《遺書》
0.1号 2003年6月
初めにお断りしておこう。別に自殺しようと思ってこれを書く訳ではない。漠然と死に憧れた事はあったかもしれないが、私は、本気で死のうと思った事はない。
私は、刻々と死につつある。時間の中の無我なる縁起の現象である以上、それはあたりまえのことだ。にもかかわらず、私はそのことを本当には分かっていない。自分が死につつあること、自分が時間の中の無我なる縁起の現象であることを納得する、そのための一助として、遺書を書こうと思う。
本気で自殺しようとしている人には、ずいぶん贅沢な、余裕のある話に聞こえるだろうか。本当はそんな筈はない。我々は誰も、刻々と死につつあるのだから。確かに、世の中には余裕のある贅沢な自殺というものもあるようだが、、。
私は、目的のない生をちゃんと生きるために遺書を書く。
とりあえず思いつく事を、家族宛を想定して書くことにする。死の自覚が足りないので、底の浅い遺書にしかならない。今後、なにか思い至る事があれば、書き足し、書き換えていきたいと思う。
- 墓は要らない。どこか見晴らしのいい日当たりのいい山の斜面に骨(灰)は撒いて欲しい。インターネットで、ばら撒くだけで埋めなければ墓地埋葬法には抵触しない、と読んだ記憶がある。子供と妻には、その山が目に入った時に、私を思い出してもらえるならうれしい。私を知らない人に私を思ってもらう必要はない。山に撒けなければ、畑に撒いてもらってもいい。うまい野菜になれれば、それもうれしい。
- 葬式は、私のためではなく、残った家族の地域における社会生活上の要素が大きいと思う。できるだけ簡単に、でも地域が対応に困らないようには配慮して、必要最低限のレベルで段取りを立てて下さい。地元の葬儀会社に相談すると楽だと思います。
但し、戒名はいらない。死んでから戒を授かっても意味はない。清め塩も不要。死はあたりまえの事であって、不浄ではない。何回忌というようなものも無用です。
会葬御礼の配り物は、岩波文庫「ブッダ最後の旅」にしましょう。釈尊の最後の言葉「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい。」の横にマーカーで線を引いて下さい。「あたりまえ・・」のホームページタイトルとURLを、手彫りのゴム判でもなんでもいいので(但し、印刷した紙を挟むのではなく)、扉ページの前後に入れてください。四弘誓願も同様にお願いします。手数かけますが、宜しくお願いします。
- 「あたりまえ・・」ホームページは、少なくとも「仏教とはどういう教えだろうか」という問いかけにはなっていると自負するので、なるべく長く残して下さい。どなたか引き継いでくれる人を見つけてもらえたら、もっとうれしく思います。もし、何らかの形で私の死後も展開してもらえるなら、管理者以外の誰かが仏教以外の領域で私的に傷つくものでない限り、寄せられたすべての意見が公開されるようにして下さい。
- 心臓と脳で死が確認された後、遺体は有効に使って下さい。脳死臓器移植には反対しますが、脳も心臓も死んだ後、移植できる部分があれば使ってください。例えば角膜? 残った部分は、医学部学生の解剖実習の材料にして下さい。
我侭を言いますが、宜しくお願いします。
曽我逸郎
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