曽我逸郎

《前野隆司『脳の中に「私」はなぜ見つからないのか?』を読んで》

2007年9月3日


 慶應義塾大学の前野隆司先生のお計らいで、新刊『脳の中に「私」はなぜ見つからないのか? ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史』(技術評論社)をお送りいただいた。お礼と感想のメールをお送りしたので、ここに転載する。
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慶應義塾大学理工学部機械工学科教授 前野隆司様
 cc:技術評論社書籍編集部 **様

拝啓

 技術評論社書籍編集部の**さんより『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか』を送っていただきました。ありがとうございます。感想を書かねばと二度拝読いたしましたが、雑事にかまけてお礼が遅くなり、まことに申し訳ありません。

 『脳はなぜ「心」を作ったのか』からの発展・展開と思って読み進めましたが、東西の先哲から現代に至るさまざまな考えについての記述が多くを占め、あれっと思いました。気づいてみれば、サブタイトルにはしっかりと「思想史」と謳ってあり、自分の注意力のなさを改めて感じた次第です。

 私のサイトを見て頂いたようなのでご存知かと存じますが、私は、釈尊の教えににじり寄りたいと思っており、その核心、ユニークさ、最も理解しがたい点は、無常=無我=縁起だと考えております。釈尊の教えを理解し、検証し、仮説を解体再構築し、さらに理解を深めていくためには、仏教の学問的研究だけでも、修業・体験だけでも不十分で、最新の科学の知見をも含めて使えそうなものはすべて総動員したなんでもありの総力戦の努力が必要だと感じています。釈尊の教えに間違いがないのであれば、そうしたすべての検証に耐えられる筈です。そのような「なんでもあり」の一環として、脳科学や認知科学も齧ってみる必要を感じ、その流れで『脳はなぜ「心」を作ったのか』を拝読した次第です。

 前野さんの仰る「受動意識仮説」は、釈尊の説かれた無常=無我=縁起と、理論的には同じ考えだと思っています。無常=無我=縁起とは、「私」というものがあらかじめあって、それが感じたり意欲したりするのではなく(無我)、身体という場において、そのつどの「縁によって起こされる」反応、すなわち、むっとしたり、照れたり、欲情したり、そうしたそのつどの脈絡のない(無常な)反応が「私」だという考えだと解釈しています。

 ですから、無常=無我=縁起は、受動意識説(「仮」は取ります)と基本的に同じ考えだと思います。ただ、勿論、釈尊の教えはこれで尽くされる訳ではけしてなく、前野さんも書いておられるとおり、「いかに第一人称的に感じ取るか」が課題です。「人は誰も皆死ぬ」、と頭では分かっていても、「この私が今刻々と死につつある」とはなかなか実感できないのと同じです。(生命は受精の瞬間に死に始める。生きるとは着々と死を完成していくこと。)

 無常=無我=縁起を自分のこととして納得できない(無明)ために、人はありもしない「私」に執着し、その結果、要らぬ苦を撒き散らし、自分を苦しめ、互いに苦しめあっています。苦の生産を停止するためには、執着の反応パターンを細らせねばならず、そのためには、無常=無我=縁起を、単なる理屈の理解に止まらず、「第一人称的に」腑に落ちて納得しなければなりません。釈尊の教えは、そのための実践的なカリキュラム(八正道や戒定慧)も備えています。

 前野さんが思想史の大きな流れとして捉えておられるとおり、人類の智慧は受動意識説≒無常=無我=縁起に辿りつきつつあると感じます。なによりも、ロボットの研究をしてこられた方が、研究の必然に導かれて受動意識説に考え着かれたということが象徴的です。

 かつては異端とされた地動説が今では万人に受け入れられているように、受動意識説≒無常=無我=縁起が、さらに科学の補強を得て、パラダイムとして世界に定着することを期待します。そうなれば、誰もが第一人称的にそれを納得することは無理だとしても、世界で生み出される苦は多少なりと減るのではないかと思います。
 そういう意味で、前野さんには益々ご活躍を頂き、受動意識説をさらに広く世に問いかけて下さいますようお願い致します。

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 以上は、全体的な感想です。細かい部分、特に仏教に関しては、いくつか考えの違う記述もありました。しかし、前野さんは仏教を主題的に問うておられるのではありませんから、それらについては触れません。仏教以外ところで、2点ほど触発されたところを書きます。

 ひとつは、意識の機能についてです。前野さんは、「エピソード記憶のため」としておられ、おそらくそれと連結していると思いますが、私は、意識がもたらす最大の「成果」は、執着ではないかと考えます。執着によってヒトは、闘争心・競争力が増すのです。それは目先の競争力にすぎませんが・・・。

 生命とは、反応が自己維持・自己増殖をするように反応する反応であり、時々の状況に"受動"的に反応して自己維持・自己増殖すべく自動的にもがき足掻きます。このことは、すべての生物にあてはまります。クオリアによって条件反射が可能になるまでは、比較的単純な機械的ともいえるもがき足掻き反応だけですが、クオリアに加えて意識が発生すると、もがき足掻き反応も条件反射からさらに進化し、執着のレベルに達します。自己意識(自分の対象化・実体視)によって執着が我執になり、こうしてもがき足掻き反応は先鋭化します。執着反応の強いヒトは、そのつどの局面においては強力な競争力を発揮し、競争・淘汰の上で有利に立ちます。
 エピソード記憶を駆使したシミュレーションによって執着はどんどん研ぎ澄まされ、反応はますます高度化ていきますが、ある時、そのシミュレーションによって、執着はかえって苦を作り出していることに気づく時が来ます。その気づきが切実であれば、執着は方向を転じ、宗教的努力・発心・精進となります。宗教的努力・発心・精進は、世俗的な執着が深化して脱皮したものだと思います。こういったことが可能になるのは、意識のおかげではないでしょうか。

 もうひとつは、今述べたこととも関連しますが、受動意識≒無常=無我=縁起と、自由・主体性・決定論・努力などとの関係についてです。

 受動意識≒無常=無我=縁起であるならば、当然、自由や主体性はあり得ません。そのつどの縁によってそのつどの反応は決まります。ただし、これは宇宙全体の歴史の展開が決定論的に定まっているという意味ではありません。書いておられたとおり、あらゆる場面でゆらぎがあり、それがカオスによって拡大されるのですから、宇宙の展開は非決定論的で予測不可能です。しかし、それでもそのつどの私という反応は、偶然も含めた縁によって定められるのであって、「私」が主体的に自由意志によって線路のポイントを切り替えるように反応を選ぶことはあり得ません。そもそもそういう「私」はもともとないのですから(無我)。
 このことは、前野さんも同じ考えでいらっしゃると思います。

 しかし、釈尊は精進を説かれました。普通の言葉で言い換えれば、努力です。現実に、我々は努力をします。受動意識≒無常=無我=縁起であるのに、なぜ努力・精進は可能なのか? 努力は主体性の現われではないのか? 主体的である努力が可能であるということは、無常=無我=縁起が誤りである証拠ではないか? かつてこの質問をぶつけられたとき、私にとって急所を突かれるものでした。

 でも今では、この問いは、感じるほど深刻なものではないのかもしれないと思い始めています。
 精進は、執着がよりよい生き方、目先の損得を超えたよい生き方を模索してバージョンアップしたものですから、精進も執着も基本的に同じ反応であり、まとめて努力と考えることができます。努力は、もがき足掻き反応の進化した形ですから、全生物共通のもがき足掻き反応と同様に縁による自動的"受動的"反応である筈です。
 つまり、人間は、自動的受動的に努力する、と考えます。人は、エピソード記憶を組み合わせて、さまざまにシミュレーションを繰り返し、より得な反応を見出そうとする。これは自動的受動的な反応です。それによって新たな反応パターンが発見されますが、それはそれまでの反応パターンと競合します。例えば、お菓子や酒やタバコについ手を伸ばしてしまう反応パターンと、節制してそうしたものから遠ざかろうとする反応パターンというように・・。努力とは、反応パターンを改編する反応であり、他の反応と同じく自動的受動的な無常=無我=縁起の反応だと思います。

 誰かの良き反応改編につながる縁となることができれば、すばらしいことです。私も、多少はそういう思いも込めてホームページを続けていますが、逆に、さまざまなご意見・ご批判を頂くことによって、私の方がたくさんのよい縁をもらっています。私の場合、せっかく頂いた縁を生かせず、なかなか反応パターンの改編はできませんが、それでもありがたいことです。

 前野さんの2冊の本も、よい縁となりました。今後も何かのきっかけで思い起こし、今は気づいていない新たな気づきを得ることがあるでしょう。感謝いたします。御研究を発展進化させて、さらによい刺激を与えて下さいますようお願い申し上げます。

                              敬具

      2007年9月3日
                              曽我逸郎

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