《遺書》

0.1号 2003年6月


 初めにお断りしておこう。別に自殺しようと思ってこれを書く訳ではない。漠然と死に憧れた事はあったかもしれないが、私は、本気で死のうと思った事はない。

 私は、刻々と死につつある。時間の中の無我なる縁起の現象である以上、それはあたりまえのことだ。にもかかわらず、私はそのことを本当には分かっていない。自分が死につつあること、自分が時間の中の無我なる縁起の現象であることを納得する、そのための一助として、遺書を書こうと思う。
 本気で自殺しようとしている人には、ずいぶん贅沢な、余裕のある話に聞こえるだろうか。本当はそんな筈はない。我々は誰も、刻々と死につつあるのだから。確かに、世の中には余裕のある贅沢な自殺というものもあるようだが、、。
 私は、目的のない生をちゃんと生きるために遺書を書く。

 とりあえず思いつく事を、家族宛を想定して書くことにする。死の自覚が足りないので、底の浅い遺書にしかならない。今後、なにか思い至る事があれば、書き足し、書き換えていきたいと思う。


 我侭を言いますが、宜しくお願いします。

曽我逸郎

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