曽我逸郎

『破天』を読んで。佐々井秀嶺師のこと


2005年12月29日

 不思議な縁があって、『破天』(山際素男・南風社)を読んだ。インド不可触民の中に根付いて仏教をすさまじい勢いで復興しつつある日本人僧、佐々井秀嶺師の半生記である。以前から薦められて読みたかったのだけれど、絶版だか在庫切れで、近隣の図書館を探しても見つけられず、あきらめかけていた。ある時、村の真言宗のお寺のご住職と話していたら、「インドへ集団改宗の手伝いに行く」とおっしゃる。アンベードカルやその遺志を継ぐ佐々井秀嶺師のことを話したら、まさにその手伝いだとのこと。
 先日、そのご住職が「インドからやっと届いた」と持ってきてくださったのが、えび茶色の僧衣の端布に包まれた『破天』だった。かなり手垢がついて、インドっぽい匂いもする。読んでいくと、件の伊佐榮豊ご住職も弟弟子的な立場で登場しておられた。

 佐々井秀嶺師は、非常に魅力的な人物だ。私とは対照的な方だと思う。

 無謀とも言える高い目標を掲げ、それに向かって熱く一直線に進んでいく。普通、あれほどがむしゃらに進んだら、様々な苦をあちこちに撒き散らしてしまうものだ。捨は、そういう間違いをしないために、自制し確かめながら慎重に行動することの教えだと考えてきた。
 しかし、佐々井師には、抹香くさい自制はない。目覚しい活動で多くの人を巻き込んでいるにもかかわらず、人に苦を与えることがほとんどないように見える。逆に自信や活力を与えている。歴史上の様々な抵抗運動や解放運動が、まず例外なく多くの犠牲者を双方に出しているのとは、著しく異なる。
 これはどうしてだろう。

 被差別民衆や仏教徒の側だけでなく、上位カーストの側にも物理的な運動弾圧をしないという「徳」があるのだろうか?
 佐々井師が、外見のような直截な人ではなく、実はよく状況を見極め、深く先を読んで行動する戦略家なのだろうか?

 いや、おそらくは師の性格によるのだろう。

 まず、その私欲のなさ。正論のために正論を主張し、なにかのために正論を利用することがない。愚直なまでに正攻法で正面から取り組み、表裏がない。いつも民衆と共にいる。師と同じだけ私心なく、高い理想に基づく正論を掲げなければ、師に対抗することは難しい。
 そして、ストレートな行動力とは裏腹の、しばしば自信を失い自己嫌悪に陥って揺れる師の人間らしさも、人々には魅力に映るのだろう。

 師の仏教観も、私には不思議だ。幼い頃、周囲は日蓮宗だったようだが、自覚的に仏教を求めた時は、有名な寺を宗派を問わず次々と訪れている。結局真言宗で修行し出家したが、たまたまの縁に導かれた結果である。タイ上座部に留学し、インドでは日本山妙法寺とも深いかかわりを持った。夢に導かれてナグプールに赴き、アンベードカルを知った後は、その仏教も一心に研究している。インドの人々の求めに応じて、赤ちゃんの命名式や新築の儀式ではパーリ語でお経を唱え、憑き物祓いをする時は、団扇太鼓で南無妙法蓮華経を唱える。

 このこだわりのなさは何なんだろう? 私にとっては、これらの「仏教」は、相矛盾し両立し得ないものなのだけれど、師にとっては、問題はないようだ。なんであれ苦を抜くことに役立てば、それでいいということだろうか?

 師のような行きかたで仏教に向かうことには大いに憧れを感じる。しかし、私には真似はできない。私は私のスタイルで、とぼとぼと遅い歩みを続けていくしかない。

 『破天』、年明けに中川村図書館に置いてもらいます。近隣でご興味のある方は、どうぞご利用ください。

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 ご意見お聞かせ下されば幸甚です。

2005年12月29日 曽我逸郎

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