦争がなく、亡くなった人たちが、そのまま村や町で元気に、百姓として、職人として、教師として、勤め人として、自分の夢や計画に向かって活躍していたら、もっともっと良かったのではないのか。沈没する輸送船の船底で舟とともに溺れ死んだ兵士達の死が、現在日本の平和と繁栄に貢献したのか。飢餓と疲労によって抵抗力を失い、マラリアに犯されてジャングルの泥に倒れた兵士の死が、どのように平和と繁栄をもたらすのか。
 戦争がなく平和のままに、それぞれの人が自分の夢や計画にこだわり頑張ることができていたら、その方が良かったに決まっている。安直な耳障りのよい言葉は、平和と繁栄のためには時として戦争の犠牲が必要であるかのような思い違いを誘発しかねない。

 挨拶を締めくくる言葉も、いつも同じだ。

 「世界の恒久平和実現に向けて一層の努力を傾けることを、戦争の犠牲になった皆様の前でお誓い申し上げます。」
 しかし、そう宣言した人が、アフガニスタンやイラクなどの惨禍を止めよ、と叫ぶのを聴いたことはない。どこまで本気で言っているのか。今ある争いで子供達が犠牲になっていることは、目をつぶれる範囲なのか。それとも「世界の恒久平和実現」のためにはやむをえない惨禍なのか。日本の「国益」のためには、たいしたことではないのか。

 どの言葉も、その場の雰囲気へのふさわしさを狙ったものでしかない。その場の空気におもねることは、大方の執着の反応におもねることだ。やがていつか集団的執着の火を煽ることになる。空気に合わせてお茶を濁すのではなく、突き詰めて考え、空気を読み、おかしな空気に対しては空気を変えるべく、疑問を提起していかねばならない。

*2 「靖国神社で静かに追悼したい みんなに追悼して欲しい」という遺族の願いを邪魔しているのは、他ならぬ靖国神社自身ではないか。

 遺族大会のスローガンの第一は「総理 閣僚などの靖国神社参拝の定着をはかること」だった。2番目は、「(靖国神社を形骸化する)国立の戦没者追悼施設新設構想を断固阻止すること」。
 遺族会の望みは、総理・閣僚、そして当然天皇、また外国からの国賓、すべての日本国民に、他の場所ではなく靖国神社で、戦死した家族を追悼してもらいたいというものだろう。私自身も、理不尽に戦争の犠牲にされた人々を悼む気持ちは、人後に落ちないつもりだ。しかし、靖国神社に対しては、抵抗感がある。何故なのか。

 格別の意識なく靖国神社に参拝しただけならば、普通の神社との違いはほとんど感じないかもしれない。しかし、靖国神社の歴史を知り、あるいは遊就館の展示を見れば、素直に靖国神社で戦争犠牲者を追悼する気にはなれなくなる。

 遊就館は、戦死者の自己犠牲をステレオタイプに美化・顕彰している。顕彰と追悼とは異なる。顕彰とは、その対象が手本として見習われ、同様の行いがこれからも末永く繰り返されることを期待して称えることだ。それに対して、追悼は、死者の苦しみや絶望・無念を共有し、悲しみ、二度とそのようなことがないことを祈ることだ。遊就館は、追悼ではなく、顕彰をしている。ということは、靖国神社も同様だ。靖国神社は、自己犠牲を美化するばかりで、その状況に追い込んだ側の責任は一切問わない。靖国神社は、戦後の今に至るも過去のそのような歴史・役割を清算していない。つまり、今も靖国神社は、戦中・戦前同様に、国のために死ねる兵士を準備するための施設であり続けている。
 靖国神社がこのような役割・性格を放棄しない限り、靖国神社で純一に戦争犠牲者を悼む気持ちにはなれない。

 では、「すべての人に静かに戦争犠牲者を追悼して欲しい」という遺族の願いを実現するような靖国神社のあり方は可能だろうか。
 可能だ。靖国神社がその気になりさせすれば…。では、どうなれば、遺族の願いは実現されるのか。

  1. 人々を戦争に動員した過去のあり方を反省し、亡くなった兵士と遺族に謝罪すること。
  2. 天皇の側で戦って亡くなった兵士だけではなく、近代以降の日本がかかわったすべての戦争の犠牲者を、敵味方を問わず、顕彰ではなく追悼すること。
  3. 合祀の取り下げを望む遺族の要望を受け入れること。
 以上の3点を実行することによって、靖国神社は、純粋に戦争犠牲者を追悼する施設に変ることができる。
 そしてさらに、靖国神社は、広島の原爆ドームのような平和運動の象徴、拠点になることもできる。過去の戦争の悲惨さ・愚かさを若い世代に伝え、現在の紛争の停止にも積極的に努力する。そうなれば、世界中の尊敬と共感を集め、国内のみならず、海外からも参拝者を集めることができるだろう。日本に対する評価も上げることになる。そうなれば、現状の苦しい財政状況も好転するに違いない。突拍子もない提案かもしれない。しかし、靖国神社次第で可能だ。そういう靖国神社に変わって欲しい。

*3 遺族の方々は、本来であれば最も嫌戦的である筈の方々だ。遺族の皆さんとは反戦平和の連帯ができた筈なのに、現実には反対の状況になっている。それは、反戦平和の陣営に思慮に欠けた一面があったためではないか。父、夫、兄・弟の死に見舞われた遺族の心の傷・襞に寄り添う丁寧で注意深い対応が必要だったのに、乱暴なやり方で遺族を再び戦争をしようとする陣営の側に追いやってしまった。反戦平和の陣営は、反省せねばならない。

 以上@〜Bの内容を、村のホームページhttp://www.vill.nakagawa.nagano.jp/intro/v_chief/033_20081106.htmlに掲載し、いくつかご意見・ご質問を頂戴して、遣り取りをした。それを、この大会の実行委員長がご覧になって、声をかけていただいたのだと思う。

◆4 村ホームページ掲載への反響

 靖国神社についても言及しているので、すぐさま批判があるかと思ったが、ほとんど反応はなく、暫くしてから神社新報社の匿名希望のO氏から中川村役場に電話があった。その主旨は、靖国神社を戦争準備施設とする根拠を問い、また一村長が村のホームページに靖国神社について述べることについて政教分離原則からの非難、その他であった。
 何度かやりとりする内に、O氏は非難記事を『神社新報』に掲載し、その後、他の方からの非難もあった。相前後して賛同のメールもあったが、両方ともさほど多くはなく、どちらかといえば共感の方が多かった。

 批判のメールを見ると、「靖国派」の内にも意見の対立があることが分かった。
 例えば、鎮霊社について、神社新報社のO氏は誇らしげであったが、別の人は、「天皇のために死んだものだけを祀るべき靖国神社の本旨に反しており、あってはならないもの」という否定的評価だった。
 また、別の非難では、合祀取り消しを求める遺族の心情は無視したまま、自分のイメージする遺族像だけを取り上げて、「遺族の心情をなんと心得ているのか」と憤っていた。その一方で、別の人は「靖国神社は天皇のためだけの神社で、そもそも遺族の心情など関係ない。そんなものを斟酌するのは筋違いである」と述べていた。
 これらの遣り取りについても上記HPに掲載しているので、興味あればご一読願いたい。

◆5 靖国神社について、勉強したこと

 神社新報O氏を始めとする非難や質問に対処するため、泥縄式に勉強した。

 靖国神社発行の『遊就館図録』『新ようこそ靖国神社へ』は勿論、『靖国の闇にようこそ』(辻子実著 社会評論社)等を読み、「東京の戦争遺跡を歩く会、平和案内人」の長谷川順一さんにも現地をガイドして頂いた。

 その結果、靖国神社には様々な矛盾があることが分かった。例えば、「天皇のために死んだ者だけを祀る」と言いながら、幕末の禁門の変では、敵味方で殺しあった者同士が共に合祀されている。しかも、明治政府は、京都御所を攻めた長州兵をいち早く神にする一方、勅命に従って天皇を守った会津兵はずっと後回しにされた。「天皇のために死んだ者だけ」は建前であって、合祀の基準は合祀する時の権力側の都合次第なのだ。
 また、戦友会・遺族会の高齢化が進む中、靖国神社の経営は苦しさを増しているらしく、神聖であったはずの招魂斎庭を月極駐車場にして貸し出していることも知った。

◎ 神社新報O氏から「靖国神社を戦争準備施設とする根拠は?」という質問を投げかけられていたが、その答えとして、まず『靖国問題』(高橋哲哉著、ちくま新書)p37〜にこういう記載があった。

 時事新報(社主:福沢諭吉)1895年11月14日「戦死者の大祭典を挙行す可し」
 「特に東洋の形勢は日に切迫して、何時如何なる変を生ずるやも測る可からず。万一不幸にして再び干戈(かんか)の動くを見るに至らば、何者に依頼して国を衛る可きか。矢張り夫の勇往無前、死を視る帰るが如き精神に依らざる可らざることなれば、益々此精神を養ふこそ護国の要務にして、之を養ふには及ぶ限りの光栄を戦死者並に其遺族に与へて、以って戦場に斃(たお)るるの幸福なるを感ぜしめざる可らず。
(中略)…いま若し大元帥陛下自ら祭主と為せ給ひて非常の祭典を挙げ賜はんか、死者は地下に天恩の難有を謝し奉り、遺族は光栄に感泣して父兄の戦死を喜び、一般国民は万一事あらば君国の為に死せんことを冀(こひねが)ふなる可し。多少の費用は惜しむに足らず。くれぐれも此盛典あらんことを希望するなり。」
 靖国神社は、まさにこのとおりの役割を果たした。

◎ 但しこれは、明治28年の論説であり、靖国神社創立後しばらく後のものだ。よって、設立当初の靖国神社はそのような意図を持っていなかった、という反論も理屈としてはあり得よう。であれば、靖国神社社憲(昭和27年9月30日制定)前文を提出したい。

 本神社は明治天皇の思召に基き、嘉永6年以降国事に殉ぜられたる人人を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため、明治2年6月29日創立せられた神社である。
 先に書いたとおり、顕彰と追悼は違う。顕彰は、褒め称え、見習うべき手本として永く後世の人々に示すことだ。追悼は、亡くなった人の無念さ苦しみを共有し、悲しむことだ。顕彰は、同様のことが今後も何度も繰り返されることを期待し、追悼は、二度と繰り返されないことを祈る。靖国神社は、顕彰するばかりで、ほとんど追悼していない。その背後には、時事新報社説のとおりの意図があると思わざるを得ない。

◎『地獄の日本兵』(新潮新書)の著者・飯田進さんは、BC級戦犯として重労働二十年の判決を受けた方だ。「ニューギニア戦線での悲惨で馬鹿げた野垂れ死に」と書いておられる。
 逐次投入した増援の輸送船は、制海権も制空権もないまま沈められ、多くの兵士は船と共に溺れ死に、武器・装備も食料も失われ、なんとか陸に泳ぎ着いた兵士達は、満足な武器もなく、ただ生還するためにジャングルを数百キロ西へ目指した。ラエからアイタペまでなら直線でも600km、東京から広島に相当する。海岸は攻撃を受けるので、ジャングルの奥を、泥に足を取られ、ヒルに喰われ、マラリアを媒介する蚊に襲われ、イリエワニに怯え、弱った兵士の装備を奪い、飢餓のあまりクモまでも口にし、一部には仲間の肉も食べ、歩いた。ほとんどの兵士は、マラリアと栄養失調で行き倒れ、蛆をわかせて泥の中に横たわった。標高4000mを超えるサラワケットの山越えでは、断崖絶壁からの転落が相次ぎ、山頂ではみぞれ降る中、いくつもの集団が身を寄せ合って凍死した。そのようにして死んでいった兵士たちの怒りや恨みは、敵軍ではなく、愚かな作戦を命じた参謀や戦争指導者に向けられた、と飯田さんは書いている。

 では、そのニューギニア戦を、遊就館の展示はどう伝えているか。木漏れ日の差すジャングルの靄の中に整列する小隊をシルエットで荘厳に描いた絵画とともに、こう述べている。

 「南海支隊のポートモレスビー陸路攻略作戦に始まるニューギニア作戦は、後に新設された安達二十三中将率いる第18軍が、人間の限界をこえた苦闘に耐えて、アイタペで終戦を迎えるまで戦い抜いた作戦である。この間に発揮された崇高な人間性は、ブナの玉砕、ダンピールの悲劇、サラワケット山系の縦断などに多くの逸話を残した。」
 美談にされている。
 もうひとつ、夥しい犠牲者を生んだ無益で愚劣な作戦として有名なインパール作戦については、共同責任を負うべき陸軍大将が、「仏門に帰依して、全国を行脚して、慰霊顕彰をつづけた」と、戦後の「美談」にだけ光を当てて、兵士たちの怒りや憤りには目をつぶっている。

 遊就館からは、兵士たちの死に様のむごたらしい実態はきれいに消し去られている。ステレオタイプに自己犠牲を勇ましく美化・顕彰するばかりで、自己犠牲を強いた愚かな戦争・愚かな指導者の責任は一切問わない。遊就館、すなわち靖国神社は、死んだ兵士たちの心にはまったく寄り添っていない。遊就館、靖国神社は、死んだ兵士の側ではなく、兵士達を死に追いやった側に立っている。

◎ 『ドキュメント 靖国訴訟』(田中伸尚著 岩波書店)には、沖縄で米軍の艦砲射撃下、日本軍にガマ(洞穴)を追い出されて亡くなった幼子が、援護法を受けるための便法として、軍に壕を提供した戦争協力者とされ、名前を靖国神社に送られて合祀されていることが記されている。また、捕まれば鬼畜米英になぶり殺しにされると言われていたのに、実際はそうではなかったので、それを教えに戻ったら、日本軍にスパイとして斬殺された人も、やはり援護法の関係で合祀されている。特に後者は、殺したときは利敵非国民として殺したのに、戦後は天皇のために死んだ神にしているのだ。ご都合主義もはなはだしい。
 占領下の朝鮮・台湾から狩り出され、国際法の定める捕虜の扱いも教えられぬまま、収容所の看守とされ、命令のまま捕虜を労役に送り出していたら、戦争が終わりやっと故郷に帰れると喜んだのもつかの間、BC級戦犯として死刑判決を受け、処刑された人も大勢いる。この人たちも、靖国神社に合祀された。
 合祀されている人たちは、靖国神社が言うような、天皇のために自ら望んで命を捧げた兵士ばかりではないのだ。一体何人がそうだったのか。飯田さんが言うように、参謀や戦争指導者を怨みながら死んでいった兵士もたくさんいた。遺族の中に、合祀を取り消して欲しいと望む人がいるのも当然だ。

 しかし、裁判所は、本人や家族の意向とは係わりなく人を勝手に神にすることも信教の自由だ、との判断を下した。靖国神社も、一旦合祀したものを一部だけ取り消すことは教義上不可能だと拒絶している。
 一方、合祀されていたが実は生きている人もいることが判明した。この場合は、「招魂はしたが魂は降りてきていない」との説明で、霊璽簿から名前が抹消されている。
 (つまり、招魂した魂が降りてきたか、靖国神社自身は確認できないのだ…。それはともかく、講演した後、こんなアイデアを聞いた。「一部を合祀取り消しする事は不可能でも、すべてを一旦昇魂する(解き放つ)ことは神道の教義上もできる筈。過去にそれをした実績もある。その後で、もう一度合祀を望む魂だけを招魂すればよい」という提案だ。靖国神社は、どう回答するのだろう。)

 靖国神社は、合祀するにあたって、なぜ遺族の気持ちを一顧だにせず、遺族の了解を求めないのか。問い合わせのない限り、合祀の事実を知らせることさせしていない。第一、合祀取り消しを望む遺族の思いをどうして頑なに拒むのか。考えているうち、靖国神社は御霊信仰ではないか、という、ちょっと怖い思いつきが頭に浮かんだ。

 靖国神社ホームページにはこうある。

 我が国には今も、死者の御霊を神として祀り崇敬の対象とする文化・伝統が残されています。日本人は昔から、死者の御霊はこの国土に永遠に留まり、子孫を見守ってくれると信じてきました。今も日本の家庭で祖先の御霊が「家庭の守り神」として大切にされているのは、こうした伝統的な考えが神道の信仰とともに日本人に受け継がれているからです。そして同様に、日本人は家庭という共同体に限らず、地域社会や国家という共同体にとって大切な働きをした死者の御霊を、地域社会や国家の守り神(神霊)と考え大切にしてきました。靖国神社や全国にある護国神社は、そうした日本固有の文化実例の一つということができるでしょう。
 靖国神社は、御霊を「みたま」と読むのであろう。しかし、神道のルーツのひとつは御霊(ごりょう)信仰だ、とも聞く。
 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。(Wikipedia)
 奈良・平安、さらにはもっと昔から、だまし討ちにし、謀略に陥れ、無実の罪を着せて死に追いやった例は多い。その祟りを畏れて、たくさんの神社が建てられてきた。例えば、学問の神・菅原道真を祀る天満宮がそうだ。法隆寺も祟り封じの寺だとする人もいる。
 靖国神社も、その例に漏れず、御霊信仰なのだろうか。非業の死に追いやった兵士たちの怨み、祟りを恐れているのか…。
 そう仮定してみると、了解を得ないまま神にすることにも、合祀取り消しを頑なに拒否することにも合点がいく。祟る神・道真を祀る時、道真や家族の同意を求めただろうか。祟りを逃れたい一心で、勝手に祀ったのではないだろうか。そして、祀ることでようやく管理下に置いた神は、二度と野に放ってはならない。必ずや恨みによって祟るから…。

 だとすると、靖国神社は、御霊を丁重に世話すると同時に、自由にさせて祟ることのないようしっかりと拘束する、いうなれば座敷牢のような場所ということになる。神官は同時に獄卒ということになる。これはちょっと恐ろしい想像である。しかし、こう仮定してみると、日本の神道の伝統の中にいない韓国・朝鮮、台湾の人まで勝手に祀ったことにも、頑なに合祀取り消しを拒絶していることにも、納得がいく。
 靖国神社の見解はどうなのだろうか。

◆6 戦前〜戦中〜敗戦後〜現在について学んだこと

 靖国神社のことばかりではなく、戦前から現代までの歴史についても俄か勉強をした。

◎ 『天皇の秘教』(藤巻一保著 学習研究社)は、神道系の新興宗教や法華思想なども対比しながら、明治以降の国家神道を論じている。

 平田篤胤ら江戸時代の国学者の思想にも言及している。篤胤は、学生時代の授業では、立派な学者のように教えられたが、驚くべき主張をしている。

 「わが御国は天つ神の特別なお恵みによって、神がお生みなされて、万の外国などとは天地のちがいで、ひきくらべるわけにはいかぬ、けっこうなありがたい国で、確かに神国に相違なく、またわれわれ身分の賤しい男女にいたるまで神の子孫にちがいない。」(平田篤胤『古道大意』、小安宣邦訳)

 「わが天皇(すめらみこと)は、神代のままの神胤であって、永遠に変ることがない。(中略)日本人はこれらのことをよく考え合わせて、日本国は世界の総本国であるとの見識を立てるべきである。この見識を立てるときは、中国も露西亜も、わが日本国の枝国である。…(中略)…いまよりのちには、外国の国王たちも天皇がすぐれて尊いということを知り、天皇を地上の総王とさだめ、みずからを臣と称して朝貢してくるときがあるだろうが、そのときは徳川将軍家から朝廷に申し継ぎをして、外国の国王どもに相応の官位を賜るべきである。」(大国隆正 津和野派重鎮 『文武虚実論提要』)

 これではカルトだ。幼稚な独りよがりで客観性や普遍性はまったくない。しかし、こういった考えが、八紘一宇や大東亜共栄圏の思想を正当化することに繋がっていったと思う。
 八紘一宇や大東亜共栄圏は、互いに平等な友人の関係ではなかった。枝国に対して朝貢を要求するものだ。先にふれた飯田さんは、『魂鎮への道 BC級戦犯が問い続ける戦争』(岩波現代文庫)で、植民地支配をした欧米列強にも、それに取って代ろうとした日本にも、アジアの人々に対する差別感情があった、それによって戦争の残虐非道が可能になった、と書いておられる。「日本は神国で、アジアの他の国々より上だ。支配する立場だ」こういう思い上がりを、国学は正当化した。

 また、廃仏毀釈のすさまじい嵐が仏教界を萎縮させたことも書いてある。そのことがあって、その後の諸宗教の国家神道への媚・おもねり・服従を生んだのであろう。

◎『大元帥 昭和天皇』(山田朗 新日本出版社)

 「戦前戦中、昭和天皇は立憲君主であって、立場上臣下の決定を承認するのみで、決定権はなかった」として、戦争責任を否定する意見を目にする。これは「昭和天皇独白録」の言わんとするところでもあろう。
 しかし現実には、昭和天皇は、戦争の局面局面で詳細な報告を受け、鋭い下問をしている。例えば、ニューギニア戦線では、敵輸送船に関する報告を聞いて敵の作戦を的確に予想し、注意を与えている。(その後は、軍の緩慢な対応のうちに危惧したとおりの結果となった。)敵基地を艦砲射撃したとの報告には、日露戦争の事例を挙げ、艦で繰り返し陸に近づくことの危険を警告した。(案の定、同じ攻撃を試み、待ち伏せ攻撃を受け、沈没。)
 軍事学をはじめとする英才教育を受けた昭和天皇は、米英の反応やヨーロッパ戦線の動向とその影響にも気を配る広い視野を持ち、陸軍参謀総長・海軍軍令部総長も天皇の厳しい下問に答えられない場面がしばしばあった。ミッドウェイ、ガダルカナル以降下問はさらに厳しくなり「一体何処でしっかりやるのか。何処で決戦をやるのか」との叱責に、陸海軍は責任をなすりあい、焦って目立つ戦果を狙うようになる。
 一方、昭和天皇は兵の士気を気をかけ、不拡大指示に逆らった場合でも、戦禍を上げた者は称え、失敗した者も更迭しなかった。その結果、無謀な積極策を主張するものが大手を振るい、冷静な分析を軽んじる気風を生み、愚かな作戦で大量の犠牲者を出すことになっていった。
 (あるいは、冷静な戦況分析ではもはや勝算は見出せず、兵站を無視した奇策と精神論とを連結して可能性を祈る他なかったのかもしれない。)

 その一方、東条英機に対しては、既に首相兼陸軍大臣であったところに陸軍参謀総長まで兼務させ、「彼程、朕の意見を直ちに実行に移したものはない。」(木下道雄侍従次長「側近日誌」)というほどに厚い信頼を寄せた。

◎『昭和天皇の終戦史』(吉田裕 岩波新書)には、既に敗戦が明白であるのに、なんとか一度戦果を挙げてアメリカに厭戦気分を作って、国体(天皇制)だけは護持して終戦に持ち込もうとして戦争を長引かせ、いたずらに犠牲者を増やした、と書かれている。
 その後、戦果のないまま降伏した理由について、p221にはこのようにある。

 「(昭和天皇)独白録」をみても、天皇が皇位の正当性の象徴としての「三種の神器」の保持に強く固執し、「敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい」という判断から、ポツダム宣言の受諾にふみきったことがわかる。
 かつて討幕運動を主導した国学は、南朝を正統とした。国学の見解からすると、北朝系の現天皇家には、血脈的には正当性がないことになる。現天皇家の正当性を担保するのは、南朝から確保した三種の神器であり、国体護持=天皇制維持のためには三種の神器はなんとしても保持する必要があった。確たる戦果を上げることもできず、米国に厭戦世論を作り出せないままであったが、三種の神器を守るために、無条件降伏した。

《 敗戦後のGHQへの対応 》
 無条件降伏してまで三種の神器を守ったのに、東京裁判で戦争責任を問われたのでは国体を護持できない。昭和天皇の東京裁判出廷は、なんとしても避けねばならなかった。
 近衛文麿はこう言っている。(同書p34)

 「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ役になっているのだから、彼に全責任を負わしめるのがよいと思う」
 そして、昭和天皇の『独白録』をとりまとめた「五人の会」など宮中グループは、東京裁判・国際検察局に積極的に協力して情報を提供した。

 このあたりの事情は、豊下楢彦氏の以下の2冊も詳細に研究している。
◎『安保条約の成立 吉田外交と天皇外交』(岩波新書)
◎『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)

 特に後者は、「すごいことが書いてあるよ」と薦められて読んだのだが、そのとおり、無知な思い込みを説得力を以ってひっくり返される興奮を覚えた。

 先に触れたように、敗戦直後、第一の課題は、昭和天皇への戦争責任追求を避けることだった。
 東久邇宮稔彦王も、近衛文麿と同じことを言っている。

 「悪くなったら皆東条が悪いのだ。すべての責任を東条にしょっかぶせるがよいと思うのだ」
 昭和天皇は、米紙ニューヨーク・タイムズ特派員との謁見や英国王への親書によって、「真珠湾奇襲は東条の主導」とのニュアンスを発信した。宮中グループ「五人の会」は、天皇は立憲君主であって、大本営・政府の決定を承認するのみで、自ら決定・指示することはなかった、と「独白録」にまとめ、対米英開戦の責任を昭和天皇に負わせないよう工作した。
 さらに宮中グループの「五人の会」は、東京裁判・国際検察局に積極的に情報を提供している。「五人の会」の松平康昌は、「(GHQに)一番協力されたのは陛下ですよ」と言っている。
 A級戦犯は、スケープゴートにされた一面もあったと思う。勿論、A級戦犯に罪はなかった、などと言うつもりは毛頭ない。特に、投降という選択肢を奪い兵士達を自決・バンザイ突撃に追い込んだ戦陣訓を示達したことだけを以ってしても、東条英機の罪は重い。しかし、A級戦犯だけに責任があるとするのも間違いだ。天皇も軍幹部も一兵卒も一庶民も、誰もが凡夫であり執着の反応だ。それぞれが自分の執着の反応パターンで憤り、怯え、興奮して、戦争に加担した。軽重の違いこそあれ、国民まで含めて、全員に責任はある。
 従って、A級戦犯分祀論には私は反対だ。A級戦犯分祀は、A級戦犯にだけ「責任をしょっかぶせる」ことになる。我々自身の責任をごまかす結果を生む。戦争を「起こさない」ためには、我々自身が自分という反応を真摯に見つめ、警戒しなければならない。
 戦争責任追及を免れて天皇制を維持したい昭和天皇であったが、一方のマッカーサーにも、占領政策をスムーズに進めるために天皇を利用したい思惑があった。両者の利害は一致し、昭和天皇は東京裁判出廷を逃れることに成功した。
 マッカーサー離日の前日、第11回昭和天皇マッカーサー会見で、昭和天皇は、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」と表明している。
 右寄りの人たちは、「東京裁判自虐史観」と攻撃するが、東京裁判は、昭和天皇と宮中グループの工作が功を奏した狙い通りの成果なのである。

 戦争責任追及を逃れ、天皇制の存続をともかくも勝ち取った昭和天皇の次の課題は、勢力を増しつつあった国内外の共産主義勢力であった。中華人民共和国成立があり、国内にも騒乱のある中で、昭和天皇は、駐留米軍によって天皇制を守らせようとした。しかし、マッカーサーは、講和条約締結までは駐留するが、その後は米軍は日本を離れる、日本は一切の軍備を放棄したまま国連の枠組みで安全保障を図るのが最善だ、という考えを変えず、天皇の説得はうまくいかなかった。

 1950年4月ダレスが国務省政策顧問に任命され、対日講和を事実上担うことになる。ダレスが来日中の6月、朝鮮戦争が勃発し、翌年4月マッカーサーは解任され日本を離れる。同じ年の9月サンフランシスコ平和条約と旧安保条約が締結された。
 激動のこの時、何が行われていたのか。

 ダレスは、「日本に望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を狙っていた。そして、締結された旧安保条約は、そのとおりの内容となった。すなわち、日本に基地提供義務がある一方、米軍の駐留は権利であって、日本防衛の義務はない。また日本の「内乱」にも介入できる。「(日本を超えて広く)極東における国際の平和と安全」のためにも利用できる。提供地域を特定しない「全土基地化」、事実上の治外法権、失効には米政府の承認を必要とする(つまり米軍は望む期間駐留できる)、という極めて不平等なものであった。

 吉田茂や当時の外務省には、朝鮮戦争の後方基地を必要とする米国の事情を読んで、有利な交渉をしようとする意図もあった。しかし、早々から、日本は基地の「自発的なオファ」を申し出ている。
 その背景には、「朝鮮戦争で米側が破れるようなことがあれば、事は天皇制打倒にまで繋がりかねない」と恐れた昭和天皇が、吉田もマッカーサーも「バイパス」した上でダレスに接触した事情があった。昭和天皇は、吉田に代わる新たな諮問機関の設置を提案し、公職追放者達を復帰させるべきことまでほのめかしている。
 交渉の最中、吉田は、昭和天皇に三度にわたり詳細に内奏し、しばしば「拝謁」もしている。著者の豊下氏は、この間昭和天皇から吉田にご下問、ご下命があっただろうと推察している。

 「駐留米軍によって天皇制を守る」という昭和天皇の思惑が、日本側からの基地の自主的オファという形になった。条約にある「内乱への介入」も、昭和天皇の共産主義への恐怖に呼応しており、日本国民を駐留米軍によって制圧しようとするものだ。
 昭和の「天皇沖縄メッセージ」も同じ思惑から発せられており、基地問題という長い苦難を沖縄に与えた。人々の苦しみは、今も続いており、終わる気配もない。

 明治維新の時、尊王派の薩摩長州は錦の御旗を掲げ、官軍となった。会津など幕府方は、賊軍の汚名を着せられた。
 敗戦を経て、昭和天皇は、旧日本軍から駐留米軍にすばやく乗り換えた。敗戦後は、錦の御旗=国体(天皇制)を守る役割、を駐留米軍に与え、いうなれば駐留米軍が官軍になったのである。A級戦犯をはじめとする旧日本軍は、今や会津の位置に置かれている。A級戦犯を合祀し、遊就館で「日米開戦は米国に追い込まれたせいだ」と主張する靖国神社も同じだ。靖国神社が、A級戦犯合祀によって現官軍に逆らう賊軍の立場を明瞭にしてしまったことが、合祀以降天皇が靖国神社参拝を停止した理由ではないだろうか。

 ところで、会津の立場に追いやられた旧軍は、戦後どうしたであろうか。
 先に紹介した『地獄の日本兵』(飯田進 新潮新書) は、「おわりに」に「GHQの意向を受けて日本の再軍備に動いた旧軍幹部」をこう書いている。

 「旧軍の職業軍人を集めた「服部機関」なるものが、GHQから給与を受けながら再軍備の下工作に暗躍し」(中略)「旧軍人に対する公職追放令は解除され、職業軍人だった者たちが、続々と警察予備隊に入隊しました。それが今日の自衛隊の発端です。」(中略)「運良く生き残って本国へ戻り、また肩章をぶら下げる軍人のどこに恥を知る心があったのでしょうか。」
 つまり、旧軍幹部は、会津とは異なり、寝返ったのだ。

 私も、一部旧軍幹部の敗戦後の動きを如実に示す写真を見たことがある。テレビのドキュメンタリーで見て、その後あれこれ探しても見つけられず、ここに紹介できないのが悔しいのだが、再軍備が準備され自衛隊が創設されていく過程で、GHQ将校らと旧軍幹部・参謀たちが宴会をした、その際の記念撮影だ。軍服を着たGHQ将校数人と、浴衣の日本人20人ほどが混ざり合って、座敷に三段ほどの雛壇をつくって納まっている。GHQ側は一様にとまどったような表情であるのに対し、日本側は、皆楽しげにできあがっており、特に中央で大股を開いた人物は、大物ぶって徳利をとなりのGHQ将校に突き出しているが、私には卑屈さが混ざっているように見え、とても恥ずかしい写真だった。
 杜撰な作戦で多くの前線の兵士を死に至らしめ、国内外の数限りない人々を殺し傷つけてきた旧軍幹部が、戦争が終われば、鬼畜米英と呼んできた占領軍に擦り寄り、昭和天皇同様に乗り換え、「官軍」の末端に席を占める。ジャングルの泥や海底に朽ちて、会津のごとく捨てさられた兵士たちのことはすっかり忘れてはしゃいでいる。

 今、靖国神社の周りに集まる人々の中心にいる人たちには、このような旧軍幹部の系列に連なる人も多いのではないか? そして、自らの寝返りを糊塗するために、犠牲にされ打ち捨てられた(or 犠牲にし打ち捨てた)兵士達を顕彰するのではないだろうか?
 遊就館の出口近くには、戦争で亡くなった夥しい人たちの写真が掲げられている。靖国神社は、それらと向き合わせて、この宴会の写真を飾れるだろうか。
 今後、靖国神社は、どちらの側に立つのだろう。死に追いやられ打ち捨てられた兵士たちの側か、兵士達を打ち捨てて米軍に寝返った側か…。

 私は、靖国神社そのものは、実際には打ち捨てられた会津の立場に置かれていると思う。しかし、寝返った連中が、靖国神社を利用している。だとすれば、そこに祀られる戦死した兵士達も、利用されていることになる。靖国神社には、早くそのことに気づき、兵士の気持ちに寄り添い、顕彰ではなく追悼をして、戦争の愚かしさ痛ましさ悲惨さを広く世界に発信する施設になって欲しい。繰り返しになるが、それが靖国神社の存続にもつながる道だと思う。

 今回靖国神社について勉強し、特に『昭和天皇・マッカーサー会見』を読んで気づいたことは、愛国を叫ぶ人たちは真に愛国的なのか、真に愛国的とはどういうことか、ということだ。

 私は、日本の伝統・文化、自然、人々が好きだ。日本の未来を我々自身の思考・決断・努力で切り拓いて行きたいと思う。そして、日本が世界中の人々に貢献し、世界中の人々から尊敬され愛される、誇らしい国なることを望む。
 しかし、それを愛国と呼ぶことにはわだかまりがあった。愛国という言葉は、個性多様性を許さない専制的差別排外的な色がついていると感じていたからだ。
 ところが、今回勉強をしてみると、靖国神社は愛国を主張しているが、その愛国は国民に自己犠牲を強いるものだ、と分かった。国民を愛する愛国ではない。
 また、敗戦後、昭和天皇は、天皇制を守るために、外国軍(米軍)の駐留を望み、国土を差し出し自由に使わせた。すなわち、昭和天皇は天皇制と日本の国土・風土との間に駐留米軍を導き入れた、と言えよう。今や天皇制は、「倭は 国のまほろば 倭しうるわし」といった心情から遊離した単なる制度になってしまい、国土・風土から断絶している。天皇と国土の間には、外国軍(米軍)がいる。私がこれまで愛国の側と思ってきたものは、日本の人々も日本の国土・風土も、実は愛してはいなかったのだ。
 靖国神社に参拝しながら、米軍の下働きのために日本の若者を米軍の戦場に送り出す輩がいた。米軍の情報ネットワーク下・指揮命令下・配給下でなければ機能しないハイテク兵器のためにせっせと税金を払う。国内の医療体制は崩壊し、高齢者も障害者も困窮している中、若者を「自己責任」の一言で切り捨てる一方で、米軍には「思いやり」を絶やさない。愛国を標榜する人たちの大半は、愛国どころか、実は売国的ではないのか。

 愛国の椅子は、今や空席なのだ。愛国を叫ぶ連中の多くは、売国の椅子に座っている。愛国という言葉を連中の口に汚させておいてはならない。日本を、世界の市民と連帯しつつ、世界のあらゆる人々が平和のうちにのびのびと暮らせるようにしていく、そういう努力をする国にすること。どんな形であれ軍事力に頼ることは恥ずかしいことだと誰もが思う、そういう世界を率先して築く国にすること。それによって、世界中の市民から敬愛される誇るべき国にすること。それが真の愛国ではないのか。

◆7 一連の経験・学習から考えたこと

 冒頭に述べたとおり、私の拠って立つところは釈尊の教えだ。今回の話に合わせて再度その一部を簡単に要約すればこうである。

 執着のパターンによるそのつどの縁への自動的反応が、我々凡夫である。執着の反応は、そのたびに苦を生み出す。ほとんどの苦は、我々自身が作っている。自分という反応にいつも気をつけて、執着の反応とならないよう、苦を作らないようにせよ。

 我々が作る苦の中でも、最大・最悪のものが戦争だ。戦争は、人々の執着の反応が刺激しあい、相互反応し、同じ方向に走り出したときに起こる。それを狙って、自分の執着を満たすために、人々の執着に火をつけて操ろうとする輩もいる。
 しかし、我々がしっかりと自分に気をつけていることができれば、戦争は起こらない。そのためには、無自覚に「空気」に流されていてはいけない。多面的に冷静に見ることが重要だ。

 言い漏らしたことで、無自覚な思い込みに穴を開け、多面的に見るきっかけになってくれる情報をいくつか挙げておこう。

 こういった断片的な情報でも、知っていれば、世間一般の情報を鵜呑みにして皆と同じ単純素朴な反応に陥ることはない。目と耳を大きくして、幅広く見聞きすることが大切だと思う。

 しかし、自分ひとりが冷静な観察者でいるだけでは不十分だ。ドラマ「私は貝になりたい」が描くように、言うべきときに言うべきことを言わなければ、最後は責任を取らされることになる。「空気」がおかしいと感じたら、早い時点で声を上げねばならない。さもないと、どんどん発言しにくくなる。

 今回「正義と平和協議会」にお誘いを受けた際、何冊か資料を頂戴した。その中の「ピース9の会講演録『福音と平和憲法』」の松浦悟郎司教のお話で、こういう女性が紹介されていた。バスに乗ったときなど、ちょっとしたいろいろな機会を捉えてさりげなく平和について会話することを心がけておられるという。これはすばらしいことだと思う。

 この会も一例だと思うが、同じ考えの人同士で共感しあっていても、あまり意味はない。異なる考えの人と意見交換する努力が必要である。

 平和ボケに陥ってはならない。本当の平和ボケは、戦争の悲惨さ、むごたらしさ、愚かさを忘れること、そして、戦争へ向かいかねない自分に対する警戒を怠ることだ。戦争の実態を学び、自分という反応に気をつけていなければならない。

以上

*****追記

 翌日(10月11日)はいくつか分科会が組まれており、そのひとつは、四谷のイグナチオ教会でミサに加わった後、靖国神社に見学に行くというものであった。ところが、カトリック内部から右翼に情報を入れた人がいたようで、街宣車など数グループがイグナチオ教会に示威行動を仕掛けた。当日は日曜日で外国人信者も大勢集まる中、日の丸・旭日旗を押し立てた彼らの礼を知らぬ排外的行動は、日の丸に泥を塗るものであった。彼らは、日本を辱め、日本の足を引っ張っていると思う。街宣の引き合いにされた靖国神社も、彼らと一体とみなされたのでは、迷惑だったであろう。
 しかし、靖国神社が右翼に苦情を表明したと言う話は、寡聞にして聞かない。なにも言わなければ、靖国神社は連中と同じ穴のムジナと思われてしまう。もしそうでないなら、靖国神社は、なんらかのコメントを出すべきだと思うが、どうだろうか。

ご意見お聞かせください。
2009年11月15日 曽我逸郎

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